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「組織論・運動論」討論欄

人文学徒さんへ

2004/08/10 浜吉 60代以上 年金生活者

人文学徒さんへ

 いつもご丁寧なお話を賜り、本当に嬉しく思っております。旅行や他の用事等でなかなか書けなかったことをお詫び致します。とりあえず思いついたことを述べて、お返事にしたいと思います。
 人文学徒さんが、ご自身の活動を振り返って「大衆要求実現活動」とか「二本足の活動」について述べておられること、まさにその通りだと思いました。それらのお話は、私自身の経験でもあり全く同感に思います。重大なのは、そのご指摘が今もそのまま通用するということです。十年一日の如き共産党の姿が、そこにあるのです。そんな共産党を嘆くよりも、「どうしたらこうした事態から脱却出来るか」ということこそが、今考えられなければなりません。
 大事なことは、教訓の宝庫である貴重な経験を見捨ててはならないことです。「あのときこうすれば良かった」「あのとき、自分が学んでいたことはなんだったのか」と想い起こすことは多々ありますが、このかけがえのない教訓を「今」にどう生かしていくのか、それこそ真剣に考えて欲しいと思います。
 私自身の「あの頃」の教訓をあげれば、何よりも党も党員も何一つ学んでいなかったし、書ける力量もなかったことです。学習や政策研究の必要を口にするのも憚れる始末です。それが党の水準を下へ下へと引き下げてきたことは、本当に厳しい現実です。
 また、党は米日独占資本を敵としながらも、現場における彼我の力関係を冷静に見なかったこと言えます。この意味は実に大きい!と思います。”独占資本はいずれ打倒されるもの”という感覚から、地道な学習や調査、政策作りに力を入れてこなかったのです。ですから、彼らが口にする独占資本批判の厳しい口調は、表面的なもの以上にはなり得なかったのです。
 さらには「民主集中」の党内体制が、実態は「集中」だけのものとなって個々の党員の創意的・自主的な活動を抑え、支部活動を「選挙と党勢拡大」の数の上でしか捉えなかったも悔やまれます。
 結局、党中央は日本を「高度に発達した独占資本主義国」と規定しておきながら、労働者・国民への独占資本の厳しい支配の実態と、それによって労働者・国民の意識内で独占のイデオロギーの常識化と抵抗への諦めが深まっている現実を直視せず、英雄主義の名のもとに表面的な活動ばかりを求めてきたと言えるのです。こうした現実を放置したまま、三十数年もの長期低落を今なお続けさせていることは、本当に許せないことです。それがまさしく「日本有数の巨大独占」の党委員会の実態であるだけに、その姿は「日本共産党そのもの」と断言してもいいと私は思っているのです。

 共産党が上記のようであれば、他方で学会や研究者などのあいだでも心配な現象が起こっています。独占資本でのリストラや超過密労働と過労自殺、人事制度や賃金制度の度重なる変更、もはや労働組合とは言えない労組の実態などを把握出来なくなってきているのです。人文学徒さんが名をあげられたトヨタに関しては、特にそうです。大学教授や研究者達が「あの、成功しているトヨタのどこが悪いんだ」というわけです。殆どの人がそうした現状認識に陥っているというのです。(このことは上記のことと関連しています。すなわち、独占内部で活動している共産党員が自ら所属する企業内実態について、調査も研究もせず研究者とも共同しない為に、独占の本当の実態が学者・研究者に知らされ得ないでいるからです。)最近では三菱自動車岡崎工場の閉鎖に伴う”余剰人員”の一部をトヨタが引き受けるというのですから、トヨタ批判はますます影をひそめようというものです。研究者ばかりではなく、報道関係も同様にトヨタ批判を差し控える傾向にあると言っていいでしょう。研究者とか報道関係者のそうした姿勢に基づく言論・出版・報道は、労組の資本との一体化とも重なって・・・(文字化け)・・・。なぜこうなってしまうのでしょう?
 党中央にしてみれば、選挙での志位氏の弁解のように「我が党は正しかった・・」として、組織原則の民主集中制がもたらす党内の歪みを顧みず、企業の労働者支配の現実と党支部の活動の実際を検証もしないという怠慢が深く根付いているからでしょう。現場の党委員会も、心の底では”独占資本は没落するもの”としてバカにしている(それが、”楽観主義で”であり”英雄主義”などと勘違いされている)からです。これでは薄暗く不気味な党事務所の改善など、話題にさえもなりません。
 次に、「市民社会」を「ブルジョア社会」と見てきた「マルクス主義」の感覚からは(マルクスは全ての著述でそう言い切ったわけではないけれど)、労働者・市民の労働と暮らしからの課題を捉える眼は浅くなり、主観的・一発主義的な「闘い」が優先され、労働者・市民の自覚を高め組織化する点で大きな弱点を残したと言えます。
 また、「労働者は正しい」とか「労働者は守るべき・・」という感覚から、労働者の考えや行動の弱点に気づかず、彼らの問題点を正視しようとしない風潮も重大です。これでは状況判断の片側が欠落して、主体的条件の整備を欠いた課題追求のみという短絡的な結論を生み出し、活動を一面的に歪めていると言えます。結局、問題の分析と総合的な判断の必要も感じないレベルに留まらざるを得ないのです。
 それから、共産党にはいろいろなハンコが用意されていることが、自らの手足を縛っていると言えるでしょう。労働組合を何とかしたいと考えれば「労働組合主義」というハンコを押され、大衆活動重視を言えば「大衆迎合」というハンコがある。数字だけを追求する党勢拡大運動に疑問を持てば「日和見主義」のハンコがあります。北欧諸国の成果に学ぼうとすれば「修正主義」のハンコが待っている。まだまだいろいろなハンコがあるけれど、最後には「脱落者」「裏切り者」というハンコを押される。社会をよくしたいという希望を持って入党してきた党員にろくに教育もせず、党勢拡大の課題ばかりを押しつけて個人競争をやらせ、あげくの果てにはいろいろなハンコを押す。党内の隊列を自ら傷つけ切り捨てていくようなハンコは、捨てて欲しいものです。
 そして、どこの組織も持つ「組織の弊害」を、共産党も人並みにいや人並み以上に持っていることでしょうか。最悪の官僚主義です。ここまでくると、独占資本の幹部連中の方がよっぽど立派です。日々製品やサービスの質を問われ、市場の反応に責任を持って、問題あるところは積極的に対策を打っているからです(三菱自動車はちょっと別だけど)。
 もう一つ言えば、西欧、特に北欧などの成果を「社会民主主義」というハンコを押して無視してきたことです。人類の成果のどんな小さなことでも真面目に蒐集し、良いところを一つでも二つでも学び実現させていくべきなのに、その姿勢が一貫して欠けていたのです。また、独占資本のやっていることでも、「反面教師」として学べるところは学ぶという姿勢がなかったと言えます(例えば各職場が集まってやる改善発表会を参考に、共産党も県単位ごとに支部の職場政策や地域政策の発表会をやればよいと思うのです)。そういう考えもなく、その提案も拒否したのです。自らを正しいとし、レッテルを乱発して自らの目をふさぎ他に学ばないこの体質こそは、最悪の大馬鹿者だと言えます。
 共産党を体たらくにさせている問題は、まだたくさんあるけれどきょうはこの辺までで・・。

 こんなわけですから、先にも申し上げましたように、どこかのエライ先生の「マルクスは民主主義の問題を詳しく説かなかったために、それが今日の宿題となってしまった・・」という話が思い起こされます。その宿題となってしまった部分が、後にスターリンや毛沢東らによっておかしくなり、その一部が今の共産党の組織方針や政治方針に残っているように思われます。マルクスが予想したように資本主義の高度に発達した地域から革命が起こるとすれば、その地域こそは、労働者・市民の労働と暮らしの全分野にブルジョアジーからの思想が徹底され、資本と権力のアメとムチを使った強制のもとにそれが日々強められているところではないでしょうか。
 生涯をこうした中で育ち、大量の商品と情報の渦の中に埋もれながら”成熟した大衆社会”を形成している人々の”多数”を進歩の側に獲得していくには何をしたらよいのか?を考える時、対話と教育と民主主義がその中心になると思うのです。単なる数の民主主義ではなく、一人一人の幅広い知識に根ざした民主主義でなければなりません。そして、それに基づく労働運動と多種多様なサークルの活動がその原動力になるべきでしょう。以前にも申しましたように、民主主義が社会に広く育たなくても党が大きくなるという逆立ちした活動をしていては、高度に発達した独占資本主義の国での革命(民主化)の課題などは、話にもならないのです。そうさせないためには、大衆運動と民主主義を進めようとする人自身がより広い知識・理論を備え、情報の収集と分析、政策化の力量をもち、対話と組織化の能力を持たなければはじまりません。

 ところで、共産党の言う「二本足の活動」とか「大衆闘争」ですが、私もその「言葉」にだいぶ拘りました。その言葉通りに解釈すれば、本当にそうだと思ったからです。でも、今は違います。共産党の用語自体の意味にとらわれれないことです。人文学徒さんが指摘されている通り、「大衆運動は各団体の力で自然に成長していくもので特別な問題でもない限り党が手を入れる必要はない」との党の話は、あまりにも無知で無責任な、大衆闘争を指導する意欲もなければその能力もないことを証明したものだと思います。本当にあってはならない話です。同じような話に「共産党員は闘いながら成長いていく」「労働者は闘いながら成長していく」というのもありますが、なんの根拠も現実感もない無責任な話だと思います。二本足の活動とか大衆闘争とかは結局、その言葉自体の意味から離れて党勢拡大の対象者を増やすだけの結果にしかなってきませんでした。
 余計なことまで言えば、「闘いながら成長いていく・・」と言っても、実際に「成長」したのでしょうか? その結果は今までの私の話ばかりでなく、山ほどの事実が証明しています。独占資本をバカにし、労働者・国民の抱える多種多重な困難を知らないからこそ、そして官僚主義にどっぷりと浸かっているからこそ言える言葉でしょう。全く、独占資本の教育と情報と誘導に勝る我々の側の、教育と訓練と対話とが、共産党員にも労働者にも、運動に参加してきている市民にも必要なんです。それをせずに、高度に発達した独占資本主義国での活動が成功的に発展すると考えるのは、無責任きわまりない言動と言えます。

 この現状に対してどう対処すべきか? これこそが、このサイトで議論されるべきことです。こうした現実の前に、我々の側が<教条主義、客観主義の方でもなければ、現場の問題を解決するための展望提言などをまず軽々しく言えるものではありません。」>と言って、手をこまねいていて良いのでしょうか??
 共産党の問題が主として、党内外での民主主義の実践の欠如と支部活動における学習と研究の欠如等々、中央から支部に至るまで主体的・組織的な努力が払われてこなかったことが問題だったことからすれば、そこを改善することこそが今求められているわけです。教条主義、客観主義という無責任な立場に立たなくとも、今まで述べてきた状況を改善する課題に取り組むことは可能だと思います(もちろん、共産党にとっては”革命的”な改善で、確かに困難なことですが)。上記のような党員相互の教育と学習と職場の現実に根ざした自立、組織内での実務能力の大幅引き上げ、縦・横の交流と共同への主体的な取り組みの実践、党内外での民主主義の実践者としての高い自覚などの、党委員会と党員個々のレベルアップに早急に取り組むべきです。このサイトからでも、こうした点での実のある提案をすべきだと思います。また、このことを抜きにして(支部活動の活性化を通して、「高度に発達した独占資本主義の社会」の実態と労働者・国民の結集の真の課題を党中央に反映させることなくして)より高次の問題をどれほど議論しあっても、何も変わらないでしょう。それと、我々自身が・・・(文字化け)・・・。大事なことは、マルクスやエンゲルスの本を読んでそこでの記述をどれだけ知っているかを競ったりすることよりも、彼らが提起している基本的に正しいところに依拠しながらも、どうしたら自分の職場や地域で人々の力を結集出来るのかを、諦めることなく追求していくことが必要です。自分の持ち場に拘り続ける姿勢こそが本当に大切なのです。党勢拡大が職場でやれなければ地域に逃げ、そこでもやれなければ遠い親戚に電話して間に合わせる。それでも”成果”をあげれば「英雄」のように言われ、上級機関も数字が上って大喜び・・。そんなことをしているから、いつまで経っても職場のことに身が入らないのです(地域の党でも同じです)。出来なければ出来ないと言えばよいし、そのことによってなぜ出来ないのかということを明らかにしていけば、活動の障害となっている様々な問題が見えてくるし、そこに手を打てば必ず前進の芽が出てくるのです。それらの一つ一つの段階で、マルクスやエンゲルスやレーニンなどの言葉を引用しなければいけないということもないでしょう。 我々は一つ一つの問題に誠実に取り組むことを通じて学習や研究や対話の必要を感じ取り、様々な運動の必要を学び取っていくほかありません。難しい議論をする前に、先ずは私達が持っている知識と常識を真っ当に使って、やれることをやってみようではありませんか。

 とりあえず思ったままを書いたら、随分長くなってしまいました。申し訳ありません。  浜吉