愚等虫さん、樹々の緑さん、私の至らぬ点、いろいろとご指摘いただきありがとうございます。
まず、以下に述べることの真意を理解して頂くために、先に私の心情などを披露しておきます。私が、このような場で発言をするに際し、その基本的態度として最も大切なことはなにかと考えましたことは、一般投稿欄の6/12と6/18に投稿しましたのでくりかえしませんが、樹々の緑さんが先の投稿で示されましたものとほぼ完全に過不足なく一致していることを確認したいと思います。短く言い表せば、一般投稿欄でロゴスさん(6/13)が示された「なにごとかを主張し、議論をするに当たっては、事実に基づき、道理にのっとり、多くの場合節度をもって、そして理性と情熱をもって、今日私たちを取りまいている情勢について語る」ということでしょう。
樹々の緑さんの、「拉致」の問題、広く日朝間の問題等について、国際法の専門家らしく緻密な論理展開でねばり強く語られる姿は、まさにそのお手本になると考えておりました。僭越ながらこの欄7/11の投稿で「もとより私は、樹々の緑さんのこれまでの一般投稿欄での議論などにおいても、上記の「節度」は十分に発揮されていると共感もしてきました」と書いたのも、文面通りに受け取って頂きたいのです。
さて、私の7/7の投稿は、左翼内の右派と左派のどちらかに軍配をあげようとしたのではなく、大同団結の道を模索するためのものでした。愚等虫さんの6/17の投稿に触発されて・・・と書いたように、最初から、右、左のレッテル貼りは無意味であるとの結論を導き出す、その誘い水のつもりで、やや気楽に書いたものです。
これには、実際にいろいろな対立があるその過程を現象論的に観るという態度で望みました。その観察対象には私自身も含まれています。私自身、これまでいろいろな議論に巻き込まれ、意見の対立も経験した中から、その対立の図式に何らかの規則性や連関性といった要素を見いだそうとしたのです。最初に気付いたことは、多くの対立が二次元的・線的であって、三角関係さへもない。このことは新鮮な驚きでした。もっと議論が立体的であれば弁証法的な発展も可能であろうに、これでは、直線の上を行ったり来たりするだけではないか(ほとんど自分のことですが)、まあ、それが実体であるなら、しょうがないから右、左の物差しでも当ててみるか・・・、といった調子です。
まず、左派であるとか右派であるとか中道左派であるとか自称されている方々と自分自身の指向とを比較してみる。そうすると、例えば左派を自認する「さざ波」編集部の立脚点にシンパシイを感じて、とりあえず自分を「左派」と位置付けてみる。これと対立するものに、「極左」や「右派」があるとして、その対立の構図を明らかにする、といったプロセスの一環です。「左派」、「右派」というのは、これはあくまで自称ですから、それ自体に意味がある訳ではありません。
私は分からないことがあると文章を書きながら考え、書いたものを読んでもらい、その反応から試行錯誤を進めて自分なりに腑に落ちるところへおさまるという性分です。実際、いくつかの反応があり、先ず樹々の緑さんからのもの(7/9)は、私の論考の至らなかった部分をズバリ指摘していただき、大変参考になりました。しかし、私の最初の投稿に本質的な欠陥を含んだ文章が紛れ込んでいたことは、愚等虫さんのご指摘があるまで気がつきませんでした。ただし、その欠陥について私が思いますことは、愚等虫さんのご指摘とはちょっとだけ違います。
>「現にある不幸を救済しようとする時にどうして過去の経緯など関係があろうかと主張する者」が、「右」(?)と呼ばれるとしても、さつきさんの論で言われる、「「左翼」は、人類社会の歴史的な発展を展望し意識的に追求するという指向性を持っている」者たち、私が申しました、「歴史の中で、進歩派でいたいと思って」いる者たち、という訳でしょうから、さつきさんの論では、「過去の経緯など関係があろうかと主張する者」は、「左翼」と呼ばれる者の中には、入らないのではないか、と思ったのです。
そうした、さつきさんの言われる「過去の経緯など関係があろうかと主張する者」たち(「右」)が、「他の不幸にどれほど目を向け、立ち上がっているのだろうか、あるいは政府を動かそうと努力しているのだろうかと考えると、私などは、はなはだ疑問に思う」という言葉から感じましたものは、左翼内の「右」ではなく、金正日体制を「社会主義・共産主義」として「同一視」し、逆に、政治的利用を図っている「右翼」勢力のことではないか、というような印象でした。 (愚等虫さん:7/31)
ここで言及されています私の文章中では、たしかに左翼の中の「右」、「左」と、左翼、右翼そのものがごっちゃになっています。特に、「他の不幸にどれほど目を向け、立ち上がっているのだろうか、あるいは政府を動かそうと努力しているのだろうかと考えると、私などは、はなはだ疑問に思う」その対象は、もはや「左翼」ではありません。愚等虫さんご指摘のように、左翼の中の「右」、「左」を論じる文脈の中では全く不適切でした。このことで樹々の緑さんを不愉快にしたのでしょうね。お詫びいたします。
ただし私は、「人類社会の歴史的な発展を展望し意識的に追求するという指向性を持っている者たち」、あるいは「歴史の中で、進歩派でいたいと思っている者たち」の中にも「現にある不幸を救済しようとする時にどうして過去の経緯など関係があろうかと主張する者」たちも居るのではないかというのが私の認識です。ここでは私は、とりあえず「左翼」の幅をう~んと広くとりたいと考えました。
また、別の箇所で「昨今の「拉致」問題への国中の熱狂ぶり」と書いた、その中にも「左翼」のそれを含んでのことです。
一方、樹々の緑さん(7/9)の「日本人拉致は明白な国際的無法行為であり、日帝の過去の行為の未清算が拉致問題解決の障害として正当化はされない」というくだりは、「過去の経緯など関係があろうかと主張する」のと違うということまでは分かりますが、私は今でも留保したいと思います。これに反対という意味ではなく、腑に落ちる境地にまで達していないのだとご理解下さい。
私は、イラク討論欄での「テロ」の問題に絡んで要約、次のような主張をしたことがあります。つまり、「国際法」など常に大国の都合しだいでいつでも反故にされてきた。まっとうな国際法が世界の隅々にまで行き渡り、守られている(法の下の平等)という状況下でならテロ非難の大合唱に加わることができるが、国際法はかけらもなく踏みにじられ、それを改める運動をきちんと組織し得ず、よく闘えていない状況下では、テロ非難のアピールを匿名でネット掲示板に流すことなど自分にはできないこともある。何より、そのような行為こそがさらなるテロを誘発する契機となる場合もある・・・と。
イラクにおける三人の日本人拉致もまたテロであった訳です。あらゆるテロを非難すべきと主張する人たちは、あの時もまた拉致したイラク人武装グループを断固として非難する大合唱を起こすべきであった筈で、事実そうなりました。その中には、う~んと広い意味での左翼も含まれていたであろうと思います。実際にしかし、三人を救ったのは、そうではなく、心ある多数の日本人が国会前に押しかけて、海外メディアの前で、「私たちはあなた達と共にある味方ですよ」とアピールをしたことにあったと認識しています。それは決して三人の命を救うためだけの方便ではなかった筈です。そのお陰で「テロリスト」は、目的も達せず、三人を解放した。その瞬間、彼らは「テロリスト」であることを止めたのです。
このような経験から私は、イラク討論欄の場で考察を進めたその結論は、今でも正しかったと思っています。私はこのことを足がかりに北朝鮮の拉致の問題を考えようとしましたが、いかんせん、歴史的な事実に関しても、現在の関連国際法および、それを取り巻く情況なりについてもあまりに知識が乏しく、7/11の「樹々の緑さんへ」と題する返答では、そのことを正直に「「拉致」の問題については、私自身不勉強で、これ以上は述べることはできませんが、・・・」と書いたのでした。これはもう、言葉通りに受け取って下さいと言うしかなく、決して論点を故意にはぐらかそうとしたものではありません。
北朝鮮問題に疎い私は、今回、樹々の緑さんへの返信を練る過程で、いわく言い難いモヤモヤを晴らすのになにかヒントになるものはないかと情報を求め、ブックマークの中から「緊急声明 拉致事件に対する在日韓国・朝鮮人の声明」を見つけ、これを再読しました。さてこれは、さざ波サイト上で紹介されたものに違いないが、どなたであったろうかと「北朝鮮問題討論欄」の過去ログなどを読み返したりもしました。そこに「がんばれない共産党員」さん(2003/12/17)が、上記のアピールを引用されているのを見つけましたが、URLは書いてない。他でどなたかがサイト情報を紹介されたのでしょうか。
それはさておき、そのアピールには次のようなくだりがあります。
> しかし、北朝鮮による日本人拉致事件は、こうした在日韓国・朝鮮人の志をも踏みにじる卑劣な行為であり、同じ民族として断じて許せない。そればかりか、金正日国防委員長は拉致事件を「不正常な関係にある中で生じた」ことを理由に軽視し、朝鮮国営通信は日本の植民地支配の事例を上げながら拉致事件を正当化する宣伝まで行っている。また、在日韓国・朝鮮人の中にも、植民地支配を引き合いに出して拉致事件を論じる人がいるが、憂慮すべきことだ。被植民地支配の歴史は、未来を豊かにするために用いるものであって、北朝鮮の蛮行を隠蔽するために用いるものではない。朝鮮人側は、こうした態度が「開き直り」としか理解されないことを悟るべきだ。
さらに、見落としてはならないのが、北朝鮮側が「開き直り」の論拠を、日本の「過去の清算」に置いている点だ。日本は過去の植民地支配を反省したというが、「責任者処罰」「謝罪」「真相解明」「国家賠償」など、全て曖昧にしてきた。北朝鮮側も、これを真似て、拉致事件の「真相解明」などを曖昧にしようとしているのだ。北朝鮮側は、これで日本側からの反論はないと踏んでいるが、しかし、植民地支配の被害を受けてきた朝鮮民族だからこそ、拉致事件は誠実に「謝罪」と「真相解明」し、そして国家賠償をすべきではないか。拉致事件の「解決」で、未来に禍根を残さぬよう厳しく指摘する。
上記は、樹々の緑さんの主張とほぼ同じであろうと感じましたし、私にとっても納得できるものです。ただしそれは、在日朝鮮人のグループから同胞へ向けられたものとして共感できるという意味であり、樹々の緑さんがこれまで書いてこられたことは、日本人からの日本国国民、あるいは日本国政府に向けてのものであるという点で違いがあります。この違いの意味は、当時「がんばれない共産党員」さんの議論の相手であった天邪鬼さんが次のように応じられたことで、私にとっても明確になりました。
>宣言では拉致を、強制連行を引き合いに出して免罪されることに反対し被害者、家 族に謝罪と賠償をせよといっています。
わたしはこの態度を民族の誇りから言っているのだと受け止めます。本当は日本に 対していいたいことがあるでしょうがつばを飲み込むように触れていません。
では私も民族の誇りから言いましょう。日本政府はかっての強制連行や朝鮮植民地 支配に対して本当に謝罪し賠償せよと。又、日米安保条約を破棄し有事立法を廃案に せよと。平壌宣言を誠実に実行せよと。私はこのがんばれない共産党員さんの紹介し てくださった宣言にまったく頭が下がる思いですがこれは在日の側からいえることで 私達日本人側で同じことは言えないと思います。(天邪鬼さん:2003/12/19)
どのような立場のものにとっても真理が一つであれば、この世はどんなにか分かり易く、簡単であることでしょう。さて、いよいよ、私にはこれ以上何も言えなくなってきました。続きは、考えがまとまりましたらまた書きます。
広島の59回目の原爆記念日に