貴方の質問への回答は凄く難しいです。企業の側は世界的な厳しいグローバリズム、供給過剰の中でそれなりに必死です。そして、膨大な輸出に頼り、裾野も広い「超優良?」大企業ほど、こういう不況、失業情勢の中では世界的に広く説得力を持ってしまっているという悲しい実情さえあります。フランスの一地方が自治体主導で諸手をあげてトヨタの工場誘致に駆け回るなどはこの好例でしょう。日本の各自治体も大企業誘致に必死です。大企業へのなんらか世界同時的な規制を抜きにして1国での大企業規制は基本的にはとても難しくなっていると言うこともできるのではないでしょうか。これに対してグローバリズムの害悪をまともに受ける弱者側の抵抗は、政党、労組、民主主義的諸団体などその主体的力量は弱くなり、その弱い力がさらにバラバラにもされているという現状があるのだと思います。それも、日本という1国においてのみならず、世界的にもそうなっているからこそ、多国籍企業はもう祖国を省みずに、資本輸出、空洞化、首切り、下請けいじめ、武器商売、戦争政策などのやりたい放題ということなのではないでしょうか。こういう状況に抗して1国、1企業の中でできることは本当に限られている、浜吉さんの再度のご質問にまずそんなふうに思い沈んでいたのでした。こういう状況だと考え込んだとしたら、「『あるべき』労働運動というものはいつか近いうちに一朝にして起こってくるものだ」、「そういう状況は必ず来るはずだ」、「困難が変革を生む」と信じ込んでいるやに見える教条主義、客観主義の方でもなければ、現場の問題を解決するための展望提言などをまず軽々しく言えるものではありません。
以上を前置きにした上でさて、僕に可能な限りお答えの努力をしてみます。
さてまず、今までの幹部批判も実は僕なりに、こういうご質問へのお答えの積もりも込めて書いていたのです。が、なぜ全くそう受け取られなかったのか。大事な説明が抜けていたのです。僕の幹部批判と、いわゆる大衆運動に対して党がなしうることとの関係付けが。僕の頭では当然の、暗黙の了解だったこの部分が僕の文章自身に直接的には全く表現されていませんでした。今回ここをやってみます。
僕が「党から、この大衆団体へ『専従として派遣された』(このころこういう言葉が普通に使われていました)のだ」と一人で気負い立っていた70年の頃の党は、僕らの党批判視点の意味ではまだ希望があったのだと思います。なにしろ民主主義的諸団体、住民団体などがいっぱいありました。総評、労組にもまだ力がありました。そしてそのそれぞれの幹部、専従などに、その団体それぞれの規約目標、方針を献身的に行うことを人生として選んだ多くの若い共産党員もいたのです。おそらくこういう基盤を背景として、政治の世界でも、大都市のほとんどを占めていた革新自治体が「地方から中央自民党政府へ攻め上っていく」というような勢いでした。思えば党の間違いはそのころから始まっていたのだと思います。よく言われる「大衆要求実現活動と党勢拡大との二本足の活動」が片肺飛行になっていました。各党機関の大衆運動担当部局は、選挙や党勢拡大への布陣に比べればほとんど機能していなかったに等しいと思ったものです。地方議員に対してでさえ「議会活動という専門性を磨く組織的保障」は雑誌「議会と自治体──という名前だったでしょうか?」を読めというくらいしかありませんでした。それでいて党勢拡大、赤旗配達、赤旗代金集金というノルマは、議員には普通の党員以上にびっしりと要求されているのです。こうして、大衆運動は各団体の力で自然に成長していくもので特別な問題でもない限り党が手を入れる必要はないと扱われていたその一方で、「拡大をして選挙に勝ち、国政が変われば諸要求は進む」という数学の公式のように抽象的な活動側面だけが、「遠からず新しい政権が生まれる」という雰囲気ともあいまってか、指導部によって強調されていました。この中央の片肺飛行放置に対しては、当時から全国的に根強い批判がありました。この批判に対して党はいつも基本的に、「二本足が方針である」と答えてきたかと思いますが、今となってはこういう批判は全て当たっていた言えましょう。たとえば少し新しくなりますが手元にある資料で、90年の第19回党大会議案への意見特集の中央冊子にこんなやりとりがありました。問題提起者は発言内に国労所属と明記がある佐藤功一氏(神奈川)で、「支部を基礎とした大衆活動に最大の力点を」という発言から抜粋してみます。
「私の意見を結論から言わせてもらうと──党はその活動の最大の力点を党支部を基礎とした大衆要求実現運動の強化、それを通ずる党と大衆との結びつきの飛躍的強化に置き、従って党中央の全活動・指導の最大の力点もこのところに置くようにすることを、大会決議に明記──決意表明をふくめ、この点が十九回大会の画期的・歴史的特徴とされるような鮮やかさで明記すべきだ、明記してほしい、ということである。」
「この三十年近くの党活動の進め方は、主として『知』の力で党活動を進めるという、片肺飛行的、一本足歩行的進め方ではなかったかと思うのである。それでは疲労が蓄積し、動きが鈍くなるのは当然である。」
これに対して即座に反論意見が、「佐藤同志の意見について、伊藤俊男(中央)」と題して掲載されています。伊藤氏も「国労OB」と自己紹介しつつ、要旨こう述べています。党勢拡大に偏った一本足的な「官僚的指導」は一部にあろうが、党は二本足を常に強調してきました。また、「知」は大衆活動の土台でもありますと。
さて、このような歴史を振り返るとき、当時僕らが提起していたこの「片肺飛行批判」をまとめておく意義は大きいと思います。それは、次のとおりです。
諸大衆要求実現活動団体間の「経験の交流と研究」、これらの結果の「蓄積と発信」が党の総力を挙げた体制として必要だったのだと思います。学者の力(当時は党周辺にいまよりずっと多くの学者、研究者がいました)ももっともっと借りて、今よりもはるかに分厚く各級党専従などの専任体制もきちんととって、定期的・恒常的にかつ専門的・文化的に。ちなみに、こういうやり方を大衆団体レベル独力で少しでも取り入れてきた団体は現在まで細々とでも生き残り、そうでないところは消えるか、完全な体制補完勢力に堕するかとなっていったというように僕には見えます。
なお、こういう体制を採らないのがなぜ間違いなのか、二本足の必須さというものについて、その内容に立ち入ってもう少し詳論してみましょう。大衆要求実現活動で人を組織しあい、的を突いて改善の腕前を示しあうということができなければまず、社会の中に「展望」への感覚が育たず、するとそこにおいては学習などは入っていかないのだと思います。そういう時点では「党が伸びて政治が変われば、要求は進む」という議論は、何の保証も無い、政治家によくある空約束としか見られなくなってもいくでしょう。つまり「知」の土台のようなものがないのに「知」が入っていくと信じ込んでいる路線ということになるのではないでしょうか。単なる「もだえ」が「要求」や変革意識になっていくためには、大衆要求実現活動に人々がどんどん連なっていき、たとえ少しずつでも成果は上がっていくものだという確信を石にかじりついてでもこの社会に保持していくことが大切なのではないかと言い換えても良いと思います。こういうことなくして、「社会に困難が増えれば、変革の動きが起こる」というのなら、世界大戦など起こるわけはありません。大衆要求実現活動による主体的力量の育てあいがなければ、どれだけ困難が増えてもそれを止められはしないということです。言い換えれば、大衆要求実現活動をそれ相当に作り上げなければ、どれだけ時間をかけても資本主義固有の矛盾から生まれる社会悪、社会的困難は増えるばかりだということではないでしょうか。
誤りを改めるのには遅すぎても良いでしょう。社会悪の除去、困難の改善は人間が存在する限り続いていく営為なのですから。それなのに改められない。なぜなのでしょうか。民主集中制によって、党の根本に関わる議論が風通しよくなされないからです。民主集中制によって、中央への根本的な疑問は出しにくく、中央批判は育ちにくく、それが一部で育っていても一般党員には見えないようになっているからです。こうして、中央方針の大幅変更があるときでも大幅と見えないように、「中央の以前からの意向で」のように、あるいは「誤解を招くから『表現』を変えた」というように小出しにしか変われないというのでは、どんどん時代遅れになっていくしかありません。「党の基本路線に大きな誤りは無い」というなにしろ「科学的真理の党」でもありますし。こういう総体としての上意下達、官僚制、「真理の党」、セクト主義が、根本的改善を遅らせて、どん詰まりまできたという状況が現在なのだと言えるのではないでしょうか。こういった党の歴史においては、中央は基本的には正しいのではないかなーという人のみが残り、多少とも自分の頭で考える人は去っていくか、去ったも同然ということにしかなりません。いや、事態はもっと悪い。「これだけ選挙でも勝てず、どうもおかしい点も多いし、基本が間違っているのかもしれないなー」と思っていてさえ、去ることもできない党員も多いものです。地方議員やその家族、専従やその家族、若いときから党的な人間関係を中心に生きてきた高齢者などなど。これではまるで、旧来の幹部、民主集中制を中心とした路線が、これらの方々をも道連れにして、党を滅ぼしていくのも仕方ないのだといわんばかりの状況と言えるのではないでしょうか。
さて、こんな遠大なことは横に置いておいても、現場の問題解決への提起はありうるだろうという意見もありましょう。例えばキューバ「革命」がキューバ共産党置き去りで「成功」したという事実は、そういう論者を支えるはずです。が、キューバと日本では時代も違うし、その機構規模も違います。そしてこの日本の職場改善を巡る現在の世界情勢が初めに書いたとおりの困難を抱え、相手は大きいです。日本共産党の党員、議員、その資質、資金力、全国的宣伝網などなどに将来的可能性を求めるのは、やはり自然な道なのではないしょうか。
最後に浜吉さん、職場改善への提言自身もありうるのでしょうが、それは現在の僕の力の及ぶところではありません。申し訳ありません。
またまた長い文章をここまで読んでくださった方々にはお礼申し上げます。