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「組織論・運動論」討論欄

左翼内の「右」と「左」を考える

2004/07/07 さつき 40代

 愚等虫さんの6/17の投稿をじっくりと読ませていただきき、大変勉強になりま した。特に、communismの日本語訳が「共産主義」では、意味として・語感としてお かしいという指摘にはハッとしました。これまで私は党名を変更する必要はないとい う説明に納得していましたが、考えを改めました。他にもいろいろと感想を書きたい と思いつつ時間がとれずにいる間、浜吉さんの二つ目の投稿、人文学徒さんの三つの 投稿、山田盛太郎さんの投稿が続き、消化しきれずにいます。とりあえず、人文学徒 さんの7/3の投稿で私に触れられている点、お察しの通りですとお答えしておきます。 また、「科学」の問題は、稿を改めて書く予定です。

 さて、愚等虫さんの投稿に触発され、左翼内での「右」と「左」の対立について思 いを巡らし、これを書き始め、少しずつ形をなしてきました。皆さんへ共通してお送 りする返信の一つと受け取って下さい。この問題は、左翼の大同団結のためには必要 なこと、あるいは乗り越えなければならないことだと、常々思っていたことでもあり ます。なにぶん浅学非才故、問題提起に終わってしまうのですが、私には少なくとも 二つの側面が絡んでいるように思えます。

 先ず、遠い未来の理想郷、例えば「国家の上に個人を置く社会」、あるいは「国家 が無くなり、個人の自由な活動が万人の自由な発展の基礎となるような社会」を意識 しながら現実の問題について発言するとき「左翼」と評されるようです。これは定義 ではなく、実体です。思い描く理想郷が似かよっている筈の左翼の中で、「左翼度」 がいろいろなレベルのスペクトルに分かれるのは、現実の具体的な問題を解決しよう として発言する時に、どれくらいまでの未来スパンを意識しているかが違っているか らだと思います。現実の問題に遠い未来の理想郷の掟を強引に適用しようとすると 「極左」と呼ばれるのでしょう。逆に、現状で実現の可能性の高い「よりマシな改革」 を、その先の展望が曖昧なままに前面に主張すると左翼内では「右」と評されるので しょう。
 左翼の中には現にそうしたスペクトルがあって、綱領問題でも激論が交わされたの だと思います。「政権獲得至上主義」との「左」からの批判も、先々への戦略を示さ ず議会活動の戦術の問題へ矮小化しているとする点で、同じことが絡んでいるのだと 思います。これが、私の考える第一の側面です。

 そうすると、左翼が団結するためには理想郷へ至る道筋についてのイメージ、つま り戦略を共有する努力が必要になるという、当たり前の話になるのですが、これまで にもそうした努力は積み重ねられてきた筈です。にもかかわらずそれがうまく行かな いのは、やはり、過渡的な段階における社会や国家そのものについての具体的なイメー ジが左翼の中で貧困なままになっているからではないかと思います。現状では、「よ りマシな改革」が先々の展望を曖昧にしたままに前面に主張されるのは、ある意味仕 方のないことかもしれません。私自身、過渡的な段階における社会民主主義体制その ものについての具体的なイメージは極めて貧困です。6/13の人文学徒さんへ向けた投 稿の冒頭部分で、「日本共産党が政権に加わったら、いったんはもっと景気が 悪く なって失業者も増え、それを立て直す力をその政府が持てるとは到底思えないという 不安」を共有している、と書いたのは、このことと関係しています。

 私は、いろいろな理由でベトナムという国を好ましく思っていますが、現在のベト ナムが、少なくとも目標とすべき「社会主義国家」などでないことは多くの方々にとっ ての共通認識であろうと思います。その前提での私の関心事は、社会主義国と資本主 義国が共存するような「過渡的な時代」における社会主義あるいは社会民主主義体制 には、おのずといろいろな制約が科せられるのだろうということです。特に、アメリ カという強大な帝国主義国家があり、また、既に中国が世界の自由貿易・市場経済を 左右する程になり、さらに強大な国家へと成長を遂げるであろう現時点での展望とし て、そうした過渡的な段階における「社会民主主義体制」のイメージがどうしても掴 めないのです。

 おそらく、EUのように少しずつ「国家」が融けながら、全体としてはひとつ の対抗機軸となりうるような連合体を形作る段階が必要になるのかなと考えています。 しかし、その時にでも、強大な資本主義国、帝国主義国家と市場経済をめぐっての争 奪戦を繰り広げなければならないとしたら、その連合体の中における生産活動・社会 活動は、結局は独占資本主義国と変わらないものになってしまうのではないか、そう でなければその連合体は潰されてしまうのではないかと危惧している訳です。

 このように、私自身、過渡的な段階での社会主義、社会民主主義体制についての具 体的なイメージは極めて貧困です。何しろ私は、「さざ波通信」の記事を読むまでマ ルクスの言う「生産活動の社会化」を「国有化」と混同(誤認)していたようなレベ ルです。しかし、不破氏においてさへそうなら、日本共産党にも、私のようなレベル の党員は多いのではないかと想像します。この点を克服して、左翼全体の中に共通認 識を構築する道のりは大変に険しいというのが率直な感想です。しかし、そういう問 題が自分たちの中にあるのだと認識できれば、道は違ってもお互いを統一戦線の相手 として認め合えるのではないかと考え始めています。

 「左翼」は、人類社会の歴史的な発展を展望し意識的に追求するという指向性を持っ ている訳ですが、その原動力となっているのは、やはり、社会不正義(社会悪)への 怒りであろうと思います。例えば共産党に入党しよう決意する際には、そのことが動 機となっているでしょう。私の若い頃はベトナム戦争や水俣病の問題への怒りが活動 の原動力となっていました。だからこそ日本国と世界は変革されなければならないと。

 「不正義への怒り」は、何も左翼だけの専売特許ではないのですが、左翼の特徴は、 「社会不正義」というものを、過去から現在へ至る歴史認識の中で捉えるというクセ を身に付けているので、「主義」に凝り固まっている、と一般には受け取られてしま うようです。左翼的な歴史認識を共有できない人々にとっては、異質な感情でしょう。 この点では左翼内にもいろいろなレベル、あるいはバリエーションがあって、これが、 私の考える左翼内対立の第二の側面です。このことが端的に顕れたのが「拉致」の問 題への対応・評価での意見の対立だと思います。日本帝国主義の朝鮮侵略・朝鮮人連 行と、現在の「拉致」をセットにして発言すると「左」と罵られ、過去の侵略を考慮 する必要など全くないと主張すると「右」と罵られているのでしょうか。

 例えば「拉致」問題に絡めて、現にある不幸を救済しようとする時にどうして過去 の経緯など関係があろうかと主張する者が、では、現に山ほどある他の不幸にどれほ ど目を向け、立ち上がっているのだろうか、あるいは政府を動かそうと努力している のだろうかと考えると、私などは、はなはだ疑問に思う訳です。餓死するホームレス や独居老人は絶えず、毎年3万人を越える自殺者が出て、その多くが経済苦が遠因と なっている、そうした現状にあるこの日本という国家で、現にある多種多様な不幸に 目を向け、救済に立ち上がっている大勢の方々がいる。また、海外での人道支援に民 間ボランティアとして立ち上がっている大勢の方々がいる。これらの方々は、例えば 昨今の「拉致」問題へ熱狂する方々とは異質に見えます。過去の経緯が問題とされる のは、やはり、過去において現に存在した不幸を誰も救済しなかったからです。

 最近もまた、水俣病関西訴訟の新聞記事を目にしました。被害の拡大に対する行政 の責任を問うもので、国・県はこれを否定する弁論を行う見通しだと書かれている。 村八分に遭い、「姉さん殺して皆死のう」とまでした未認定患者家族のことも書かれ ている。半世紀も前からの水俣病の問題でさへ未だに根本的な解決には至っていない のですが、国が「拉致」問題と同じくらい熱心に救済に向けた努力をしたなら、また、 多くの国民が立ち上がったならはるか昔に解決していた筈の問題です。なぜ国は、水 俣病の問題にはこれほどまでに冷酷であり続けるのか? 現にある不幸はやはり救済 しなければならないが、日本国政府の行動に政治利用を目的とした二重基準を発見す るのも、やはり左翼的な視点と言えるでしょう。
 先に述べた第一の側面に絡めて言うなら、「理想郷」への想いを共有する限りにお いて、左翼としては踏み外すことのできない節度のようなものは、確かにあるのだと 確信します。そこを踏み外さない限り、「拉致」問題に熱心であったとしても私たち は大同団結できる筈です。

 私は「下部構造が上部構造を規定する」という概念規定の内実を良くは知らないの ですが、現実にそうなっている不思議さを思います。私達の身のまわりは、職場でも 学校でも社会全体が競争原理で覆い尽くされています。私の尊敬する数学者遠山啓さ んは、晩年「競争原理を越えて」という著作の中で、そうした現状を変革し、新しい 文化を創造しようと呼びかけられたのですが、現実はますます逆の道を突き進んでい ます。子供の前で平気で「勝ち組」「負け組」といった言葉を口にする大人を見ると、 恥ずかしくないのかと思います。先の「イラク人質事件」における日本社会の異常な 反応を目の当たりにして、まさに我々の「文化」が危機に瀕している現状を思い知ら されました。この危機は当然左翼の中にも及んでいるでしょう。大同団結のためには 克服しなければならない課題は多いようです。

 私自身整理しきれていないので、先ずは問題提起ということで、続きは未定です。