山田盛太郎さん、お久しぶりの登場、大変嬉しかったです。20年の誠実で、悩み多い活動からの大切な体験、言葉をありがとう。ここに書いてあることは大部分僕らと同じ思い、人生を味わってきたのだよとのエール表明と受け取りました。多分、浜吉、さつきさんも同じように受け取られるだろうと僕は推察しています。まずそういう共感ということで、嬉しかったです。ただ討論として、「僕とはここが違うかも知れない」ということに関わる一部分についてのみ以下に記してみます。全体としての共感表明への僕の心からの感謝は全く変わらない、その上のことですとあらかじめお断りをしたうえのことですが。
山田さん、このご投稿の趣旨は杞憂かも知れないけど正直言って「共感」だけではないように読めました。直接には書かれていないのですが次のこと、一種のダメオシが含まれているように見えたのです。貴方が意図されたかどうかは別にして、客観的には以下の主張も含まれることになると思うのですが、どうでしょうか。「貴方たちも原理、原則の残滓は捨てて、市民感覚、ヒューマニズムだけで行きましょうね」、「もっと自由になれますから」と。もしそうであるなら、僕はもちろん、多分浜吉、さつきさんももう既に「自由」なのだと、僕は貴方に申し上げたいんです。以下、10年ほど年長者の杞憂とご笑読ください。
貴方の文章の中で、「原理、原則」(以下、この「原理、原則」は、貴方の次の言葉に置き換えても良いです。「社会的真理」、「真の左翼」)の「規定」がないと思ったんです。これだと、僕ら3人の文章の中にそれらを見出して、不必要に疑問を構えるということも容易にありうるということにはならないでしょうか。僕で言えば世界史的過去の分析にはそういうものがかなりありますが、未来のことに関してはそういうものは極めて少ない積もりです。それは11月以来今までの僕の文章を読んでいただけば明らかなとおりです。このたとえば歴史的過去の分析でも原理原則はいけないと言われるのでしょうか? そこから出てくるごく少数の未来提言も? さらに僕は「理論」っぽいことをしゃべってきましたが、それも貴方から見れば原理原則をやってることになるのかも知れない、そんなふうにも思っていました。逆に言えば、「市民感覚」、「ヒューマニズム」は、「普通の感覚」というものであって、原理原則のようなものではないと主張されるのでしょうか? こうして端的に言えば、原理原則なしとは、言葉を使う人間である以上はありえないことだと僕は言いたいのですけれど。人間一つの「命題」を主張したら好むと好まざるとにかかわらず、もうそれで一つの原理原則を持っているよと外に向って表明したことになるんではないでしょうか。(なんか、ソクラテスかヘーゲルっぽい物言いですが、やはりこれも真理の一つの側面なんで) それを「そんなものは持つな」と言われているようなあなたの言葉遣いが僕には分かりにくいんです。いや言わんとするところが多分貴方の深刻な感情が絡むことであって、その感情がきちんと「対話」になされていないんじゃないかと、僕はそんなふうに考え込んでいたものです。
こうして僕は言いたいんですが、貴方が「原理原則」というような言葉に込めた感情をもう少し言葉として明確に規定されないと、あなたご自身が袋小路に入ることが起こるんじゃないでしょうか。気づかないうちに。今一度そこを明確にされた文章をご投稿くださいませんか。なお、僕の命題、概念の何かに「原理原則」を感じられたとしたならば、ご遠慮なさらず実例としてそれを取り上げられて「こう、おかしい」とお伝えくださっても構いません。このやり方のほうがむしろ生産的です。「原理原則」、「社会的真理」、「真の左翼」を「言っているようだから」おかしいではなくて、「『普通の感覚』を言っているようで、『人間は普通の感覚に就くべき』だから」正しいでもなくて。なお、原理原則が存在すると人が好むと好まざるとにかかわらず振舞わざるをえないのと同様に、社会的真理の断片はやはり存在しましょうし、本当の左翼というものを仮に「ヒューマニズムをより多く実践する者」という意味だよと規定するならば、貴方もお認めになるようにそれに近い人々はチマタにも多く、やはり存在するでしょう。
なお、以上を読んでいただいた上での杞憂も一言。以上のように述べたからといって僕は別に「もっと社会的真理に基づく、真の『左翼』らしい党」を作れと言っているわけではまったくありません。今の党が「真理の党」、「『科学の目』の党」であると偉そうに振舞いすぎるから、「そうだとしたらこうおかしいよ」とここでずっと指摘してきただけであって、僕が望む党はいわば「真理論」に基づく党ではなくて、当面のヒューマニズム的行動目標の一致に根ざす社会民主主義的な党です。これは僕がずっとここさざ波で述べてきた通りです。もちろん、こういうゆるやかな行動的一致点に基づく党が、実践や政策作りのために社会や人間について広く、深く研究する機関を持つということを妨げるものではありませんが。なお今でも党がどんどんなし崩しにこうなってきていますが、民主集中制はもっともっと崩れ、こういう自由な「党論」も前面に出てきて、「真理」の権威であった旧幹部は辞めざるを得ぬ事態も起こり、やがてはあるべきところに収まっていくという、こういう見通しを僕は疑っていません。長い時間がかかると思いますけど、このままなら歴史的状況が遅かれ早かれそうさせるだろうということも含めましてね。その間にも現今のような数々の世界史的歴史的悲劇が内外ともに繰り広げられていくというのは悲しいことですが。ただここでも、弁証法的に厳密に言えば、今僕が述べた政党論が真理だというそういう主張を僕がしていることになるという、そんな自覚は僕にはあります。詭弁にも聞こえましょうが、お断りしておかなければならない、これも一つの対話の仕方、真理への道なのだと思いましたので。
以上、本当に僕の杞憂なのかもしれないことを長々とお話しました。これも、僕たちおよびさざ波の今後の討論の仕方、実りある会話のためには一度は必要なことかも知れないと思いついたからです。他には全く他意はありませんので、杞憂のようでしたら軽く無視してくださって構いません。
お時間をとらせました。