樹々の緑さん、私の拙い投稿に反応していただき、ありがとうございます。自分なりに反省する事がみつかり、投稿して良かったと思います。
さて、私が若い頃に離党した経緯については、この欄6/13の投稿にちょっとだけ書いています。私は「左翼」の中のもめ事に疲れ果て、とりあえずは組織(党)を離れ、「個」としての自分の陣地を再構築しようと決意しました。当時尊敬するファンだった大江健三郎さんの影響もあります。以来、私の最大の関心事は、左翼の「大同団結」であり続けているのですが、ただ右往左往するばかりで何事もなし得ずに今日に至っています。近頃は、もっと根本的に、何が本質的な障害となっているのかを考える必要性を痛感しています。
ところで、若い頃の私には、もう一人尊敬するファンがいました。本多勝一さんです。ご存じのように犬猿の仲とも呼べるこのお二人の、十代の頃から初版本の全てを揃えるような熱狂的ともいえるファンであった私自身には、本来的に相反する二面性のようなものが「備わって」いるのだろうと、自覚し続けてきました。人文学徒さんも、樹々の緑さんも「文系」という言葉を使われる。こうした「レッテル貼り」をあえて使うなら、大江さんは文系で、本多さんは理系ということになるのでしょう。そのお二人の間の「もめごと」がピークに達したのは、私が離党してまもなくのことでした。その評価についての個人的な想いはさておき、もし、社会的にどちらかに軍配をあげるような大きな動きが起きたなら、私はきっと、その劣勢の方に味方したでしょう。私もまた天の邪鬼なんですが、なにより、どちらにもそれなりの理があり、それを基礎とした役割があると思うからです。
事実に反したり、故意に一部の事実を隠蔽したりしない限り、人の考えることには必ず一分の理はある。私があえて「右」、「左」というレッテルを使って整理を試みたのは、私の考える二つの側面について、それぞれに次の二つのことを言いたかったからに過ぎません。
>しかし、そういう問 題が自分たちの中にあるのだと認識できれば、道は違ってもお互いを統一戦線の相手として認め合えるのではないかと考え始めています。
>現にある不幸はやはり救済しなければならないが、日本国政府の行動に政治利用を目的とした二重基準を発見するのも、やはり左翼的な視点と言えるでしょう。先に述べた第一の側面に絡めて言うなら、「理想郷」への想いを共有する限りにおいて、左翼としては踏み外すことのできない節度のようなものは、確かにあるのだと確信します。そこを踏み外さない限り、「拉致」問題に熱心であったとしても私たちは大同団結できる筈です。
もとより私は、樹々の緑さんのこれまでの一般投稿欄での議論などにおいても、上記の「節度」は十分に発揮されていると共感もしてきました。「拉致」の問題については、私自身不勉強で、これ以上は述べることはできませんが、私は若い頃から水俣病の問題に関わり、現地調査にも参加したことがあります。それが未だに根本的な解決からほど遠い現状にあることに、人一倍無念の想いをいだき、昨今の「拉致」問題への国中の熱狂ぶりと、ついつい対比してしまったのです。やはり私の天の邪鬼な性格が顕れたにすぎません。
今、机の横に二冊の本、田口富久治さんの「マルクス主義政治理論の基本問題」(1971)と、遠山啓さんの「競争原理を超えて」(1976)を置いてこれを書いています。先ほどまで読み返していました。前者は浅学な私にとって、読みこなすにはかなり骨の折れる著作ですが、社会民主主義、社会主義へ至るプロセスを考える基礎として、今も私にとって大切な本です。後者は一般向けに平易に書かれいるにも関わらず、やはり根元的な問いかけがなされています。当時、教育現場では勤務評定反対闘争がなされていましたが、その運動に熱心な教師自身が、生徒には「序列主義」を押しつけている。それを遠山さんは「内なる序列主義」と呼びました。私たちは先ず、私たち自身の中にある、そうした「文化の資本主義的退廃」と闘わなければならない、というのが、目下の私の関心事です。 またご批判下さい。