人文学徒さんへ
私は「存在が意識を規定する」というテーゼを何度かの投稿で使用していますが、こ のテーゼを引く理由はほぼ共通しています。それは「人間の意識(観念・イデオロギー ・主張・見解等々)はその存立基盤にまで視野を広げて吟味する必要がある」という ことです。現実から遊離したところにまず意識ありき、と捉えるところには意識の絶 対化が生じます。それは例えば他者の意見に「賛成か反対か」という二極対立した姿 勢しか取れない狭さを生み出しますし、それが高じると「礼賛するか排撃するか」と いう姿勢も生み出すわけです。
先日も人文学徒さんに「それぞれがそれぞれの現実を背負って意見を書いている」と 書きました。「存在が意識を規定する」と考えればこそ、そこで背負われた他者の現 実に触手を伸ばしてみようという気にもなるわけです。それは認識主体=個体として の自己が宿命的に背負っている認識限界から少しでも抜け出ようとするならば必要な ことだと思います。機械的唯物論者の拙い点は、他者の背負う現実を自分の抱える現 実と区別せず、現実を「客観的実在だから」という理由で一色に塗り込めてしまった ことかもしれません。それは人文学徒さんもご指摘のように、近代(科学・哲学・思 想等々)が主観と客観をキレイサッパリ分離してしまったことに関係しているのでしょ うね。
労働者階級の存否問題もここから繋がりそうですが、私の能力の関係上とりあえずこ こまで。
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なお、「宗教は宗教自身の中で論じなければ説得的にはなりえません」とのご指摘で すが、我々の世界が直面している問題は果たして「宗教問題」なのだろうか?という 疑問が常に私の念頭にあります。少なくとも原理主義が宗教それ自体から生まれたと する考えは誤っていると思いますね。原理主義の現実的存立基盤こそが問われねばな らないと思います。もちろん「アメリカが悪い」みたいな単純な議論は実際の役には 立たないのですが。