勘太郎さん初めまして、貴方の投稿を5本もプリントアウトして読み込んでいまし た。ご自分の頭で考えられた諸命題に肯く所が多かったからです。赤根さんお久しぶ り、今回は貴方の勘太郎さんへの投稿にも触れてみます。
さて、原理主義的社会主義論とは山田盛太郎さんが批判的に言いそうな言葉で、僕 はこれを以下のように左翼内左翼の思想に関わらせてみます。赤根さんがこういう類 の勘太郎さんの批判的発想にちょっと「唯物論的」に反論してみたのが、「存在が意 識を規定する」ですね。お二人のこんな論議を、傍らで好もしく読み、ここに介入す ると少々発展的な討論が展開できそうだということで、やってみます。なお僕の立脚 点は、昨年11月から「組織論、運動論」で展開してきたとおりのもので、哲学的に は主体的・実践的唯物論と呼ばれるようなもの、政治学や「組織論」としては社会民 主主義というところでしょうか。
「存在が意識を規定する」という概念は僕も使ってきましたが、その場合はいつも 「そういう側面から見ると」という前提を付けてのことでした。この側面を絶対化し た唯物論は、機械的唯物論にしかならないと思うからです。その酷いものは、「物質 と意識」という概念を「全てをこの『類推』で決着付けるような方法論」のようなも のとして使います。なにか原理的な対概念があればいつも「物」的な方から行けば大 丈夫という「類推」的な発想というのでしょうか。そうなると無意識なんですが、上 部構造の相対的独自性、その土台への反作用といわれた側面なんかは結局無に等しく なり、もう「物質」主義という宗教に近いものになってしまう。「物質と意識」とは 本来、世界の始原という最も抽象的な哲学的側面の議論でしかなかったはずのものな のに、神が眼前の世界の全てをいつも「物質」(的なもの)から論じよと命じたとで もいうようにです。物質と意識、土台と上部構造、労働者階級と市民、貧困と富など など、これらの区別が絶対的なものになった上で、その間の弁証法、連関というもの が実質的にはなくなって前者だけが存在するとなってしまう理論と言ったら良いので しょうか。厳密に言えばもうちょっと違って、後者も存在するのだがその存在は「前 者を『認識』するべきもの」という形でのみあるというものです。もっと言えば、 「後者には前者がすぐ分かるはず」と思い込んでいると言ったら良いのでしょうか。 左翼内左翼の方々の思想には、こういう教条的発想で実践らしい実践というもの(こ れは、上記の対概念では全て後者に属するものとなります。だって、現実のそれらし い実践的人間は物から出発しているだけではなくて、意識、関心から始めますもの) が無意識に見えなくなっているということはなかったでしょうか。これは残念ですが、 不破、志位氏たちも原理的には同じと僕は考えてきました。最近ますますなし崩し的、 原理的断片的には変えられてきてはいるようですが。
さて、この点では勘太郎さんは原理的に違いますね。少数者への富の集中を資本主 義の最大害悪と見抜いた上で、さらに現下のパレスチナ、イラク問題の背景に石油も あると見た上で、古代宗教の独自作用をそれと同格に強調されるのですから。僕もずっ とここで述べてきたように、宗教は宗教自身の中で論じなければ説得的にはなりえま せん。宗教外のものを持ち込んで、木で鼻をくくったような論議をしても相手にされ ないでしょう。赤根さんが言われるようにある宗教が持続、強調される現代政治の背 景に資本主義や石油なんかがあるという局面があるとしても、石油や資本主義でその 宗教自身を黙らせるなんてことは到底できはしないはずです。宗教者と真に対話する とは、その内部に立ち入ったり宗教問題発生の基盤自身をもなくしていったりしなが ら、長年かけてできることだから、現実問題での宗教者との共闘はあくまでも限定共 闘として進めるべきということでしょうか。これが本当に相手を尊重するということ でもあるんじゃないでしょうか。過去の共産圏であれだけキリスト教が根強く残って きたという問題は「唯物論者」が考えたようなそんな簡単なことじゃないと、もっと 認めようと僕は言いたいんです。
さて、次にこういう発想で、「人間諸階層の中で最も『唯物論的要素』たる『労働 者階級』」という概念も僕流に見直してみましょう。これはイタリアで共産党を左翼 民主党に改称した時にも最大動機の一つとして論議されたことですが、そもそも「労 働者階級」って存在するんでしょうか。存在するということはその概念規定も大筋変 わらないままにしっかりと存在するということなのですけれど。資本主義の搾取をな くすこと、「資本主義の墓堀人」を社会的・歴史的な使命とする人々? いや、日本 と世界のこの五十年は、搾取以上に気になるものがあった、それで民間労組がみんな やられた、そうじゃなかったですか? 以上を素直に認めましょうよ! QC運動、 提案での参加、評価、プライド、大企業労働者のエリート意識的帰属意識、そしてこ れら全てを育むような労使協調の人間関係。これらは単に「生活、賃金、その搾取」 じゃなく、それ以上のものだったんじゃないか。レーニンが帝国主義論を書いたとき、 独占の植民地支配による増収のおこぼれで労働貴族を養いえたというのを歴史的新局 面として強調しましたが、あそこではひょっとして金より人間評価の方が大きかった んじゃないでしょうか。こういう全てから「労働者階級」というものは(基本的規定 を変えずに)存在するものですかと言いたいんです。労働運動は資本のある傾向に対 するものとして普通の限定的な一団体としては存在しましょうが、その歴史的・社会 的・政治的使命なんてね、そんなものは多分ありませんよ。だから当然、それらしい 階級闘争というものもね。僕は全労連系のある巨大労組の末端でそれなりの立場で長 年動いていましたが、このように全能な「労働者」の存在を常に疑ってきて、彼らこ そが未来を開く主体とは最後まで思えませんでした。そもそも今の日本共産党から、 主婦的中年女性と民商と官公労(民間労組とはちょっと違います)と専従と議員とな どの党員を除いたら、何が一体残るのでしょうか。これで労働者階級の党? 笑えま せんか!? それとも、世が世であるならば一朝にしてそういう労働者の党ができあ がるとでも? これは、「唯物論」としては最も周辺的要素である、教条主義的な人 の意識の中にだけある幻想というものではないのでしょうか。史的唯物論の物質的担 い手が、教条主義的意識の産物としてのみ存在し続けているとはなんとも皮肉なこと ですが、社会主義国などの過去の実態を冷静に眺めても、そうとしか言えないんでは ないかと僕は考えるのです。一党独裁の官僚主義に有効な抵抗もできなくて、自分ら の国家だったはずのものを変質させ、潰してしまって、資本主義社会にまた戻してし まった労働者階級の先進性なんてなー、というわけです。
なおまた以上のことは、この新たなグローバル時代のいっそう厳しい資本主義におい ても原理的になんら変化したという事態ではないと考えています。未来においてもこ れは変わらないことでしょう。
さて以上の論考について勘太郎さんや山田盛太郎さんはきっと賛成されるでしょうね。 そして僕はそういう人々にもっともっとここで語って欲しいと考えています。「物質」 や「労働者」への信仰告白のような仲間内だけの議論では、発展性がありませんもの。 皆さんの賛否両様の言及を期待するものです。
なお最後に一言お詫びを。以上をかなりきつい語調で語ってきたことについてです。 僕の過去のいろんな場所で教条主義的唯物論に反発してきたその歴史がどうしても僕 を頑なにしてしまって、きつい語調にさせてしまう。申し訳ありません。そういう過 去のいらいらを発散させるというような調子なんですね。反省的自戒も込められてい るから余計きつい語調になってしまう。腹が立ったらお許しを。無理かもしれません が。