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「組織論・運動論」討論欄

抜本改革は急務

2004/08/08 津南雄 40代

1.「なし崩し」的修正による上からの変貌

 周知のように、1989年の東ヨーロッパ革命、1991年のソ連消滅があり、社会主義体制は崩壊した。西ヨーロッパの有力な共産党もほとんど自己解体(社会民主主義政党へ脱皮)するか、弱小ミニ政党へと転落した。
 日本では、小選挙区制度の導入により、政界再編が進み、有力な護憲・左翼勢力であった社会党が解体し、社会民主党(右派)となった。左派は新社会党をつくったが、国会に議席を持たない微々たる勢力となった。
 共産党は、しばらくは宮本顕治の続投により、イタリア共産党が左翼民主党へと大胆な刷新をはかったような 自己改革をせず、従来路線を継続した。
 その後、、宮本顕治が病に倒れてから、不破・志位体制が確立し、徐々に右傾化路線をとる。すなわち、自衛隊の国民合意による廃止、つまり国民の意思まかせという自衛隊存続容認路線(10数年遅れの社会党路線「違憲合法論」の二番煎じ)。
 現憲法が「ブルジョア君主制の一種」である、という文言の綱領からの削除。ヒロヒトの妻(皇太后)の死去に際しての国会弔問決議に賛成。
 皇太子徳仁と妻(后)雅子との間にできた第1子(娘愛子)の誕生に際して祝賀コメントを発表。
 国民主権の憲法原理から逸脱した皇室容認路線につきすすんでいる。
 このように右傾化を推進しながら、党内民主主義については相変わらず民主集中制の堅持。中央幹部が国民や下部からの批判を受けて退陣するなどという他の政党では普通に見られる事態が全くおこらない。そもそも、2001年、2004年の大会で規約、綱領の大幅改訂に際して、中央幹部の提案がほぼ全党に受け入れられるということ自体おかしなことであるはずだ。
 改訂以前まで「正しい」「正しい」と言い続けていた内容と正反対のことを決めるのに、どうして論争くらいおこらないのか?社会党は方針転換に当たって、少なくとも激論があった。ところが共産党は、61年綱領は現在でも基本的に正しい、こんどの新綱領は細かな点でわかりやすくした、詳しく具体的に解明した、などといってごまかしてしまう。そしてそれが党内で通用するところが悲しい。
 ブレーンであるはずの学者党員たちは何をしているのか?(田口富久治や藤井一行、中野徹三、高橋彦博はやはり偉大な学者であった。彼らを切り捨てたのは大きな間違いだった)これまで様々な潮流を党内抗争でふるい落としてきたため、宮本顕治に忠実な人々しか残らなかったのだろう。
 いや、宮顕に忠実であったら、今日の共産党の右傾化路線に賛成はすまい。ということは、単に中央幹部の言説を正しいと思いこむ(無理やり思いこませる)、自主的思考能力を失った指示待ち党員の群れと化したということか?残念ながら、どうもそれが正解のように思える。
 例を出そう。
 61年綱領が堅持していた理論によると,「民族民主統一戦線政府の樹立」から発展する「人民連合独裁」の「革命の政府」による革命こそが「新しい人民の民主主義革命」であり、「民主連合政府」の段階では民主主義革命ではない、とされていた。
 すなわち、民主連合政府が遂行するのは安保条約廃棄までで、サンフランシスコ講和条約の何項かを廃棄し、サンフランシスコ体制を打破するまでに進まなくては革命の政府とは言えない。つまり、サンフランシスコ講和条約のいくつかの条項を破棄するという革命の課題は、「民族民主統一戦線政府」から発展した「革命の政府」こそが行いうるのであって、「民主連合政府」にはそのような課題は担えない、とされていたのである。
 ところが今回の23回大会で、「民族民主統一戦線政府」の課題を「民主連合政府」が遂行するので、「民主連合政府」が革命の政府である、とされた。これまで明確に区別されていた「民族民主統一戦線政府」(これが革命の政府になる)と、「民主連合政府」という概念が間違っていたのか、どうか。この峻別はキーポイントであったはずだ。
 これを曖昧にすることは許されなかった。しかし、今回「民主連合政府」一本となった。どちらが正しかったのか?過去の理論はいつから「正しくなくなったのか」?両方正しかったのか?そんな、両方正しかったなんて・・・。しかし、不破氏は、改訂前の理論が間違っていたとは一切言わない。そして、誰も、そんなことは追求しない。
 天皇制の問題でも、こんな具合である。

 <天皇を「君主」扱いして、憲法が禁じている「国政に関する権能」を、部分的にもせよ、天皇にもたせようとしているのが反動派の復古主義的なたくらみであります。
 党の綱領に「君主制」という規定を残すべきだという議論は、実践的には、こういう復古主義者たちを喜ばせる性質のものとなることも、あわせて指摘するものであります。>

 では、何か?61年綱領制定時から2004年までのこのかた、ずっと「復古主義者たちをよろこばせ」ていたというのか?自分自身にふりかかってくるようなことをよく言うよ。なんで自己撞着になるような議論を平気でするのか。やはり、1989年の東欧革命以降、党幹部の論理展開のおかしさが目立つ。
 例えば、これまで自慢していた「社会主義生成期論」も、現存した社会主義国を明確に社会主義国と認識していたにもかかわらず、「社会主義への過渡期」という認識だった、などと嘘を述べ、現存した社会主義国は「その過渡期すらでもなかった」とされた。(1994年の20回大会)。
 普通に、世間一般とほぼ同様に、様々な問題点や弱点をいくつか知りつつも「社会主義国であると見ていた」という過去の認識は、現在の「社会主義国でなかった」という認識とは巨大な隔たりがある。だから、自分たちの過去の認識が(すなわち生成期社会主義論が)、「社会主義国とは見ていなかった」、「社会主義には至っていなかったという認識だった」、「社会主義への過渡期であるという認識だった」、という嘘を創作し、ワンクッション置くことによって、認識(事実誤認とその修正)の落差を緩和しようと試みたのだ。
 嘘でないというなら、聴濤弘の『21世紀と社会主義』(新日本出版社、1984年)を開いてみればいい。そこにはこう書かれている。

<ソ連、その他の国々が、生産手段の私的所有を廃止し、『ゴータ綱領批判』のいう『革命的転化の時期』を通過し、共産主義の第一段階に入ったことは明瞭な事実です。まだそこにいたらない国々があることも事実です。しかし、第一段階に入った国でも、これまでみてきた『生成期』状況を脱するところまで発展していません。
 『生成期』論の特徴は、この第一段階に入った国々も、まだそこまでにいたらない国々も全体として、『生成期』の状況にあるとするところにあります。>(255~256頁)

 「共産主義の第一段階(つまり社会主義のこと)に入ったことは明瞭な事実です。」とはっきり言っているではないか[( )内は引用者]。聴濤氏は当時、社会主義論に関する党中央幹部の代表的論客だった。これをどう説明するのか?説明できまい。

 ごまかしや矛盾した議論に気づいている人もいるはずだが※、ほとんどの人はつっこみを入れない。深く追求すると、党中央幹部の権威ががたがたと崩れ落ち、党内が混乱するのを無意識的に恐れているのかも知れない。しかし、これで「科学的」社会主義とか、「科学の目」とか言っても、党外では勿論のこと、党内ですら通用しないはずである。

※・中野徹三「日本共産党綱領とその諸論拠」(労働運動研究所『労働運動研究』1988年3月号、4月号所収)。あるいは,中野徹三「日本共産党はどこへ行くのか」(季刊『窓』7号,1991年)これらの論文によれば,第12回党大会(1973年)に「民主連合政府」についての提案が出された時点で,61年綱領との矛盾が存在し,整合性をはかるべく綱領はその時に改定されるべきであった,とされる。
 ・中野徹三『古い教条とあたらしい現実との谷間で』(労働運動研究所『労働運動研究復刊第6号』2003年12月号,所収)
 ・『さざ波通信34号』
 ・村岡到「破綻した日本共産党のソ連認識」(『週刊金曜日』1994年8月26日号)はすばやく「ウソ」を指摘した。
 ・歴史教育者協議会編集『歴史地理教育 2003年10月増刊号(通巻660号)』(高知大会特集号)の「現地見学」報告の中に、土佐清水市にある上田庄三郎(上田耕一郎・不破哲三兄弟の父親で教育評論家)の記念碑の紹介(川鍋光弘氏)が載っており、「いささか乱暴な不破氏の議論」といったさりげないコメントが述べられている。
 ・不破哲三は「『資本論』の中の未来社会論」(『前衛』2004年5月号)で,マルクスの「必然性の王国」と「自由の王国」という区別について論じ,「同一社会段階の2つの側面」を論じたものだという,奇想天外な解釈を示した。先の大会の綱領改定案作成の段階で,マルクスの『ゴータ綱領批判』における「共産主義の2段階論」を批判し,分配論で2つの社会を区分するのはおかしい,として,社会主義と共産主義の区別をなくした。
 そして,それを理論付けするために,今回の解釈を打ち出したわけであるが,今回の新解釈を見ても,不破氏が専門家の議論をなんら参照していないことがよく分かる。
 例えば,松尾匡「共産社会二段階区分論の再検討」[『経済理論学会年報第30集』青木書店1993年所収,同氏『近代の復権』晃洋書房2001年に再録]という先行研究があるが,松尾氏の議論の展開や内容,結論は不破氏とはまったく違うし,緻密である。不破氏が松尾氏の論文を参照したとはとうてい考えられない。
 「全般的危機論」について論じたときも,先行研究を無視した議論を展開していた(加藤哲郎『コミンテルンの世界像』青木書店1991年参照)。今回の「論文」もその例にもれないことを証明した。誰か,本当に,彼をいさめてほしい。

 国民は、かなり右傾化した。共産党もその国民意識に迎合して右傾化路線の新綱領を決定した。しかし、党内民主主義がなく、選挙に負けても幹部が居座る状況に、国民は共産党の反民主性を感じ取っている。あいかわらず嫌いな政党断然トップが共産党だ。
 右傾化綱領を確定したが、国民の支持は得られなかった。その原因は何か?党内民主主義の欠如ではないのか?現在の幹部に代わる人材がいないのか?

2.自己をも欺く信じられない楽観主義

 90年代後半の「躍進」の時期(1996年総選挙、1998年参議院選挙)、不破哲三は、まったくとんちんかんな、自己陶酔のような言説を垂れた(2000年1月、21回大会後の第五回中央委員会総会での中間発言)。

 〈われわれは以前にも、七○年代に躍進の時期を経験しましたが、今日、わが党の躍進をささえ、またその背景になっているこれらの条件は、七○年代の躍進の時期にはもたなかった厚みと深さがあるということを、私自身の実感としてのべておきたいと思います。〉

 90年代後半の「躍進」は、巨大な左翼の社会党の崩壊による一時的な受け皿として、共産党に票が集まったのが「躍進」の原因と実態だった。それは事実が証明した。その後の選挙ですべて敗北、後退し、2003年の総選挙では9 議席。なんと1960年代後半の勢力に戻った。
 「七○年代の躍進の時期にはもたなかった厚みと深さがある」?「私自身の実感」?
なにを寝ぼけたことを言ってるのか?下部の一般党員の不安を解消するためかも知れぬが(不安材料はいくらでもあった。全体としての左翼勢力の半減化、否それ以下の状態、第3極=左翼勢力の結集の困難性、労働運動、学生運動の退潮、労働組合組織率の減少、青年党員の激減=老人党化等)、こんなごまかしはすぐ崩壊する!と、当時私もWebサイト「さざ波通信」運営者とともに感じた。
 が,こんな自己をも偽るような楽観的情勢判断を述べた誤りについて,責任を彼は感じないのか?
 加藤哲郎氏の『ジャパメリカの時代に』(花伝社、1988年)によれば,日本の国民が社会主義に期待を寄せていたピークが1974年で,あとはずっと下降しているらしい。やはりそれに対応するように,共産党への支持も,1972年の衆議院選挙での躍進以降,得票数,得票率,で大きな前進はない。
 1970年代の後半からは,党内の青年の占める割合も徐々に減っていき,今日に至っている。少し考えれば,「七○年代の躍進の時期にはもたなかった厚みと深さがある」などと言えるはずがない。

 そして、今日の1960年代と同様の極小勢力に戻された状況にあって(当時は巨大な護憲・左翼政党である社会党が存在したが、今はもうない。社民党と数を合わせても衆議院で15議席しかない!!参議院でも共産4,社民2しか取れなかった!)、党中央幹部や一般党員は何を考えているだろうか?
 共産党の衰退は避けられないのか?教育基本法は?憲法9条は?

3.活路はないのか?改革の緊急性

 1980年代からずっと続いてきた左翼の衰退を肌で感じてきた私にとって、敗北を重ねる現実ばかりで、楽しいことがほとんどない。
 自己刷新と巻き返しのチャンスは、いくつかあったと思う。1989年の東ヨーロッパ革命の時期、社会党解体の前後、1996~1998年の「躍進」期。このいずれの時期も旧態依然の守り路線、特に党内民主主義の欠如のまま。チャンスを逃した今となっては、どうしたらいいのか?実力のあるうちこそ自己刷新の効果があったのでは・・・・。
 現実を冷静に見れば左翼側の弱点の多さにぞっとする。まさに抜本的な自己改革が必要なのだ。では、どうすればいいのか。
 中央委員会総会の選挙総括を待つのではなく、今すぐ、中央幹部の責任追及、退陣、党内民主主義の確立のための改革案の作成、党刷新のためのアイデアを募る党内外の人々を集めての公開シンポジウムの各地での開催、中央機関紙『しんぶん赤旗』紙上での綱領、規約、選挙、路線問題など多方面にわたっての公開討論欄の設置(要するに、中央幹部の意向に沿う意見の掲載だけではなんの解決にもならないということだ)、などに早急に動き出すべきなのだ。
 (中央路線に忠実な意見しか載らない機関誌など私はほとんど読まない。)

4.「短い20世紀」の教訓は何だったのか

 社会主義への魅力がほとんどなくなった現在となっては、中国やベトナムの市場経済化に社会主義の希望を寄せる不破哲三の議論に共鳴する一般国民など、皆無ではないだろうか。経済的にはまさに資本主義の導入であり、政治的には一党独裁というなんら参考にならない良くない例にすぎないではないか。
 東欧革命の教訓は、政治的には一党独裁という政治的民主主義の欠如という問題だったが、経済的には何だったか?それは、市場経済をいち早く導入し比較的うまくいっていたハンガリーや、中央集権システムのアンチテーゼとして期待を集めたユーゴスラビアの労働者自主管理も、結局は、社会主義下の生産単位である各企業に企業家精神が育たなかったという根本問題であった。
 これを、冷厳な事実として直視することだった。社会主義システムの矛盾とその解決の困難性という確たる事実。これを直視しない楽観論の不破共産党になぜ専門家は諫言くらいしないのか?中国の資本主義化とそれを推し進めたトウショウヘイを礼賛する大西広氏などがいるくらいなので、自信をもっているのかも知れないが。
 中国が発展しているとはいっても、それは社会主義のゆえではないし、社会主義にいくらかのポイントがはいるわけではない。経済の急成長にともなう負の側面(日本の高度経済成長がまさにそうだったではないか)も当然存在する。なのになぜそれほど礼賛するのか?私にはわからない。

5.再検討されるべき課題は山積

 下部の一般党員は、今回の選挙の敗北という問題だけにとどまらず、過去にさかのぼって、中央の路線を点検しなければならない。これまで、数々の転機があった。
 61年綱領制定過程での批判派に対する非民主的な方法での排除(構造改革派などの排除)、1972年の新日和見主義批判、1979年の田口・不破論争(藤井・榊論争)、1981年の小田実ら市民運動(日本はこれでいいのか市民連合)批判、1983年の民主主義文学同盟『4月号問題』、1984年の原水協問題、1986年の伊里一智問題、1987年頃のネオ・マルクス主義批判、
 1989年の東欧革命を受けた党内批判派の切り捨て、スパイ査問リンチ事件問題への対応(下里正樹氏除名、森村誠一氏離反)、国旗・国歌問題、北朝鮮拉致問題への対応(北朝鮮への帰国運動を推進したことへの反省、有能で功績のあった赤旗記者や国会秘書の排除問題)、等々。
 いくらでもある。数多くの曲がり角での選択が、正しかったのか、今こそ再検討されるべきなのだ。
 中野徹三氏の『古い教条とあたらしい現実との谷間で』はきわめて説得的な内容であり,共感できる(---『労働運動研究復刊第6号』2003年12月---宮地健一HPに全文掲載されている)。

2004/08/08