まず、12日「一般欄」ロム3さんへのお答えです。なおこれは、16日付徐庶さ んが投稿末尾でご質問されたことへのお答えにもなります。今後の党にとって弁証法 的・史的唯物論はどういう位置を占めるべきかということについての僕の意見という ことで。なお徐庶さんへのお返事そのものは、時系列順にこの投稿の最後で行いまし た。
最初に、ロムさんに、前置きを二つ。
ロムさん、貴方のこの投稿は「横やり」ではありませんのでご心配なく。僕の前投 稿が重要部分でお名前もあげて貴方の「党批判」にも触れておりますので、必要な討 論ということになります。次が、表題のこと。「八方破れの」という表現はちょっと いけませんよ。ご自分にいくらそう見えても、これが面談であったら相手の話を聞い ていきなりこうは言わないでしょう? まぁ喧嘩を売るような表現ですもん。顔の見 えない討論の恐いところのように思いましたけど。
さて、本題です。まず、党が現在行っている「修正」方向確認について、次いでそ れへの貴方と僕の批判内容の違いについて、そういう順番で説明を行います。そうす れば、意見の相違は確認されても、「八方破れ」とは言われないでしょうと、初めに お断りして。
党の現「修正」方向についてはそんなに見解の相違はないと思います。まぁこんな ところでしょうか。「外に向かっては『右傾化』、『世論迎合』のような振りをして いるが、『護民官活動』、要求運動を発展させることはできず、セクト主義的党勢拡 大の一本足でやってきたので、よほどの変化が続かない限りもう支持は得られないだ ろう。他方、党内部としては科学的社会主義ならぬロムさん言うところの『不破教』 での引き締めが、ますます強められていくだろう」とね。これについてこのまま説明 なしだと見解の相違になりそうなことは、1点だけ。弁証法的・史的唯物論の党にお ける位置付けですね。これは、「不破教」のそれではあるにしても、党は従来と同じ やり方で堅持していくでしょう。つまり、党の内部教科書で1章使った「科学的社会 主義」の項目の最初に、「弁証法、唯物論、史的唯物論」を置いて、保持していくと いうやり方です。「科学的社会主義」が規約では第2条、綱領では冒頭に出てきます から、その理論的裏付けの内部的学習資料としてどうしてもこういうものが必要なん です。ただ現在の党は社会主義などを巡る概念というものに自信がないはずなので、 ちゃんと製本されたものはできないでしょうから、内部的リーフレットのようなもの になるかも知れません。その内容がだめだとかなんとかは、これを僕も賛成するよう なものに置き換えたにしてもそういう「真理の党」はやめた方がよいと僕は言ってい るわけですから、これは貴方の党論には大事なことでも僕の党論にはそうでもありま せん。ここは二人のちがいですね。
さて、こういう党を貴方と僕とはどう変われと言っていることになるのでしょう か。その違いは? 要求運動の抜本的重視という批判視点は同じでしょう。ただ僕は これを、党の「最重要の勝負の場」として貴方よりもっと重視していることになるの でしょうね。違うのはむしろ、弁証法的・史的唯物論の位置づけでしょう。貴方は 「正しいそれを掲げ直せ」と言っているが、僕は「そういうものは党の綱領、規約の 上ではやめてしまえ」と言ってきた。大きな社会・政治問題発生のそのつど史的唯物 論的解釈が必要になり、それこそが民主集中制とあいまって官僚主義、個人崇拝をも たらしてきたからと。それよりももっと誰にも判断しやすい現実的中期的政治目標で 一致しあって、その全国的、地域的、部分的実現自身で活動を総括、評価しあうとい うような、そういう「生活改善サークル」、党自身が昔よく使った用語「護民官」政 党にしたいと言ってきた。
この点についての貴方の疑問、どういう中期政治目標、護民官活動で「まとまり」、 活動総括、評価をしあっていくのかということについては、文字通りみんなが決める ことだと答えます。こういう国民政党としてみんなで綱領を作り直すやりかたなどに ついては、党員欄の「エッセー」に書きました。その全国的、地域的、あるいは職 場、個人での実現という視点から機関や個人の活動総括をするそのやり方は、通常の 労組、組織の大会などと同じで、そこから官僚主義、個人崇拝が生まれるというもの でもないでしょう。洋の東西の歴代共産党における個人崇拝発生は、「理論政党には 理論解釈の権威者というものが必ず生まれてくる」という点にあると何度も言いま しょう。この点について、その個人が恣意的に振る舞うからだという論者がおられま すが、これは論理が逆ではないでしょうか。「理論政党においては理論解釈の力があ ると見なされたものがより上にあがっていき、トップ近くに座った者が綱領変更など の最重要行為に10年も携われば無意識にも恣意的行動を身につけていくだろう」 と。民主集中制自身が悪いのかその恣意的運用が悪いのかという討論も同じことで しょう。同一支部の党員夫婦でも党の全国的問題を支部会議以外で話し合ってはいけ ないというような厳しすぎる「集中」を司る物凄い権力を持ったトップという者は今 の世ではほぼ必ず恣意的になるというのが真実なのか、そこに座った人の恣意的な資 質が時々顕わになるということなのか。誰が考えても答えは明らかではないでしょう か。異論の広がりによって権力者秩序が傷つけられたという、その怒りが分派査問の 動機になっている。そう考えてこそ、殺人にも至るという査問のあのカルト的冷酷さ も説明できると思うのですが。
理論政党反対についてさらにもう一つ。ある理論が正しい中期的目標を決めてくれ るわけでも、その理論が機関や個人の活動成果を増やしてくれるわけでもなくって、 逆に、現在の社会への人々の要求の実現、実行がそれに寄与した理論の正しさを証明 してくれると、そんなふうにやった方がよほど実効的、民主的になるのではないかと、 僕はそうも考えるんです。株主の平凡な目で見ても実力がないとはっきり見えるから 社長をすぐに首にできる、だから代表取締役にとっては株主総会ほど恐いものはな い、この方がよっぽど民主的ですよ。理論的理屈をごちゃごちゃ言って、結果が出せ ないことをごまかすことができる現状よりはね。大小の、あるいは大局的または部分 的な要求実現という場でこそ政党の理論も含めた力量が確かめられると。政治学者、 丸山真男が言ったように政党はあくまでも結果責任と。党内左派が弁証法的・史的唯 物論に拘るならばそういう結果を上げるために彼らがこの理論を駆使したらよいと。 そうして彼らが事実成果を上げ続けたらさぞかしその理論の党内評価は高くなってい くだろうなどと。まぁこんな平凡な考え方を言いたいわけです。平凡じゃない基準 は、平凡じゃない目でしか運用できません。「不破の活動は不破だけが裁ける」なん ていかにも異常な組織体制じゃないでしょうか。こういう体制だからこそ以下のこと も起こる。国会議員数が数十年前に戻っても、ご自分らが定めた第1の組織指標の新 聞がどんどん減っても、選挙活動をした党員が半分ぐらいと活動低下を来してきて も、大会決定を半年たっても4分の1の党員しか読まなくっても、なによりも大衆運 動はかってなく低調著しくても、不破体制は全員一致で支持される。こういうのはど こかに平凡を置き去りにしてきた「異常基準の異常眼政党」というしかないでしょ う。それこそが民主集中制下の理論政党というものに宿命的な現象なのだと言うので す。
最後に一つ、文中にとても気になることがありましたので。「宗教者におもねった り」という表現です。これはいけませんよ。唯物論者は宗教者を低く見て当然だとい うような感じがありませんか。僕は宗教者ではありませんが、宗教者には立派な方々 も多くおられます。唯物論者にも眉をしかめたい「抽象的活動家」が多くいるように ね。例えば、家庭では全く民主的ではないけれども弁は立つ専従さんね。逆の例証 は、共産党員とともにナチと闘ったフランスの宗教者、アメリカの南米支配に対して 命を捧げるようにして闘った「解放の神学」の方々、日本の戦前に官憲に放免された ばかりで世間から敬遠されて職がなかった唯物論哲学者、古在由重に翻訳の仕事を提 供したカトリックの方々などなど。こういう人間を評価できるのも、「思想での評 価」ではなく「この世のこと」での評価だからこそであって、だから地上の問題で人 間は結びつきうるということではないでのでしょうか。
13日付、組織論運動論、Paulさん
「新日和見主義事件」、僕も最近「査問」を01年ちくま文庫版で読み返しました が、酷いものだったんだなぁと改めて慨嘆でした。今井氏の言葉も含めて、僕も40 年近く属している我々の世界がその陰の部分でいかに狭く、近視眼的、カルト的・狂 信的に展開されていたかと、改めて思い知っている次第。宮本顕治らの骨に絡みつい た戦前の党体質が、60年安保以降の社会風潮の中から人々と心通い合うために生ま れるべくして自然発生的に生まれたまっとうな新しい流れを生理的に嫌悪して理不尽 に押さえ付け、抹殺したと、そんな感じを持ったものです。それも初めは、「こんな に正しい我々に対してありうべからざる敵対、反乱だ。しかも、青年全体の中へ広 がって、一大勢力になっている。外国共産党の影響があるに違いない。」と見て始 まった、見込み捜査。こういう「対外盲従分子」事件だったものが、査問によって事 実が明らかになるにつれて「日和見主義」の『傾向』、そういう『分派』活動へと、 振り上げたもの凄い拳をそっと下ろしていく。川上さんが「『手先』と『傾向』とで は大違いである」と今はやんわりと告発されていますが、敵に対するようなこんな 「見込み捜査」を同志に対してとったご自分らについては、分派に対してだから当然 だったのだと開き直る、この不誠実かつ冷酷な態度。「民主集中制」下の「真理の 党」とはこんなにもカルト教団同様の現象を示すんだなーと、またまた再確認したと いうわけでした。
最後に、この事件と不破哲三・田口富久治の民主集中制「前衛」誌論争、この70 年代の二つの「根本的党批判」をもっと考え抜いていれば、今さら委員長が「草の 根」の連発キャンペーンを始めるなんて体たらくはなかったんだがなーと、今この瞬 間、また慨嘆というところです。
「なにを今さら、もう遅いよ。あなた方の文章を読む党員は圧倒的少数、実質不信 任になっているんだから。すべては、あなた方幹部連中が辞めてからしか始まりませ ん。さらに、あなた方はあなた方以降のことに口も挟まない方がよいでしょう」と ね。
16日付、一般欄、徐庶さん
頑張られている様子とお気持ちがよく分かりました
市会議員の方へのご批判、それも僕の党批判に合致したような議員さんの日常が、 目に浮かぶようでした。こういう議員は徐庶さんが言われるように、党の退潮よりも もっと早く落選していくと思います。でも共産党には立派な地方議員さんも多いん じゃないですか。僕の40年近い党生活でもそういう方と何人もおつきあいできまし た。僕が思う立派な方の特徴は、まずこっちが喋るのではなく相手の話を時間をかけ て聞く。そして自分が当面できることを誠実に考える。そのできることを増やしてい くために時間を捻り出してはあちこちの専門家のところへ足をはこんで問題解決力を 養い、広げていくという生活スタイルを持っている人もいます。こういうスタイル は、議会質問の得意な領域をどんどん広げていきますね。そうしてあとは、労力を惜 しみませんね。まー拡大よりも市民の生活に即しているということでしょう。党はこ の二つは対立しないと言いますが、本当に市民の生活に即そうとすればこの二つは しょっちゅう対立していますよ。人間くさい感性を忘れない根っから民主的態度の、 男でも家事、育児をして、お連れあいさんとの時間もなんとか大事にしたいという方 も共産党地方議員には多くおられますしね。こういう矛盾に誠実に苦しんできた議員 さんたちは、「党の議員であるというよりも、これが私ら家族の生活の糧、職業なの だ」と覚悟を決めるみたいです。「いくら大変でも、家族を食べさせてくれている有 権者と付き合うのが私の仕事」という認識です。むしろこういう議員さんの方が謙虚 でもありますし、人々が寄ってきて良い仕事もでき、当選も固くなるのではないかと 僕は思ったものでした。逆に、「党に食べさせてもらっている」と考えている議員さ んは当然、勘違いした行動も多く、落っこちやすいんだと思っていました。
今日はこれで失礼します。