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「組織論・運動論」討論欄

力作が多く嬉しいことです、そしてさつき様へ

2004/08/12 人文学徒

 6日付け愛宕山さん、「他人事とは思えない」という共感の表明、何よりの喜びを与えられました。最後の結びにある「いつも正しい党中央は気楽なものです」、ほんとにそうですね。今までの人生全ての場面を振り返りつつ、新たな方向が分からないから疑問はあるけれどこれくらいしかやることはないようだしという感じでいつからかやられてきた党生活を墨絵のようにちょっと横から眺めているという心境、胸がぎゅっとなりました。中央幹部連中の耳に届けたい思いです。こういう人々はいっぱいのはず、そういうみんなが少しずついろんな所でしゃべっていこう、そうすればいつかは変わっていきますよ。周りにさざ波を知らせることなどは、当面納得できる生き方の一つと僕は考えています。

 また、8日付けで二つの力作がありました。津南雄さん、原仙作さん。前者は、党お得意の「なし崩し修正史」を検証されて、そういう節目ごとに起こったような反対派攻撃、追放も振り返られました。中でも僕が何よりも興味深かったのは、00年1月の「不破氏の楽観主義発言」報告。いかに非科学的社会主義理論の持ち主かの証明にもなり、これだけでもよく辞任もせず、病気にもならずに最高幹部に居座り続けてきたものだと驚くような、まーそんな神経の持ち主かと唸っていた次第。こういう証言集は、読んでなにより嬉しいものの一つです。他にも、こんな言動はいっぱいあるんでしょうね。これからもみなさん、数多くこういうびっくりするような過去の言動を告発してください。次に触れる原さんが以前、不破氏の参院選後のお気楽な演説だか講演だかを指して「まるで天皇」と言われてたけど、天皇は主権在民の今、人に戻さなければいけません。でも、今の彼の立場が天皇を造ったわけだから、彼を人間に戻すためにはその立場をなくさなければいけません。その彼の立場とは民主集中制のトップということなので、結局民主集中制をなくさなければならないのだと思います。さもなくば、また次の天皇があらわれること必至と考えます。

 原仙作さん、必要で、実に大切なことを書かれましたね。そうです、僕も7月15日の原稿では党の大衆運動軽視のことだけを書いたのですが、ほんとに党が大衆運動に与えた傷は大きい。このあとで触れるさつきさんは「いかなる国の」問題で決定的な傷を負った方らしいですし、僕は、古在由重氏のことと新日和見主義問題とそれぞれで重傷を受けた友人を持っています。田口富久治氏からは、不破氏との「前衛」論争以降に僕自身が直接いろんなお話を聞く機会がありました。自分らの謝りでそれだけの傷を与えた「民主集中制」の張本人が、「さー皆さん、新たに大衆運動の風を! 党は先頭に立ちます!」なんて言って、それが党自身の共闘の広いがりに障害を与えているという自覚も皆無なんでしょうか。そんなことも分からないのか、それとももう「自分が特別、大事なだけ」という態度に開き直っているということなのか。とにかくここでも並の神経じゃない怪物ぶりを感じます。また、韓国ナショナルセンターの情報、すごく勉強になりました。こういう国際情報は、投稿者の皆さんに僕が特に期待したいものです。いま、必要だけど最も不足しているというもので、重ねて、ありがとう。

 また愚等虫さん、10日付け「てつやさん」へのおたより、僕も彼に何か書こうかなと考えていたので、嬉しかった。貴方らしい細かく配慮された内容で、すごく好感が持てました。ご苦労様でした。時間と余裕があったら、また社会主義論の続きを聞かせてください。

 それから、同じ10日の浜吉さん、ご丁寧なお返事に心からお礼申し上げます。書かれている内容は全て納得。まるで僕と体験、苦労、その認識や感受性までを共にしあい、語り合った同志のような内容と味わいつつ読みました。僕は当面、このさざ波で、こんなことを書きながら、ここが少しでも説得力を持って広がっていくことによって、一刻も早く共産党の民主集中制を廃していくという、そういう明日に期待したいと思います。民主集中制さえなくなれば、日常生活に即した諸要求実現運動の位置づけ、実践、深化も、少ない左翼の右左中がそれぞれ共存し自己主張しあえるという自然な人間社会集団になるということも含めて、党は変わっていくと僕は考えているのです。さざ波の規模はまー1日千人くらいの人々が読んでいるというほどの事しか分からないけれど、この千人で党員の割合はとか、どんな人々がとか、党への影響はとかも推察の域を出ないのだけれど、ここの将来的影響力は大きいと思っています。今の党幹部たちの機械的指導、死んだ目と、それをある程度承知の上ででも自治体議員や専従やその家族であるとか長年作り上げてきた党的人間関係とかから党との縁を切ることはできないというような多くの下部党員の心境などとを考えてみてください。そして、これらとさざ波で書いている方々の切実な体験談、情熱などとを比較するとき、どちらに説得力があるかははっきりしていることです。さざ波だけで果たせるかどうかは別にして、先述のような党の中身の変革という方向自身については、遅かれ早かれ決着は付いていくでしょう。まーこんな考え方で、僕は余生を送っているわけです。だから少しでも多くの党員、支持者にここを読んで欲しい、だからここに良い投稿、力作を期待したい、それが僕の今の方針のようなもんです。

 さて、さつきさん、お返事ありがとうございました。討論するたびに、自分でも前に言ったことがさらにいろいろすっきりし、「もやもやしたことを、自分で節となる事項を筆記したりして考えていく」ということも含み、それ以上にさらに整理されるものが多く、そんな意味でもこの討論を感謝しています。「あと2割をすっきりしたい」ということで提起された、「理念、理論の区別」、「改良主義」について考えてみました。

 初めに理念と理論(的概念)とについて

 理念には広辞苑を引いてみると、哲学的意味と日常生活的な意味と二つがあるようです。前者はまた二つに分かれます。プラトンのイデアの系列の神的なもの(中世キリスト教神学の、ヘーゲルの絶対理念)、および近世のデカルト、ベーコン由来の人間の心が生んだ観念という系列のものです。そして、一般的な意味はまー近年の「俗語」と断りがあって、たとえば「我が校の教育理念」というように、「ある集団の大目標」のように使われるようです。どうもヨーロッパの神学的概念、イデアの訳語から出発した言葉みたいですね。とすればさつきさんの使用法はさしずめ「人間の心の中に生じた社会の最も崇高な大目標」と言ったところでしょうか。すると、この理念と理論的概念との区別を考えてみる良い例があります。「社会主義」という言葉が。この言葉は空想的社会主義者にとってもマルクスにとっても一応、先に述べた意味での理念ではありましょう。だからまたこの両方を括ってのより抽象的な社会主義という理念もあるわけでしょう。ところでマルクスはこの理念にさらに「学問的な社会主義(ヴィッセンシャフトリッヒの本来の意味は「学問的」であって、科学的ではありません。科学とは表意文字から外れずに正確に言うならば分野別学問といったところでしょう。主体という問題を第1に考え、表現し、主張する哲学や文学などは、「学問とは、主体を無にすべき科学だけだ」のように言われるとどきっとしてしまうのです。)」という意味を付与して、先輩たちとの違いをはっきりさせました。例えば昔に現象的に「植物」と呼ばれていたものが、科学の発展から地球上の全生物の質が分かっていくに連れて、全生物体系の中での「植物」という位置づけの「概念」を次第に獲得していったというように、マルクスのほうが経済などよりリアルな社会分析にも基づいた「体系的な概念」です。しかし他方で、マルクス理論の「三つの源泉」の一つに数えられている先輩たちの理念(ただしこれ自身も当時としては最先端のなんらか政治学的体系的なものとして存在したはずですが)がなければ、マルクスが社会主義を必要とするような諸現象に注目、集中してこれを分析し、あの体系的概念を生むということもなかったはずでしょう。さてこの社会主義、どっちがより根源的なもので、それこそどっちが社会的な支持を広く得やすくて、かつ未来に向ってより有効でもあるのでしょうか。意外に難しいところですが、僕はいちおう以下のように言いたいと思うのです。

 まず、歴史的により長く使われ続けてきてより広く支持のある理念としての抽象的な意味もそれはそれで大事にしたいです。将来マルクス級の社会分析最先端から「世界的な経済の計画化」をさらに明確にした「社会主義」が、それへの過渡期のあり方論までも含めて生まれるという可能性もあり、その場合にはさらにサン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエン、マルクス、レーニンそしてその人物(たち)という社会主義論の系譜が語られるわけであって、そういう括り方ができるというのもそれはそれで人類史の今後にとっても非常に大事なことと考えます。こういう理念の淵源はさらに、フランス革命に至るまでの「自由、平等、友愛」にまで連なっていくでしょう。さつきさんの言われる「搾取」も理念としてはべつにマルクス起源ではなくてやはり、少なくともそこまでは遡れるはずです。ところで、こういう理念の弱点は、体系的な骨格がより少なく抽象的なものだから、その理念を体系的理論のなかにはめこんだある概念への「反対派」さえ肯定的に使用するという事態もあるというようなことではないでしょうか。「自由、平等、友愛」を歴史的文書で引き継いで建国されたアメリカならブッシュでもこの理念の力を借りることはありましょうし、自分が現状においてまさにそれなんだとさえ言うこともあるのではないでしょうか。また、トヨタの社長でも「搾取はしていない、社員代表の責任者として厳しい時勢への保険のような備えをしているだけだ」くらいは言っているのではないでしょうか。さらに「欧米比較なら、日本は社会主義である」という言葉も古いものではなく、これは社会主義の理念的使用法と言えるのではないかと思うのです。こういうような、言葉のなにか理念的な使用法のあるものにたいしては、ある学問体系的概念としてのこれらを提示した上で、正反対に社会的告発を主張していくしか仕方ないのではないでしょうか。理念が理念のままでは、つまり抽象的な定義の範囲では、使用を誤るということはないのですが、その抽象性が社会の具体的姿として何を指すのかを分かり難くさせるということで、言い方は悪いのですが「毒にも薬にもならない」というようにも使われるのだと思います。

 他方、そういう理念を未来に向って実現させていくようなものとして扱うとしたら、やはり最先端の社会分析に基づいた学問性、実証的・体系的説得力が要求されるのだろうと思うのです。理論的概念ということですが、こういうものは具体的規定を備えているだけに反対者も多く、かつ間もなく間違っていたとか、時代遅れなものになってしまったとかという事態にも陥りやすいのだとは思います。しかしながら、人間が未来を目指して真理の断片を積み上げていき、また多数派形成をしていくというような場合には、この道しかないのだと僕は考えるのですが、どうでしょう。

 なお、こうして僕は理論、理念を否定しているわけでは全くありません。社会の未来についての概念としてはごく少ないものしか受け入れられないだけです。先の投稿について言ってみれば、社会主義という概念をあそこで使ったような意味において使用し、だから僕も含めて左翼というものがあるのだろうと言いましたし。もちろん「労働者階級固有の歴史的役割を否定する『社会主義』なんて、左翼であるもんか」と苦々しい顔をする方も多いでしょうが。なお、マルクスは社会現状の全体的問題点を分析し、それを止揚する運動としての社会主義を提起しましたが、たとえばどういう国家で、つまりそれも含めてどういう上部構造でそういう社会が可能になるかまではほとんど語ってはいないのではないでしょうか。労働者階級の権力というようなもの以外は。

 さて次に、改良主義です。ぼくは前の投稿で「改良主義的」という言い方をごく限定された1箇所だけで使いました。使用箇所を見ていただけばその「限定」の意味はお分かりいただけると思います。ですから、自分自身改良主義者だとは思っていません。先に述べましたように社会主義という理念、概念も持っているつもりですし。しかしながら、改良主義というこの言葉がまた難しい。社会的に物事を良く進める立場では、改良の対語は「変革」のはずです。長期的目的意識を失わず、社会に質的変化を作るということらしいです。例えば社会科学では暴力革命とか、国家権力を支配する階級が入れ替わることというようなことを念頭に置きつつ使われてきたかと思います。しかしこんな単純そうなことでも現在の社会科学、社会的実践論では意外に難物なんですね。論争があります。国家道具説だとか国家関係説だとか。それで、国家「変革」の節目がはっきりしなくなってきたようです。ましてや僕みたいに「労働者階級の権力」などという概念を使えず、グローバリズム下の今の1国家でどれだけのことができるのだろうかなどと考える者には。国家「変革」? 一般論では語れないよ、具体的に国家というものの「規定」、「節目」を確認しあっていかなければ。まさにそういう変革的社会の渦中の人々が「変革と言えるだろうか」というように極めて敏感になっているはずの、そういう全ての人々の認識、気分なども絡むだろうから、十分に説得的にね。などなどということになります。だからといってもちろん、物事の質的変化一般というものを否定せよなんてばかばかしいことを主張しているわけではありません。これを主張しないだけでも僕は改良主義者じゃないのですが、未来の社会「変革」に関わってくるような概念の(その変化の節目もはっきりさせるような)「規定」というものが、世も理論も流動しているような現下諸般の情勢下では非常に難しいと、そう僕は言いたいだけのことです。物事を変化させようという場合に、その物事の質というものをはっきりさせないで質的変化を説くなどという馬鹿なことはありえないでしょうといっても良いでしょうか。

 長いお返事になりました。お忙しいでしょうから、そちらからのお返事はご無理なさらなくて結構です。

 こんな長い文章なのに終わりまで読んでくださった方々、ありがとうございました。お互い、さざ波を周りのみなさんにより多く読んでもらいましょうね。目に付いた情報もどんどん投稿しましょう。