最初の投稿の時に、「その論旨鋭い議論にはなにか異質なものを感じ・・」と
書きましたが、そうした印象を持つのは私一人ではないでしょう。なにがしかの期待
を持ってこのサイトを訪れ人々のかなりの割合が、ここには参加出来ないと知ってま
た通り過ぎていったのではないかと考えてしまいます。
と申しますのも、やっぱり上の方ばかりを見て議論している。ここに投稿されてく
る人たちの間でさえ、より大きな共通点を見出そうという真剣な努力よりも言葉の端々
を捉えた議論が多いように思われるからです。その議論の言葉の一つ一つが正しいか
どうかという議論も大事かもしれませんが、明日からの未来に向かってプラスになる
ものを結集し合うことこそがより重要だと思われてなりません。
こんなことをしている間にも、今この時点で我々自身が労働者・国民に、また良心
的に活動しようとしてる人々に、なにを語りかけるべきかを考えることの方が大事な
のではないのでしょうか?
数年前の職場を思い出せば、「もうダメだ。もう、あかん」と言っている労働者が
いました。私の助言は聞くものの、なんともならない歯がゆさを感じたものです。巨
大企業の中で出世もなにもなく会社と距離を作ってしまった中学卒の私と、巨大組織
の中にがっちり組み込まれその階梯を必死になって昇らんとする大学卒の彼との意識
のずれの大きさをイヤというほど感じさせられました。考えてみれば、それは彼と私
との意識のずれというよりも、私の後にいるべき「より大きな力」が今の日本にはあ
まりに小さく信じられないことを、彼が見抜いているからだと思うのです。
これも思い出話になってしまいますが、毎年の春闘(連合系巨大企業労組では、と
おの昔に「春闘」という言葉さえ捨てているけれど)では、労働者を煙に巻くような
文面の”低額要求”方針の下、交渉段階時期になると報告大会の場で討議・質問もさ
せずに「頑張ろう!!」コールを各職場でやるのです。いったい我々も一緒になって
大声で「頑張ろう!」と叫び拳を突き上げたものなのか、本当に考えてしまいます。
共産党支部の人たちは、「労働者の要求を否定することは出来ない」として一緒になっ
て叫んでいるようですが、労働者の面前での行動だけに重大な問題だと思います。因
みに私はコールをしませんでした。
さらに、定年を過ぎた「元労働者?」たちに目を転じてみれば、巨大企業の厳しい
管理と教育、分断・差別からようやく解放されたかに思いきや、再び巨大企業とその
の息のかかった下請け企業群へ働きにでる。なぜか?「やることがない・・」のです。
自分の「今」を正視出来ないのです。定年後働くなんて、世界の”先進国”では、日
本くらいなものと言ってもいいでしょう(最近の年金制度の後退は、定年後の就労に
拍車を掛けているけれども)。こうして定年後に待っていた”自由”は、彼ら自身に
よってフタをされてしまっている!といっては言い過ぎかもしれませんが、これが現
実です。 我々は大企業の管理・差別・分断に反対してきたけれど、人の本当の自由
というものを我々自身が体験していなかったからこそ、自由の姿を語れなかったから
こそ、その宣伝は”労働者の「企業の束縛」からの解放”とは遠いものでしかなかっ
たのかと、考えてしまうことがあります。上辺だけの宣伝と党勢拡大さえしておれば
いいというものではないことを、痛切に感じないわけにはいきません。
一方でそうした労働者に対して、妙に分かり易い議論がささやかれています。例え
ば、労働者がそういう超過密・長時間労働をやってしまうのも、会社側のやらせ方が
どうであれ、結局はそれを受け入れてしまう「なにか」が、労働者の心の中にあるか
らだという「理屈」です。その何かとは、「受容」の心であり、それは日本の社会の
何処にでもある「横を見て物事を決める習慣」のなせることではないかというわけで
す。会社としては大笑いのような理屈ですが、良心的な人たちの間でさえこのように
考えてしまうことについて、現場を担う共産党支部の人たちがなに一つ答えられない
という現実は、想うほどに胸の痛みが増すばかりです。
共産党や左翼の人達が「長時間・過密労働反対」「大企業の横暴を許すな」「職場 に憲法を・・」と宣伝をしても、その人たち自身は実際にはなんの研究もせず、労働 者との対話の場さえもせず、具体的な政策(彼らにとって政策とは、”長時間・過密 労働反対”というスローガンに過ぎない)も言えないという状況では、信頼されるは ずもありません。例えば、労働者から「長時間・過密労働」の苦痛を取り除くために は、いかなる研究が必要なのか、その打開のプロセスにはどのような提案と手順があ るのか、次にその為にどのような共同が求められるのか、またどのような運動をすべ きなのかといった課題と正面から取り組む必要があります。その際特別に重視すべき は、「研究なんて、とても・・」とか、「私は頭を使うことは苦手や、アハハ・・」 とか、「やれる人でやれば・・」「そこまで考えなくても・・」という党員達の自分 自身への自己妥協を許さず、どう高めていくかという視点を貫くことです。
共産党中央が「民主集中」の名の下に、党勢拡大・選挙一本槍の官僚的体質に固まっ ているにしても、現場の課題は実に切実です。人間の「今」を問う、泥まみれの課題 です。さすれば、現場の共産党支部は中央と現場との板挟みの中にあると言ってもい いでしょう。党中央の旧来以前の官僚的体質に目を奪われ、現場で活動する人々への 支援を忘れてしまってはならないと思います。党の官僚的・中央集権的体質を改める には、理詰めで分かってもらう努力も必要かもしれませんが、一番大事なのは、活動 家達の目を現場(労働者・国民)の切実な課題に向けさせ、手取り足取り共に前進す る努力をしていくことだと思うのです。
このようなことを申し上げながらも、私自身は耳学問でお話をしているに過ぎず、
ここに参加されている人々の学習と理論の水準には到底対応出来ません。さればマル
クスやエンゲルス、レーニンさらにはヘーゲルやその他偉大な人々の著作内容をふま
えた議論も私には出来ません。にもかかわらず、大事なことはあなた方がしている議
論が、目前にいる労働者・国民の労働と暮らしの改善にどれほど役立っているのかと
いうことを問わなければなりません。ここに参加されている一人一人にとって、一字
一句を捉えた個々の議論に納得することが重要ではなく、歴史の歯車を一つ一つ前進
させるためになにをするのかという共同の模索と、一字一句の拘りを留保して如何に
多くの人たちと共同していくのかというどん欲さが重要ではないでしょうか。
ついでに申しますれば、そうした多くの人々を共同の目標の下に束ねる力量をこそ、
いまの時点で養っておくことが重要だと思うのです。もう一つ加えますなら、「共産
党右派」だとか、「社会民主主義者」だとか自己規定する必要はないと思います。そ
れこそが共産党がやって来たことではないでしょうか? 果たして、歴史の歯車を進
めるのにそういう「名乗り」が必要なのでしょうか?富の偏在を打開し、平等と自由、
理知的にして豊かな社会を実現するという課題の前にそういう「名乗り」が必要なの
でしょうか??社会改良も一概に否定せず、場合によっては積極的な意味を持つと位
置づけたマルクスは、日本の今で言う「社民」と名乗らなければならないのでしょう
か?歴史の歯車を進める大事業の前には、「名乗り」や「レッテル貼り」による相互
の区別は極力取り払いたいものですね。
ここで、人文学徒さんにもう一度。
「人文学徒さんの一生を真剣に振り返り、そこでの失敗と教訓を明らかにするなら
ば、おそらくかなりの宝物が掘り出せるでしょう」と申し上げたのは、間違いではあ
りませんでしたが、いまひとつ言葉足りずでした。
すなわち、人文学徒さんの個人的人生を振り返るという意味ではなかったのです
(それを含んでもいいのですけど)。人文学徒さんがこれまで歩んでこられた中で、
活動のあり方、運動の仕方、学習のあり方、もちろん共産党自体の問題などに関して、
現在どんなことに気づかれてみえるのか、また今、なにかを提案するとしたならどん
なことが提案されうるのか。共産党の為ばかりでなく社会の発展の為にも、そのご経
験が総括されるなら極めて有意義なものになると考えるのです。長い経験をしてきた
我々だけがなし得る貴重な任務だとも思うのですが、如何でしょうか。
いずれにしても、不破氏や党中央を100回批判しようが、この掲示板内の文言に
拘りすぎてしまっても、そのことでどれほどの前進が得られるのでしょうか。不破氏
や党中央への批判はもともと自由なものと思いますが、それを100回するのであれ
ば、政策の提案とか現状分析での成果とか、運動構築への提案も100回あってもい
いと思います。そういう前進的見地こそが今求められており、今後にとっても最も重
要だと言えるのではないでしょうか?? 私自身も共産党への批判を始めたら止まら
ないほどです。実際、数万字、いや十万字以上のものも何度書きましたことか。しか
し、それだけではなにも出来ません。共産党を良くしたいと願うつもりの批判が、結
局は無視されるか正邪を巡る果てしない議論になるかに行き着くのではないでしょう
か。共産党への批判を、社会をよくしたいと思えばこその行動であると置き換えるな
らば、積極的な提案をこそ改めて願い上げたいものです。このサイトを有意義なもの
とする為にも、そう願いたいものです。
またまた、ずいぶん長くなりました。読んで下さった方には厚く御礼申し上げます。