8/12付で丁寧な返信をいただいていましたのに、日々の雑事に追われ、ひと月が過ぎてしまいました。しばらく人文学徒さんからの投稿がなく、少し寂しい思いをしていましたので、お礼だけでも書こうとキーボードに向かった次第です。私は、興味を引く話題について誰かの投稿があると、アウトラインエディターにコピーしてその中の文章を個々に色分けします。例えば、納得される文章は青色に、納得できない文章は赤色に、熟考を要する指摘はオレンジ色にといった具合です。8/12の人文学徒さんからの返信は、ほとんど青色に染まりました。
もっとも私は、「社会主義」という言葉そのものは、古典的なそれを含めて、例えば「自由、平等、友愛」といったもっと根元的な理念から出発して、その理念を実現すべく形を与えられた(不完全な)理論的概念の一部を表していると考えていましたので、「理念と理論的概念との区別を考えてみる良い例」としては少し違和感を覚えました。しかし、いずれにしても「改良主義」のことも含めて、全体として完全に納得しました。
少し付け加えますと、私は、日本国憲法前文は理念を文章化した好例だろうと思って前回の投稿の後で読み返したりしていたのですが、改めて読んでみて、どうもうまく書けているとは思えないような気分になってきました。
>われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
この一文は、前後を改行された独立した文章として書かれているのですが、それだけにその前の文章との繋がりがどうもすっきりしない。私の中では「オレンジ色」に色分けされた訳です。そして人文学徒さんからの返信を読み、理念を誤解の余地なく文章化することの困難さといったものに思い至りました。案の定と言うべきか、8月の中頃、小沢一郎氏が、憲法前文のこの一文を根拠に、自衛隊とは別の、海外へ派兵できる「軍隊」を創設すべきだと発言した。理念を言葉にすることは本当に難しい。しかし、理念を誤解の余地のない言葉として紡ぎ出す努力は、理念を実現する理論的諸概念を構築する努力とは違った種類のものではあるが、やはり怠ってはならないことだと考えています。
それは、理論の誤りを正す足がかりを理論そのものの中だけに求め続ける時、「理論」は、糸の切れた凧のような予測不能の自己運動を起こすと思うからです。凧の糸を結びつけて支えるものこそが理念の役割だというのが、私の前回の投稿の趣旨でした。その意味で、理念が、「毒にも薬にもならない」使われ方をすることがあるとしても、我々は、(団結のために)そうではない使い方をしようと、なお呼びかけたいのです。
さて、原仙作さんはじめ、多くの方が指摘されていますように、日本共産党の、とりわけ上層部の病理は、いよいよ深刻なものになっていると危惧しています。まさに、「糸の切れた凧のような予測不能の自己運動」に陥っていないでしょうか。フォイエルバッハやマルクスの「(自己)疎外」という概念が思い出されます。十代の頃に触れたこの概念の成り立ちもよく理解し得ていないのですが、「組織の自己運動」を「疎外」という概念から捉えて見つめ直すことが必要なのではないかと、漠然と考えています。もしまたお時間があるようでしたら、そのあたりのことをお教えいただけたらと思います。勝手なことばかりを書いてすみません。 先ずは御礼まで。