〈愚等虫さんへ〉
丁寧なご返答、ありがとうございました。
実はあの後、さつきさんに対して自分が間違った批判をしてしまったのではないかと、ずっと違和感と後悔を感じていたのですが、愚等虫さんのご指摘で、何かスッキリした感じです。
〈さつきさんへ〉
まず大事な点を言い落としていました。
さつきさんが、「左翼の大同団結のためには必要なこと、あるいは乗り越えなければならないことだと、常々思っていたこと」というスタンスで7/7付投稿をされたことに対しては、まったく同じ意見なのです。基本的立場・姿勢や方向性について一致しているはずの人たちが、個別問題でああだこうだと非難合戦の泥仕合をすれば、誰が喜ぶかは目に見えているからです。
〈愚等虫さん、さつきさんへ〉
私もさつきさんに確認したわけではありませんが、やはり左翼内の「右」と称される人たちの主張としては、適切な例示内容ではなかったと、今では思います。
それでも私が、さつきさんの7/7付投稿にかなり早目に反応したのは、長壁さん等から私の見解が「右翼」と非難されている、という自覚があったからです。最近では、長壁さんはより精密に「共産党的右翼」という表現も使っておられるようです。したがって、この用法に従ってさつきさんの「右」という意味も理解していました。何か違和感は感じつつも…。
〈愚等虫さん、さつきさんへ~長壁さん、長屋談義して済みません〉
愚等虫さんもさつきさんも、私よりは、長壁さんに対して共感を示されているようです。それは、おそらく彼女と同年代であるため一種の「世代感覚」的なものもあるでしょうし、それとともに、私がこのサイトに本格的なコミットを初めて日が浅いことにも、関係があるでしょう。
長壁さんの発言の小気味よさは、彼女の真骨頂をなすものであり、たしかに余人を以て代え難いものがあります。しかし私は、彼女の発言に何だか、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のコペル君の級友水谷君のお姉さん「かつ子さん」のイメージがダブってしまうのです。マイナーな話で済みません。それでまず、故丸山眞男先生と同じような苦手意識が先に立つのです。
情勢に対する彼女の焦燥感が、的外れだとは思っていません。そして、ファシズムが、単なる暴政ではなく、それを無言のうちに支える大衆の存在によって現実化して行ったということも、その通りだと思っています。
しかし、彼女が指摘してやまない「情けない現状」は、現に「変革の対象」としてわれわれの前に、われわれを含んだ形で存在しているのではないでしょうか。どんなに目前の山が高くても、われわれ(こう言うことが許されると仮定して)には、絶望や逃走の途は残されていません。日本共産党が変質するという、われわれの若い頃には予想しなかった困難な現実の中で、現状を社会進歩の方向に打開していく僅かな契機をも見逃さないこと、そして持続的に働きかけること、情勢の飛躍的発展の「環」を握って離さないこと、古くさく感じられるかも知れませんが、この観点こそ、私の「譲れない一線」なのです。
その見地から見たとき、私には、長壁さんの「絶叫」は無力有害なものにしか見えないのです。巧妙に誘導された「世論」に無自覚に乗っけられている民衆に対して、侮蔑したり罵倒したりしているだけでは、仮にそれが真実を含んでいたとしても、何も情勢を変えられないことは、明白ではないでしょうか。むしろ、相手の気持ちを忖度すれば、敵に有利に働くのが関の山です。ましてや、日本の民衆を一絡げにして「民度が低い」などとこき下ろすのは、以ての外ではないでしょうか。
私は、やはり何と言っても「事実の重み」を懇々と伝えることが決定的だと思います。もちろん彼女は、「そんなことは言われなくても、もう何百回となくやっている!」と言うでしょう。だったら、あと何千回もやるだけです。それも、相手の気分感情に即して伝え方を常に工夫し改善し、テーマを適切に選んでです。
多分この議論でも、平行線になるのではないかと推測するのですが、より原理的に思うことは、彼女は真理を直観(直感、ではありません)の形式で把握できると思っているのではないかということです。現に彼女の直観的把握が、まさにズバリのことも多いでしょう。だから厄介なのです。
私などは、「後になってからハタと気付く」ということが多いだけに、「真理は、ほんの氷山の一角を、われわれの目の前に曝しているだけだ」という感じです。だから、少しずつ検証しながら、他者とのやり取りや自己勉強も踏まえて、それこそ弁証法的に解明する以外にありません。目の前で「馬鹿なことを言っている」人物が、本当に愚かなのかどうかは、かなり丹念に話してみないと分るものではありません。むしろ「自分の方が馬鹿だった」ということも、かなりあるのが現実ではないでしょうか。まして、その人物がそのように言っている動機や背景にまで踏み込まないと、相手から心からの納得は得られにくいと思います。
そして、「相手からの心からの納得」がなければ、これらの人たちを、継続した味方とすることは不可能なのです。力関係を動かせないのです。
「理論といえども、衆人を掴むやいなや、物質的な力となる」(ヘーゲル法哲学批判 序論)というのは、このような過程を指しているものだと理解しています。
もう一つ私が常々感じているのは、ここは私的空間などではない、ということです。
これはもちろん、このサイトで「気楽に何でも話せる」ことを否定する趣旨ではありません。
しかし、ここでの議論は、日本共産党の改革を志向する人々の代表的な議論だとみなされるおそれがあるのです。
閲覧するだけの人たちの中には、日本共産党に興味関心・共鳴するものを持ちながら、「付いて行けない」感じを懐いている人もかなりいると思います。
その原因の代表的なものの一つに、「庶民を見下している」「説教調の演説が嫌だ」というのがあると思います。もちろん、こうした印象の責任がすべて、日本共産党側にあるとは思っていません。いわゆる古典的な反共攻撃に属する、人格的攻撃の影響もないとは言えないでしょう。
ただ、そのような人もいることを前提とすれば、そのような人でも「なるほど!」と思えるような議論に努めなければならないと、思っているわけです。こうした人たちは、現情勢では貴重な人たちです。長壁さんは、現役の共産党員だったはずですから、その点に細心の注意を払う必要があると思うのです。
〈愚等虫さんへ、平壌宣言に関連する補足〉
諸々の講和条約における「請求権放棄」条項の意義については、従軍慰安婦訴訟を含んで、近時立て続けに判例(裁判例)が出ております。
卑近な文献では、各年度版の『ジュリスト臨時増刊 重要判例解説』が参考になるかと思います。平成10年以後では、平成10年度pp279~281;平成12年度pp281~283;平成13年度pp304~306;平成14年度pp266~268;平成15年度pp272~273があります。特に最近の3年度版が重要だと言えます。
そのうち、平成13年8月23日の浮島丸事件京都地裁判決に関する関西大学坂元茂樹教授の解説から、問題に関連する部分を引用します。
> 注目されるのは,これまで平和条約や日韓請求権・経済協力協定によって放棄されたのは両国が国家として有する外交的保護権であって,個人の請求権そのものは消滅しない(例えば,平成3年8月27日の参議院予算委員会での外務省柳井条約局長答弁)との立場が採られていたが,平成12年9月21日に判決が下されたサンフランシスコのカリフォルニア北部地区米連邦地裁での,第2次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟の過程で,柳井駐米大使は,平成12年8月8日,米国政府に,「日本政府は,第2次大戦中の日本国及びその国民の行動から生じた米国及びその国民(捕虜を含む)の日本国及びその国民に対する請求権は,平和条約によって解決されたとする米国政府の見解と完全に同意見である」と述べた外交覚書を手渡しており,平和条約で国民の請求権も放棄したとの立場に転換したことである。実際,オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求事件の控訴審(東京高判平成13・10・11判時1769号61頁)で,国は同日付準備書面第3「サンフランシスコ平和条約第14条及び19条(a)について」でも,同様の見解を採用している。
かつて原爆訴訟などで,日本国民から,日本が平和条約第19条(a)によって被害者個人の連合国に対する請求権を放棄したので,かわって国が国賠法や憲法29条に基づき補償すべきだと求められたとき,その請求をかわすために用いたのが「外交的保護権の放棄論」であった。やがて,その解釈は,外国の被害者による日本に対する戦後訴訟の根拠へとその機能を転換した。しかし,国内外の戦後訴訟の洪水の中で,今やこの解釈の変更がもたらされようとしている(詳しくは,山手・前掲論文5頁~6頁及び40頁~41頁参照)。本件で問題となる日韓請求権・経済協力協定の解釈については,国としては前述した論理で対抗できるので,控訴審で同様の転換を行う可能性は低いと思われるが,戦後訴訟の現場で生じている大きな変化として注意を払う必要がある。(ジュリスト2002年6月10日臨時増刊・平成13年度重要判例解説306頁)
このような現時の日本政府の立場からは、当然、上記「転換」以後になされた平壌宣言の当該条項も、同じように解釈されるべきことになるはずです。
なお、坂元教授が指摘する「外交的保護権の放棄論の戦後訴訟の根拠への機能転換」というのは、次のような事情をいいます。
すなわち、原爆訴訟では、「国はサ条約によって国民の請求権そのものを放棄したのではなく、国家としての外交的保護権を放棄しただけだから、米国政府を相手に個人的賠償請求訴訟をやりたければやりなさい」といって(但し、原爆投下当時日米両国は国家無答責原則を採用していたから、国際私法上、請求権の実体的要件を充たさず、救済はない)、原告の請求を拒んでいたわけです。
これによれば、サ条約と同じ「請求権放棄条項」を持つ日韓請求権・経済協力協定においても、韓国人元従軍慰安婦の日本政府に対する個人的損害賠償請求権は放棄されていないことになります。そこで、右協定後も、国際私法上、不法行為に基づいて、元従軍慰安婦の請求が認められる可能性があることになったということです(その他の論点は除く)。
しかし、上記解釈の「転換」によって、「国民」の実体法上の請求権自体が放棄されたことになるので、平壌宣言でも、わざわざ「その国民の」とあれば、日朝国交回復後も、北朝鮮にいる元従軍慰安婦からの損害賠償請求は一切拒否する、という結論になる危険が大きいのです。
長い文章をお読み下さって、ありがとうございました。