7/7さつきさんの、「問題提起」は面白い。その要約は以下である。
社会的不正義、社会悪をなんらか歴史(観)の流れの中で見て、そういう社会悪の改 善指向を持つというのが、左翼というものの特徴ではないか。そしてさらに、その左 翼が次のように左右に分かれるのだと思う。比較的遠い未来の理想郷の方に力点を置 いて社会悪を見れば左になり、現状での実現可能性、よりましな改革というものを重 視すれば右になるのではないか。さて、その双方に対して私(さつき)は言いたいの だが、過渡期のイメージを左右で共有しあえればもう少し一致が可能なのではないだ ろうか。しかしその過渡期のイメージというものがどうも意外に語られていず、共産 党でも不明確なようだし、難問なのではないのか。
以上がさつきさんの問題提起だったと思う。
さて僕は、この先へと議論を進展させるために、上の要約に以下のような諸概 念、論点を付け加えるというやり方で、もう一歩踏み込んだ問題提起をしてみたい。
まず、「現在の社会悪をより遠くの未来の理想郷の中で見る」とは、(誰かの) 理論概念で見るということだろう。つまり、より遠くを見る左翼内左翼とは、より 「理論重視」だということではないか。この場合、マルクスは資本主義の帝国主義段 階を見ていないし、あれだけ人々の気分や習慣というものの根強さを熟知していたレー ニンでも、国境をこえた多国籍企業が現在のように支配するグローバリズム資本主義 を体験していたわけではないのだというように、「過去の概念の現実への合致、その 有効性?」という問題が常につきまとうはずだ。つまり、彼らの諸概念がその後の世 界の何か質的変化に耐えられるものであるか否かという問題があるということである。
次に、社会悪を歴史(観)の流れの中で見るという場合の先人たちの具体的諸概念 に関わって、左右の一致点と差異とを見てみたい。まず一致点は以下だろう。生産手 段の私的利用による生産の無政府性に、貧困、社会的不幸、社会悪の多くのものの原 因を見ること。これらへの対案として、生産に対するなんらかの社会性、計画性を導 入するという、社会主義を掲げること。これらの現状分析と、対案であるなんらか計 画的な生産という社会主義の導入ということは、左翼内の左右が大枠では一致できる ところではないか。なおこの点に関わることだが、従来の社会民主主義の広義の定義 も後に見るように、社会主義をめざすものとされていたはずである。
次に、こういう社会主義を「展望」している人々の間でも、この展望に関わる主要 概念であってすぐにもう一致しないものが出てくる。労働者階級の役割だ。イタリア 共産党は、これの不一致もあって左翼民主党(多数派)と共産主義再建党とに結局は 別れた。つまり、マルクス主義の中の変革主体というものへの賛否でさえ、既にもう 一致が存在しないのである。この点で私見はこれまでもここで述べてきたとおりであ るが、「『労働者階級頼み』はもはや一種の理論信仰となったのではないか」という ことである。マルクスやレーニンの時代に比べたら院内闘争、国会というものの比重 が比較にならぬほど高まってきて、この国会議員選挙では労働者も専業主婦(半世紀 ちょっと前は選挙権すらなかった)も同じ1票であるわけだし、もっともっと重視さ れるべき院外闘争にしても、環境、婦人、平和運動などに比べて労組の比重はますま す低くなっているのではないか。また、グローバリズム経済の下では、大部分の国民 が大企業の被害者である一方で、大企業労働者は一種の社会的エリートにすらなって いるのではないか。連合が失業者問題に冷たいのはその路線の問題ではなくて、こう いう本質に属する問題になってしまったのではないのだろうか。本質に根ざす問題で あれば、彼らに将来的にせよ社会改善の主人公の役割を求めるのは無いものねだりと いう他はない。
また、経済の計画化をいつどのように、どの程度進めていくか、それが現在のグロー バル資本主義世界の中の一国でどの程度可能かそもそも不可能ではないのかなどとい うことは、意外に論議されていないのではないか。また、共産党が大企業の民主的規 制を言うが、その論議を党の外部とこう一致したというような話も全く聞かないから、 グローバリズム競争の下では全く説得力を有していないようだ。
さて、以上にかかわって丸楠夫氏の18日の論議にも一言を呈したい。氏は 「社会民主主義の道は消えたと、歴史によって既に証明された」と述べられているが、 その社会民主主義定義が問題ではないだろうか。広義の社民概念を歴史上の特定の社 民に限定して、その上で社民は消えたと言われている、そういうやり方なのだと僕は 思う。過去の資本主義主流体制下で経済の計画化に臨もうとするとき、資本主義であ れ社会主義であれ国家の比重というものが現在よりもはるかに重かったのは当然であっ て、過去の社民定義にはそういう国家の関わりが大きかったのは無理も無いことだと 僕は考える。他方、社民の広義の定義は「十月革命以降の共産主義者と己を区別して、 議会を通じて漸進的に社会主義にいこうという改良主義の諸潮流の総称」というもの のはずではないか。一国家でできることが昔に比べて小さくなった現在から見れば、 たとえば複数国家や国連などにこの改良を進めさせるように持っていこうというよう な論議がここに加わってきて当然ではないのだろうか。ILOが日本の国家権力に対 してまで国労の訴えを支持したし、イラク問題では国連内におけるアメリカの旗色が どんどん悪くなっていきそうだというような例も生まれるようになってきている。そ して、こういうことも含めてグローバル資本主義を念頭に置かざるを得なくなった社 民概念ならば消えたとはまだとうてい言えないものだと僕は思うが、どうだろうか。 ちなみに、反対にこういう社民のいわば対概念のような共産主義という概念を、過去 の狭義の現存共産主義の特徴に限定して「1国1党独裁を念頭に置いた暴力革命によっ て、一国でも社会主義は可能であり、さらに共産主義に臨もうとする潮流」以外では ありえないと言ったそのうえで、「共産主義は消えた」と宣告するならば、丸氏もこ の共産主義の定義が問題だと言われるはずである。
最後にさてもう一つ。社会主義自身への道がなんらか世界的な規模でしか考え にくくなった現在、一国内でできることは、ますます限定的な改良主義的なものと、 多国籍企業の規制や地球的将来やを目指して他国の民主主義的な運動、政党などとの 連携を強化していくこととではあるまいかと思う。そしてこの両者のどちらに比重を 置くかでまた左右が大きく分かれていくのではないだろうかと僕は考える。なお、こ ういう改良に関わって、いわゆる院内闘争だけでなく、院外闘争を現状より抜本的に 重視すべきだという点に関しては、実質はともかく方針としてはそんなに議論の分か れるところではないと言いたい。たとえば日本共産党もイニシアティフをとった院外 闘争というものが最近弱くなったとは多くの方々の認識であろうが、それでも日本共 産党は院内外闘争の協力重視という方針自身は掲げ続けていて、共産党が再生しよう とすればこの方針は強化されざるを得ないだろうと、僕は考えるからだ。
最後になったが、以上に見た諸概念への態度と、現代日本政治をめぐる重大な 諸焦点との関わりについて一言。安保、9条、自衛隊、イラク、朝鮮半島、失業、倒 産、空洞化、環境、教育、少子化、介護、年金、医療、消費税、道路行政、国家赤字 解消、市町村合併、などなどそれぞれについて、ここで述べてきた「『理論』重視」 の度合いによって見方や取り組み方が変わってくるということである。「『理論』重 視」に傾くほど、これらの課題を遠い将来に関わる概念から見ることになるであろう。 換言すればこれらの課題自身を見ているようで、これを「未来」の視点から裁断しや すいということにならないか。つまりこれらの課題のどれかを共闘していても、その 場に別の観点、課題が持ち込まれやすいということである。遠い将来に関わる数少な い概念には左翼内でさえ賛否の差異が大きく、ましてや国民的一致は難しいのである が、それらの概念の「臭い」がさらに「限定共闘」をすら難しくするということであ る。こうして、こういう特徴を持った左翼というものはただでさえ少数派であるのに、 その少数派がさらにバラバラになりやすいという必然性をもっているということがで きる。左翼がこういう歴史的事実をよく踏まえ、自覚して 共闘という変革の主体的 力の温床育成に習熟していかないならば、『客観情勢』上の明日がもし来たとしても これを主体的に掴み取ることもできないだろうと僕は思うのである。
ともあれ、もうすぐ戦後60年。天皇が統治者ではなくなり、世界が今にも一 挙に「社会主義」に変わるかというようなとき以降60年という現在、いわゆる「 『時さえ来れば』という客観情勢頼み」はもう止めようではないか。そういう「時」 の「理解」をめぐって左翼内が骨肉の争いを演じあうよりも、「今、ここ」の問題自 身で誠実により多くの国民とともに相互理解を深め合い、より大きく声を合わせあっ ていくというような抜本的な発想転換が左翼には必要になっているのではないか。日 本共産党で言えば、民主集中制を直ちにやめ、不破、志位、市田氏ら旧来幹部はキッ パリと辞任をして、「綱領もより広い人々とともに近く検討し直す」と宣言するぐら いのことをしなければなるまい。さもなくば、社会に必要な共闘というものに加えて もらう資格さえ認められないままに、党員の高齢化に伴って弱小政党に転げ落ちてい くということが目に見えているのではないだろうか。なお、これから生まれるべき新 しい左翼政党は、長期スパンの提言は最小限にとどめ、中期スパンの課題を中心とし たゆるやかな一致の政党であるしかないだろう。それらの中期的課題そのものの誠実 な遂行を大切にしている者である限り、そこに左集団がいても右の集団がいても、そ してそのそれぞれが個別に常時話し合っていてさえ、認められるべきではないだろう かと考える。戦時下の、明日の命までかかったような戦時共産党でもあるまいし、こ ういう政党であってこそ初めて自然な人間集団であると公認されるのではないだろう か。