八方破れという発言、失礼しました。日本共産党の矛盾について 考えて居ることが似ているのに、対処方法が全く逆なのでつい書いてしまいました。 ごめんなさい。
護民官活動というのが、私は全く反対なんです。いかなる人も護民官などにな れっこないと思っています。それをなろうとするところに現行の党には無理があると 思っています。党を批判している人民学徒さんが、その党の一番悪いところを更に進 めようとしているので、八方破れと感じてしまいました。
1点だけ。弁証法的・史的唯物論の党における位置付けですね。これ は、「不破教」のそれではあるにしても、党は従来と同じやり方で堅持していくでしょ う。つまり、党の内部教科書で1章使った「科学的社会主義」の項目の最初に、「弁 証法、唯物論、史的唯物論」を置いて、保持していくというやり方です。
内部教科書には、「弁証法、唯物論、史的唯物論」がでているのですか?それ は共産党を見直さなければと思います。科学的社会主義という言葉だけではなんのこ とやらさっぱりわかりませんものね。まるでドラエモンのポケットみたいに不破さん の都合に合わせて勝手な理論が飛び出すのが、科学的社会主義だと思っています。不 破さん以外に科学的社会主義の説明の出来る人はいないでしょう。
「科学的社会主義」が規約では第2条、綱領では冒頭に出てきますから、 その理論的裏付けの内部的学習資料としてどうしてもこういうものが必要なんです。 ただ現在の党は社会主義などを巡る概念というものに自信がないはずなので、ちゃん と製本されたものはできないでしょうから、内部的リーフレットのようなものになる かも知れません。その内容がだめだとかなんとかは、これを僕も賛成するようなもの に置き換えたにしてもそういう「真理の党」はやめた方がよいと僕は言っているわけ ですから、これは貴方の党論には大事なことでも僕の党論にはそうでもありません。 ここは二人のちがいですね。
「真理の党」などというあいまいな言葉はやめた方がいいと私も 強く思います。
違うのはむしろ、弁証法的・史的唯物論の位置づけでょう。貴方は 「正しいそれを掲げ直せ」と言っているが、僕は「そういうものは党の綱領、規約の 上ではやめてしまえ」と言ってきた。大きな社会・政治問題発生のそのつど史的唯物 論的解釈が必要になり、それこそが民主集中制とあいまって官僚主義、個人崇拝をも たらしてきたからと。
党員一人一人が史的唯物論の観点で物事を判断せよ。と、私は言っているので すから、官僚主義、個人崇拝にはなりっこありません。
それよりももっと誰にも判断しやすい現実的中期的政治目標で一致し あって、その全国的、地域的、部分的実現自身で活動を総括、評価しあうというよう な、そういう「生活改善サークル」、党自身が昔よく使った用」「護民官」政党にし たいと言ってきた。
党員全員の一致できる中期的政治目標なんてどうやってつくるのですか?無理
というものでしょう。その課程でこそ、官僚主義、個人崇拝が起きるのです。
今、中央は、地域に主体性を持たせようとして、300議席に
固執することをやめようとしているのに、人文学徒さんの考えの方が
中央より古いと思います。
「理論政党には理論解釈の権威者というものが必ず生まれてくる」とい う点にあると何度も言いましょう。
日本共産党が理論政党だとは、思いません。ドラエモンのポケットがあるだけ です。人民学徒さんの考えとここは一致していると思います。
「理論政党においては理論解釈の力があると見なされたものがより上に あがっていき、トップ近くに座った者が綱領変更などの最重要行為に10年も携われ ば無意識にも恣意的行動を身につけていくだろう」と。
おっしゃるとおりだと思います。不破氏は、とっくに弁証法的唯物論を放棄し ています。彼は、形而上学的観念論に成り下がっていると思います。
民主集中制自身が悪いのかその恣意的運用が悪いのかという討論も同 じことでしょう。同一支部の党員夫婦でも党の全国的問題を支部会議以外で話し合っ てはいけないというような厳しすぎる「集中」を司る物凄い権力を持ったトップとい う者は今の世ではほぼ必ず恣意的になるというのが真実なのか、そこに座った人の恣 意的な資質が時々顕わになるということなのか。誰が考えても答えは明らかではない でしょうか。異論の広がりによって権力者秩序が傷つけられたという、その怒りが分 派査問の動機になっている。そう考えてこそ、殺人にも至るという査問のあのカルト 的冷酷さも説明できると思うのですが。
党員個人の主体性を放棄するくらいなら、離党した方がましでしょう。主体性 を放棄しても日本共産党について行きたい人は、すでに宗教家になっていると思いま す。離党出来ない理由が経済的要素ならば又別ですが、そうでなければなぜ離党しな いのか、不思議に思います。査問問題はどっちもどっちと考えています。むしろ裁判 闘争でもやればいいと思います。
理論政党反対についてさらにもう一つ。ある理論が正しい中期的目標 を決めてくれるわけでも、その理論が機関や個人の活動成果を増やしてくれるわけで もなくって、逆に、現在の社会への人々の要求の実現、実行がそれに寄与した理論の 正しさを証明してくれると、そんなふうにやった方がよほど実効的、民主的になるの ではないかと、僕はそうも考えるんです。
理論をトップにゆだねているのが現状です。私のいうのは、一人一人の党員が
哲学を持てということです。
理論をトップにゆだねている現状は、宗教政党です。
党内左派が弁証法的・史的唯物論に拘るならばそういう結果を上げる ために彼らがこの理論を駆使したらよいと。そうして彼らが事実成果を上げ続けたら さぞかしその理論の党内評価は高くなっていくだろうなどと。
党内左派は、別に弁証法的唯物論にこだわっていないと思います。私はどちら かと言うと右派ですからね。
「不破の活動は不破だけが裁ける」なんていかにも異常な組織体制じゃ ないでしょうか。
いつまでもそうは行かないと思います。不破さんも追いつめられていると思い ますけれど。
こういう体制だからこそ以下のことも起こる。
国会議員数が数十年前に戻っても、ご自分らが定めた第1の組織指標の新聞がどん どん減っても、選挙活動をした党員が半分ぐらいと活動低下を来してきても、大会決 定を半年たっても4分の1の党員しか読まなくっても、なによりも大衆運動はかって なく低調著しくても、不破体制は全員一致で支持される。こういうのはどこかに平凡 を置き去りにしてきた「異常基準の異常眼政党」というしかないでしょう。それこそ が民主集中制下の理論政党というものに宿命的な現象なのだと言うのです。
理論政党ではなく、現状は宗教政党です。
最後に一つ、文中にとても気になることがありましたので。「宗教者 におもねったり」という表現です。これはいけませんよ。唯物論者は宗教者を低く見 て当然だというような感じがありませんか。
おもねると言う言葉は、別に相手を低く見ている言葉ではありません。宗教団
体の力を利用しようとする共産党側の卑屈さをなじっているのです。
宗教心は誰にでもあるものです。宗教団体となるとまた、話は別になりますが。
私の印象では、不破さんを批判している人文学徒さんも、不破さんと同様の方 法論のような気がします。