しばらくネットにアクセスできずにいる間に人文学徒さんから私の7/7の投稿に絡めた論考(7/25)が掲載されていることを一週間ほど前に知り、返事を練り、投稿しようとした矢先に、今また愚等虫さんから、ついで樹々の緑さんからも私の投稿への反応があったことを知り、少し慌てているところです。とりあえずは人文学徒さんへのお返事として書いたものをそのまま投稿させていただきますが、これは愚等虫さん、樹々の緑さんへのお返事とも重なる部分もありますので、お読みいただけましたら幸いです。また次回、私の7/7の論考のまずかった点を中心に反省文も書かせていただきますが、少しお時間を下さい。
さて、人文学徒さん、私の茫漠たる想いのその先を理路整然とまとめていただき、まずは感謝申し上げます。私は8割方説得されましたが、スッキリしたいので残る疑問点を書き足します。
マルクスは、高度に発達した独占資本主義国家において「上部構造」にかくも非人間的な歪みが現れるこの時代を経験し得なかったけれども、その到来を正しく予見したのだと思います。貧困、社会的不幸を放置する、そのこと自体に社会悪を発見するのが左翼だとしたら、社会民主主義を目指すなんらかの統一戦線政府ができても、そうした社会的不幸を根本的に解決する道筋の一端でも示さない限り、小さくても鋭い批判の論陣が左翼の中に必ずや立ち起こるでしょう。人文学徒さんの指摘されるように、社会民主主義を挫折に追い込む最大の要因は左翼の中にこそあるのかもしれません。
社会民主主義的な統一戦線政府が近い将来にできる客観情勢も整っていない現在において、左翼政党はどのような政策を掲げるべきか。現実に即応した改良を提起するとして、その改良が、過渡的な処置としての不十分さは内包しているけれども根本的な解決に至る道筋に沿っていることを説得的に語ることのできるもの、それが望みうる最上のものには違いないと考えます。「根本的な解決に至る道筋に沿う」ことは理論的な合意を前提とするので容易ではありません。私の7/7の問題提起は、社会変革の理論ではなく、目指すべき未来というものの理念についてなら、漠然とすればこそ逆にある程度は一致できるのではないかという期待を込めてのものでした。
しかし、先の投稿で「現状で実現の可能性の高い「よりマシな改革」を、その先の展望が曖昧なままに前面に主張すると左翼内では「右」と評される・・」と書いた時点では、この「理論」と「理念」の関係が曖昧でした。左右の対立を実体に即して考えてみると、例えば昨年の天皇制の評価・位置付けをめぐる対立では、綱領改定への「左」からの批判が、直ちに天皇制廃止を主張せよとせまったものでないことは明らかです。一般論として言えば、私も含めて、直近の改良の質そのものを問うたのではなく、指向されるべき未来の理念を示すべきだと主張したのでした。
今回の選挙においては、共産党支持者の中にも民主党への一定の期待感があったと分析されているようです。民主党の実体は「烏合の衆」ではあるけれども、それ自身が「改良主義」の統一戦線の政党と言えなくもない訳です。その民主党の党首が憲法改正後の国連決議の元での武力行使容認の発言をし、その真意を説明する中で、「一国平和主義」という言葉を使って憲法第九条を批判してみせた。折しも「九条の会:http://www.9-jo.jp/」が旗揚げして、日本国憲法の平和主義を世界の隅々にまで普及させる活動を通じて「一国平和主義」ではなく世界の平和主義構築を目指そうと呼びかけたばかりという状況での出来事でした。憲法九条は理想論であって、現状で国際情勢に即応できる力を持っていないとの共通認識があったとしても、息の長い活動を通じてその理想を現実のものにしようと行動を起こす者の立場と「改良主義」の立場との差異はあまりに明瞭です。この絶望的な世界情勢の流れに抗おうとしてわき起こる運動も、やはり「理念」によって駆動されているのでしょう。
人文学徒さんは、左翼の中の「左」を「理論重視」という言葉で括って、「彼らの諸概念がその後の世界の何か質的変化に耐えられるものであるか否かという問題がある」とする一方で、自らの「理論」を示されました。例えば次のように:
>社会主義自身への道がなんらか世界的な規模でしか考えにくくなった現在、一国内でできることは、ますます限定的な改良主義的なものと、多国籍企業の規制や地球的将来やを目指して他国の民主主義的な運動、政党などとの連携を強化していくこととではあるまいかと思う。
さて、そもそも「社会主義自身への道」を指向する、それ自体が「理念」に基づくものです。社会主義へ至るには上記の道しかあり得ないことを説得的に語ろうとする人文学徒さんのその情熱の源泉もまた理念に依っているのだと、理念をそのように捉えています。改良を重ねる事と「改良主義」とを明確に区別したい私の立場からすると、そうした、ある種の目指すべき未来の理念というものに駆動されて構築された理論の中で遣われる「改良主義」とはなんだろうと、ふと思ったのでした。
これはもう私の能力をこえていますが、マルクスは資本主義の帝国主義段階を見ていないけれども理論的に予見していたし、レーニンは、多国籍企業が現在のように支配するグローバリズム資本主義を体験していたわけではないけれども、そうした世界の到来を理論的に予見していたのではないでしょうか。彼らの諸概念、とりわけ「搾取」という概念は、今や世間一般で語られることすらなくなりましたが、世界経済の展開を予測する基礎として今でも有効である筈です。
一方、地球的将来を憂うのは、野放しの多国籍企業の活動が現に地球環境の未来を危うくしているからですが、マルクスもレーニンもそのことまでは予見し得なかった。それらの理論的諸概念が、現実世界の質的変化に対応できないとしたら改める他ない訳ですが、そうして理論を改めようとする駆動力の源泉もまた「目指すべき未来の理念」にあるのだと考えます。そうでなければ、個々の改良が常に後手後手にまわり、時既に遅しということにもなりかねません。「改良主義」の本質的な弱点は、未来を展望した理念なき改良を重ね続ける結果、抜き差しならぬ状況を現出せしめ、そのことで自らの選択肢を狭めるという悪循環に陥る危険性にあるでしょう。ある意味、「洪水は我が亡き後に来たれ」と同質です。
抜き差しならない状況は、個別の問題としては例えば原発の問題に現れています。現に多量の高レベル核廃棄物が溜まってしまい、甚大な負の遺産を未来永劫遺すこととなった。左翼の中では、地層処分を含めて、あらゆる処分に反対する運動がある一方で、溜まってしまったからには処分しなければならないというジレンマに悩み、運動の分裂も起きている。もともと、「自主、民主、公開」なら原発を容認するという共産党のスタンスは、将来に渡る廃棄物問題までをも視野に入れたものではなかった。そして今現在、少なくとも国家レベルにおいては安全に処分する道(そんなものはない)を探るという政策しか選択の道はなくなった訳で、左翼統一戦線政府ができても同じ負の遺産を引き継ぐしかないのです。
反核運動の分裂以来、古くから脱原発を主張してきたグループからの共産党への批判には相当に根深いものがあります。その根深さは、原発誘致のプロセスなどの個別の問題への対応にあるのではなく、地球環境をも含めた未来を展望する理念なしにその場しのぎの政策誘導に荷担してきたことについて、なんらの反省もみられない点に由来するでしょう。そもそも反核運動の分裂そのものが、理念不在のために「あらゆる国」の核に反対し得なかったことに起因すると言えるかもしれません。今や、反核運動の拠点であるべき広島と長崎での共産党の勢力後退は際立っています。
左翼政党の中での「左」であった筈の共産党に、このような、少なくとも表面上は「改良主義」的誤りが生じたのも、結局は(今ある)理論に固執したからであるとすれば、「理論重視」と「改良主義」との間にある関係は、そう単純ではないようです。「改良主義」であっても「理論重視」であっても、共に理念軽視に陥る時に、それぞれに誤りを軌道修正する手がかりを失ってしまいます。このように考えると、先に引用した文中で人文学徒さんが遣われた「改良主義」の中身が、私が遣った「改良主義」とは違ったものに感じられるのです。自ら左翼内の「右」と称される人文学徒さんですが、さて、どうなんでしょう。
左翼が分裂しやすい要因の一端には、長い間開かれた討論の場を持たなかった歴史からくる「左翼文化」の歪みもあると考えています。私達がそのことを改め、意識的に新しい文化を創造する努力をしたなら、「理論」の個々にある差異を乗り越える力をも獲得できると信じています。理念を軽視し、理想主義者であることをやめるならもはや左翼ではありません。その理想の中には、そうした営みも含まれる筈です。いずれにしても、まずは開かれた討論の場を日本共産党が率先して確保することでしょう。一国内の民主主義であれ、組織内の民主主義であれ、ことが民主主義というものの理念に属する問題であれば、異論者を放逐してきた過去の誤りを率直に反省することでしか再出発できない筈です。