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「組織論・運動論」討論欄

人文学徒さん 浜吉さん さつきさん

2004/07/01 山田盛太郎 50代 研究者

 本来ならもっと早くレスしたかったのですが、6月に入って一般投稿欄の独善的な投稿傾向についていろいろ書き込みをし、余裕がなく、失礼しました。私の投稿はすべて未掲載になりましたが、意のあるところは編集部に理解してもらえたような気がしております。
 憲法改正が具体的な日程に上る危機的状況で、平和・人権擁護の立場からの多数派結集こそが最大の課題と思います。共産党が多数派形成に失敗し続けてきた最大の理由のひとつは、自分達こそ真の革新であり前衛であるという思い上がりにあり、自分達に寄せられた批判を決して受け止めない姿勢にあり、その根源は、史的唯物論によって歴史を見通し、社会的真理を体現する立場にあると自己規定しているところにある、これが私の批判のひとつです。
 投稿欄で跋扈していた議論こそ、その理論なきミニチュア版であり、市民と手をつないで多数派を形成する上で、根本的に改めるべきであると考えていたものです。
 私は、人文学徒さんより一世代下のようです。大学紛争終息後大学に入り、学生・院生時代を通じ、寮や学生自治会で活動し、就職してからも組合など大衆団体で活動を続けてきました。当時、すでに学生運動は沈滞期に入り、自治会役員を選出するのにも一苦労でした。
 先輩の党員活動家に役員をお願いしに行くと、「今は研究して就職するほうが先だ」と断られ、それはそうだと思いつつ、こちらは奨学金とアルバイトだけで研究時間も十分ではないのに、朝から机に向かっている彼を見て、それは不公平だろう、とさびしく思ったものでした。
 約20年間、さまざまな分野で自分なりに努力してきましたが、最大の障害は民主集中制でした。幸いにも就職した後も、活動を続けてきましたが、特に、労戦統一問題の時には、都道府県の教員組合運動では、社会党主流派の日教組との関係が微妙になりました。高等学校教員の組合は、当時左派(共産党系)、右派、未加盟がほぼ3分の1であり、私が日教組の県支部、高教組と協力して教育研究集会を開催するよう努力していたときには、高教組の幹部は日教組と対立路線をとっていたらしく、共同に努力する私を陰で批判し、県委員会を通じて圧力を加えてきました。
 支部の会議では、支部役員から「あなたのやったことは組織原則違反になる」などといった批判が先輩党員から投げかけられ、私は激怒しました。共産党系組合として自立し、今日の全教を組織するかどうかは、県の事情で異なっており、そんな方針はどこにも存在していなかったからです。にもかかわらず、同じ党員と知ると、高教組の委員長が共産党委員会の役員であるというだけで自分の個人的意見を押し付けようとしたのです。
 実際に働いている現場の状況を無視し、それこそ党派的なエゴを大衆運動の現場に持ち込もうとしたのです。民主集中制を建前に、個人的な見解を組織の方針にしようとした行動を目にしたのは1回ではありません。これはただの上意下達に過ぎない。言葉と実際がなぜこんなに異なるのでしょうか。それは、自分達が正しいことをしているという思い上がりがあるからです。そしていったん上級者が誤りや強引な組織運営を行っても、それを是正する術はないのです。
 特に、町議クラスが不正腐敗を行っても、県委員会との強いパイプがある上に、組織防衛が働き、決して明るみに出そうとしません。こうした事例を目にするにつれ、いったいこの組織の市民感覚はどうなっているのだろうか、と疑問はとめどなく大きくなります。ついに、古在由重さんのようなヒューマニストに対する扱い、野坂参三という人物のいかがわしさを長年放置してきたことなどが累積すると、もうこの組織はだめだと思うようになり、離党することにしたのです。
 そのときに、改めて規約を読んで笑ってしまいました。今はどうか知りませんが、規約には、自分の意志で離れる規定がなく、処分か12条適用(党費未納)しかなかったのです。集会結社の自由すら規制する組織であるとは、思ったこともなかったからです。何の未練もありませんでした。
 一個人になって感じたのは「自由」の感覚です。レベルの低い中央委員会決定だのを読む必要はありません。批判も自由ですし、納得できないことに従う必要もありません。自分自身の良心のみに従って考え、発言し、自由に人間関係を構築できます。その重みと、自己責任の達成感、自分の行動原則を、なにかの方針や文書に依存する必要はないことのすばらしさ。
 そして、いったんあの人間関係を離れると、なんと世の中にはすばらしい知識があり、すばらしい人間がいることでしょうか。共産党なるものが、人間の内面をかくも制約していたとは思いもよりませんでした。
 しかし、私は20年間の活動を悔いてはおりませんし、共産党の政治的な意義も理解しているつもりです。学生時代に私は大衆運動の活動で行き詰まり、ノイローゼ状態になって自殺を試みたことがありました。旅館に泊まり、浴衣の帯を首に巻きつけ、鴨居に縛りつけ、何度飛び降りようとしたでしょうか。一晩中試みてついに踏み切れず、首は帯でこすられ真っ赤になり、数ヶ月はひげをそるたびに出血しました。
 結局、家族の下に帰って私は癒され、何年かかかって立ち直ることができましたが、そのとき、私の自殺を食い止めたのは、多少なりとも大学の中で活動家として知られており、死んだら党や運動に迷惑がかかる、ということでした。悲しいことに親が悲しむことなど頭にも浮かばなかったのです。思えば、思い上がりは私自身の過去の中にあります。しかし、そのときの私は全力をあげて民主主義のために戦っていたのです(この「戦っている」という自己陶酔、ヒロイズムが問題なのですが)。どんなに未熟であれ、私がそうして生きたことはまぎれもない事実であり、そのことには、誇りを持っています。
 私は共産党が再生するとしたら、幅広い市民感覚を基盤にヒューマニズムの精神を持った人々が集うことによってのみ可能だと思っています。真の左翼を追究することは無意味なだけでなく、害悪でさえあります。政治は人間に根ざした価値を実現することであり、なにかの原理原則に依拠し、それを具体化することはではありません。それは政治ではなく、宗教というべきです。現に共産党が掲げている政策のほとんどは、科学的社会主義やマルクス主義がなくとも説明できるものです。
 だからこそ、左翼的言辞で自己陶酔し、他者を侮蔑する発言は許すことができないのです。人間の革新とは小さなことです。他者の苦しみに共感できるかどうか、身の回りのヒューマニズムを実現できるかどうかです。政治的集会への参加数を誇り、ウェブの投稿で攻撃する精神がどうしてこれからの人間の連帯を作れるのでしょうか。
 また、あざとい北朝鮮擁護論など、無辜の拉致被害者と家族の苦しみに共感できない人間的欠陥と政治主義を露呈するもの以外の何者でもありません。
 人文学徒さん まだ世界は終わっていません。私たちは、命尽きるまでそれぞれの生活圏で自由と平和を希求する人々のために、また私たち自身のために、決して何かの信条や原則を実現するためにではなく、努力し続けることでしょう。