私に向けて丁寧な投稿をいただいていましたが、返事が遅くなりました。ごくゆっくりとではありますが、私の理解も深まりつつあります。また、樹々の緑さんの一般投稿欄での、「経済的制裁には反対です」と題する投稿(8/16)、続く本田さんへの返信(8/21)にも共感を覚えました。拉致の問題を人道問題として捉えるなら、その解決の方策もまた人道的なものでなければならないと、そう理解したのですが、この点はとても重要なポイントだと思い、前置きとします。
北朝鮮の問題に絞った議論は、「北朝鮮問題」討論欄へ投稿を集約した方が良いと考えていますが、私には議論ができるほどまとまった考えがありません。ここ「組織論・運動論」の場に相応しいものかもわからないのですが、樹々の緑さんの8/11の投稿に跡付けながら、「テロ」と「拉致」の問題で、「人道」を鍵に私なりに整理がついた部分についてだけ述べさせていただきます。
> 実は私には、あのイラク日本人人質事件を「テロ」だと言い切る自信はないの です。それは、現に行われている不法な軍事占領・武力行使を排除するための武装レジスタンスの逸脱ではないかと、漠然と考えているからです。4/25付投稿でも、 そういうスタンスで書いています。
私は、修飾なしの「テロ」を一般的な辞書に載っている意味でしか使いません。ですが、「テロ」を起こす当人達にしてみれば、そもそもほとんどは「武装レジスタンス」のつもりであるかもしれず、「テロ」を受ける側からすれば、それらのほとんどは正真正銘のテロである訳です。それを第三者が、「武装レジスタンス」なら許される、「武装レジスタンスの逸脱」なら(逸脱の程度に応じて)非難すべき場合と非難できない場合がある、などと議論する際には、多くの場合、ある種の国際法的な規範が前提になっていると思います。そうした視点から、議論を、「テロ」と呼ぶかどうかにもっていくのも、また、別の視点から非難できるかどうかにもっていくのも、大した問題ではないと感じています。重要なのは、「無差別テロ」をどう理解し、そのようなテロを無くすにはどうしたら良いのかについて考えることだと思います。
> 大事なことなので念のために言っておきますが、いま述べた私の立場は、「ファルージャ空爆などで無惨に殺されている罪もないイラク人の夥しい数に比べれば、人質の1人や2人殺されたところで、文句を言える筋合いはない」というような考え方とは、根本的に違います。
> 民間人を人質に取って要求を通そうとし、相手方が応じなければ人質を殺すことは、 その人数の如何を問わず許されるべきでないけれど、現に不法な武力(占領米軍による数々の虐殺)が行使されている領域内では、本来は正当である反撃行為の不幸な逸脱形態として、非難できない場合があるのではないか、ということです。
上記引用文の前段は、つまり、残虐な殺され方をしたその数の比較の問題として語るべきではないということですね。その説明としての後段の文章は、「・・・許されるべきではないけれど・・・非難できない場合があるのではないか」となっている。私も時としてそのように言ってしまうことがあります。しかし、その動機は私と樹々の緑さんとで少し違ったものに感じられます。「本来は正当である反撃行為の不幸な逸脱形態として」という言葉のニュアンスから、ここでもまた、何かありうべき国際法的な規範を念頭においての考察であろうと受け取れます。しかし普通に考えると、その「逸脱形態」を許されざる行為と判断したのなら当然非難に値する筈で、「許されるべきではないけれど、非難できない」は、論理的には成立しないでしょう。
私が、この論理的には成立しないようなことを敢えて言ってしまうのは、私自身が、1)正当な理由もなく家族や友人達を残虐な殺され方をして、2)社会が手をさしのべ心を寄せ癒してくれる情況になく、3)なおその犯人達を誰も罰しようとしないがために世にのさばっているとしたら、私自身が正気を無くした残虐なテロリストに豹変するであろうことを自覚しているからです。さらに言うなら、そのようにしてテロリストになっていく人間は、私以外にも、当然のように大勢いるであろうと考えているからです。ずっと以前の投稿では、私はそれを「自然なこと」と表現してひんしゅくを買った記憶があります。
上記の1)~3)が同時に成立するのは、現にありうべき国際法が全く機能していない状況にあることを意味するでしょう。正気を無くした者に言葉の論理性は通用しません。そうしたテロリストに向けて、その手段は誤っていると非難しても、まっとうな国際法の実現のための闘いの妨げになると呼びかけても無意味だと思います。まずもってテロリストの正気を呼び戻さなければならないが、そのためには、上記1)~3)が同時に成立する条件を取り除く努力をする以外に道はないでしょう。ところが、現にある世論の大勢は、テロリストが、街に現れては人を襲う言葉も通じぬ手負いのクマのようなものだとして、そのクマに敢えて倫理を諭すか、世界に向けてクマ絶滅作戦を呼びかけるかのどちらかになっているようです。テロをなくすという目標に照らして、どちらも無意味です。
悲惨なテロを少しでも減らすための手がかりとして、8/7付の私の投稿から再録します。
> イラクにおける三人の日本人拉致もまたテロであった訳です。あらゆるテロを非難すべきと主張する人たちは、あの時もまた拉致したイラク人武装グループを断固として非難する大合唱を起こすべきであった筈で、事実そうなりました。その中には、う~んと広い意味での左翼も含まれていたであろうと思います。実際にしかし、三人を救ったのは、そうではなく、心ある多数の日本人が国会前に押しかけて、海外メディアの前で、「私たちはあなた達と共にある味方ですよ」とアピールをしたことにあったと認識しています。それは決して三人の命を救うためだけの方便ではなかった筈です。そのお陰で「テロリスト」は、目的も達せず、三人を解放した。その瞬間、彼らは「テロリスト」であることを止めたのです。
くり返しますが、これは、私たちにとって大変貴重な経験であったと思います。ありうべ国際法が現に全く機能していない情況下にあって問題解決を図ろうとする時に、その国際法を盾にすることはできません。私たちにできることは、せいぜい「人道」の名の下に人としてなすべきことを考え、できることから行動に移すしかないのではないか。おそらく、樹々の緑さんも同じようにお考えの筈で、そうでなければ、「許されるべきではないけれど、非難できない」などといった、矛盾した事を書けるはずはありません。
私はこの間、冒頭に書いた、「(北朝鮮の)拉致の問題を人道問題として捉えるなら、その解決の方策もまた人道的なものでなければならない」と言う時の「人道的な解決の方策」なるものの内実について考えを巡らしていました。私はとりあえず次のことに同意することができます。
>1)日本人拉致は、現に不法な武力が行使されている状況下での反撃行為としてなさ れたわけではないので、「本来正当な反撃行為の不幸な逸脱形態」として是認されることはない、
>2)日本帝国による朝鮮植民地支配や戦時下の様々な不当行為による被害者の数(≒ ファルージャの惨劇の被害者数)が、被拉致日本人の数(≒日本人人質の人数)を著 しく上回っていたとしても、それによって、拉致被害者の被害が「取るに足らない」ものとなるわけではない、
しかし、私は次の主張に躊躇します。反対であるという意味ではなく、言い方次第でどうとでも解釈できる表現になると思うからです。
>3)拉致被害者の原状回復(≒日本人人質の解放)が、植民地支配・戦時賠償の清算 (≒イラクからの違法占領軍の全面撤退)の後回しにされることも正当化できない、
まず、イラクでの日本人拉致の際に彼らが要求したことは、「イラクからの違法占領軍の全面撤退」ではなく「自衛隊の撤退」でしたが、罪もない民間人の「拉致」が許されざる非人道的な行為であることには変わりありません。従って、その行為だけを取り出してみれば、日本人人質の解放を自衛隊撤退の後回しにすることに法的にも人道的にも正当性は認められません。ですが、その行為が、比べものにならないほど残虐で非人道的な行為によって誘発されているという情況認識に立つなら、個々の行為だけを取り出して非人道的であると非難することが、必ずしも「人道」の見地に立つとは言えない場合があると考えます。ですから私は、拉致という行為だけを取り出して非難することはせず、自衛隊の撤退を共に主張し、拉致されている三人も、そして私たち日本人の多くも、あなた方イラク人民の味方なのだから三人を解放して欲しいと訴えたのでした。
北朝鮮の拉致の問題はどうでしょうか。確かに「日本人拉致は、現に不法な武力が行使されている状況下での反撃行為としてなされた」わけではありません。しかし、拉致とは比べものにならないくらい非人道的で凶暴な日本の過去の侵略とその後の米国と一体化した敵対政策が、金日成・金正日体制の凶暴化と無関係である筈がありません。そしてその凶暴化は、正気を無くして敵対関係にない筈の第三国にまで矛先が向けられる程に達しました。無関係でないという認識に立つ以上、「人道的な解決の方策」を考えようとする者にとっては、どうしても両者を分けて考えることはできない。これがおそらく、例えば有島実篤さんの主張であったろうと思い、私もその点に内心共感してきました。この点についての樹々の緑さんの主張は明確です。
> さつきさん、多分あなたは慨嘆しているのだと思うのです。そして、これは前提として大事なことですが、あなたはこの「拉致問題」が、人道問題として、今回日本政府が決定した対北朝鮮食糧援助と同じように、国交正常化・戦争賠償・植民地支 配清算交渉の進展如何に拘らず解決できる性質の問題だという、確固たるご認識をお持ちですか?
樹々の緑さんは、拉致事件を個別に生起した非人道的な犯罪として、国際法的な視点から、過去の問題とは完全に分けて考えるべきであると主張されているように思います。
再びくり返しますが、私は、拉致の問題は人道問題であるから、その解決の方策もまた人道的なものでなければならないと考えています。私は、イラクにおける日本人拉致事件同様、「人道的な解決の方策」に拘れば拘るほど、両者を分けて考えることができません。だからと言って、拉致問題の解決を国交正常化・戦争賠償・植民地支配清算の後回しにすべきだなどと主張したいのではありません。そうした主張は正当化できないけれども、全く無関係とする訳にはいかないと考えています。北朝鮮の拉致事件は国家の犯罪であるという性格からして、イラクでのテロ事件と同列に扱えないのはもちろんのこととして、なお、「人道」の見地からは、そう考えてしまうということです。
それはおそらく、私の中に、「人道=人の道」を説く者は、少なくともそれに値する「人」でなければならないという拘りがあるからです。そのことを捉えて樹々の緑さんは、「筋合い論」、「拉致問題を語る資格論」といった言葉で批判されました。この点についてはまた整理がついた時点で書きます。
長々とまとまりのないことを書きましたが、樹々の緑さんとのやりとりは大変有意義なものだと思っていますので、今後も忌憚のないご批判をよろしくお願いします。