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「組織論・運動論」討論欄

自浄機能麻痺 と 逆スパイラル

2004/12/12 Forza Giappon

 近くの党専従員を見ていて、(官僚的な)日本の裁判官とどこか通底するよう な感覚(体質)を感じてしまうのは、ぼくだけだろうか。彼らは、党内で昇進しその 地位が高くなればなるほど党外からの批判や建設的提言(時には耳の痛い提言も。) をシャットアウトし、ほとんど耳を塞いでいる状態である。
 党中央から地区党に至るまで、批判事項受理記録ノート(もちろん無記名)やご意 見箱のような制度ぐらい導入して当然な時代なのだが、そんなことをすればおそらく 警告がくるのがオチだろう。。
 彼らは、よほど重大でないかぎり末端党員からの苦情すら事無かれ主義で闇に葬っ てもいる。「くさいものにはフタ」ということだ。もとより、すべてがここで挙げる ような彼らのような「官僚的」党専従員ばかりだとはまだ思っていないし、思いたく はない。
 このwishfle thinking(希望的観測)が裏切られないことを祈っている(言うまで もないが、いま述べた「外部からの党批判」というのは、「けなし行為」ではない。 それらとは明確に峻別されなければならない。
 反共勢力や謀略行為を企むならず者たちに耳を傾ける必要などないのもまた当然の ことだ。ただ、そのようなならず者に対しては、科学的な手法を加味した何らかの監 視体制が必要になっているかも、と思う)。
 おそらく、プライベートな連続休暇中も「政治的信条」や党派的思考癖が障壁となっ て、自らとは「毛色」の違う(肌が合わない)人たちや団体との私的な接点や交流を ほとんどもっていないのではないか?と感じる。
 たとえどのようなスタンスに立つ者であっても、また、或いはいかなる職業人であ れ、そのような心的傾向は決して好ましくないはずなのだが・・・。
 自らとは傾向の違う人たち、或いは、思考回路の違う個人・団体とつき合うことで、 その人の「人間的な幅」を広めるプラス効果をもたらすことは、しばしば指摘される。
 ときには精神的確執や感情面におけるいさかいが生じることがあるかもしれない。 だが、生身の人間同士である以上、その類いの「波風」が生じることこそ、「人の人 たる所以」ではないか?と最近個人的には肯定的に理解するように意識している。も とより、それも程度問題、限度はあるが・・・。

 過去7年間で入党した青年(現役学生を含む。)がわずか2人。地区党管轄内4市15 町トータルでこのありさまだ。1960~1970年代に入党した(であろう)ベテラン党員 の方々が遠からずリタイアすることを視野に入れるまでもなく、これは惨憺たる現実 である(1976年ごろから1980年代半ばぐらいにかけて、ほぼ全国規模で青年党員への 不可解な除名処分が相次いだと最近になり情報が入ったが、これは、党上層部が優秀 なマンパワーを党外に追放してきた党現代史上の一大汚点だということにほかならな いのかもしれない。
 聞くかぎりでは、高齢者党員の党活動リタイアがちらほら散発しており、党員数の 長期微減傾向に歯止めがかかっていないようだ)。
 そもそも近くの民青が事実上の開店休業モードに陥ってから約14年。事実、ぼくら 青年による自主勉強会(テーマは比較的多岐にわたる。)も今では民青同盟員宅をロー テーションで使わせてもらっているありさま。つまり、勉強会場の固定確保がままな らないのだ。
 四季に応じての各種レクリエーション(フットサル、スノボなど)すら実現できて いない。
 「学習青年支部」の発足や「社会科学講座」の発足、労働者学校の復活が切望され てから久しいものの、まず県内民青の再建自体が暗礁に乗り上げているだけに、「ト ンネルの出口が見えない」のが実情である。本当に「長すぎるトンネル」だと思う。
 “失われた10年”が実はここにもあった!ということかもしれない。後世の史家が そう記述してくれることを期待したい。

 最近、たまたま(いや、「運悪く」と言うべきか。)知って驚いたことがある。
 と言うのは、1999~2000年にかけて県西部の自律的な民青の某班が、県党(?)の 「教育的」な「指導」を受けた結果、解体!に追い込まれていたというのだ。長くタ ブーや盲点とされてきたリジッドなテーマについても、果敢に、自律的に、しかも先 例にとらわれず積極的に取り組んでいこうと、本音が言い合える意見交換の場を立ち 上げたばかりだったらしい。「排除」される人、または不当に除籍になる青年党員の なかに有能で思考明晰な者が多いとも聞いたことがある。
 県党レベルの準官僚や官僚にとっては、民主集中制(本質は中央集権制かもしれな いが。)を堅持するうえで彼ら彼女らを脅威に感じたのではなかろうか?(もとより、 たとえ脅威に感じたからといって、それのみを以って班を解体に追い込むエートス (行動様式)は、決して許されてはならないだろう。当時この事 件を「まあ、しかたがないさ」と追認した人がいれば、その人は人権感覚の異常さを 自ら告白したと非難されてもしかたがなかろう。)
 だが、志しある班への介入や理不尽な処分に血道をあげるのではなく、民主的で開 かれた冷静な対応をなぜ県党はとれなかったのだろうか?
 同盟員のルールや党規約を、県党自身が蹂躙した(!)可能性がいまだにささやか れているが、班の情報交換の方法をめぐる不適切性をどうしても問題視したいのなら、 県党はなぜ、速やかに当事者らの主張・弁明を聞かなかったのか?充分な話し合いの 機会をもとうとしなかったのか?。
 疑念は尽きない。火のないところに煙は立たない。
 県党側の態度は、「疑わしきは罰せず」ではなく「初めに結論ありき」ではないか、 と逆に不信感を増幅させるものでしかなかった、との声もあったらしいが、そういっ た声こそが、知的良心に忠実な者の感性というものだろう。
 ともあれ、県党のとった対応は実質、「当事者不在の密室審理」ではないだろうか。 県党や県民青幹部は、そのような不条理対応処理をしておきながら、一切の事後説明 もせず、事実上、あの事件を封印してしまった、と今でも心ある人たちはささやいて いる。

 それに、今も昔も(とは言っても、宮本賢二時代の党を直接知らないが。)『選挙・ 命(いのち)』で同盟員や党支持者の方々を選挙活動の「手足」や「下請け」と見下 し、ルーティーン・ワークに駆り立てるばかりでは、「いまだに東西冷戦期のパラダ イムを卒業できないのか」と愛想を尽かされ、ソッポを向かれ るのも、そう遠くないであろう。
 このまま事態を傍観視すれば「逆スパイラルの人的資本ヴァージョン」が限りなく 繰り返されるパターンに陥ってしまわないだろうか。
 (某エリアにおける)民青再建・健全化は、もはや待ったなしなのである。党中央 も、県党も、地区党も、本当に次世代育成・支援を要(かなめ)だと認識しているな らば、“端境期”(「はざかいき」。これはここでは前の選挙と次の選挙との間の空 白期間という意味。)の今こそ、ただちにアクチュアルな民青再建策を策定、実施し なければなるまい。

  1. 民青再建会議(仮称)のメンバー選考過程をもガラス張りにすること。
  2. 同メンバーに占める青年比率を概ね7割を下回らないようにすること。
  3. 党官僚に従順な“体制派的な青年”の、民青再建会議への参画比率を概ね1割以 下に抑制すること。
  4. 民青新聞や赤旗本紙にも「紙上公開討論・投稿コーナー」を復活させること。
  5. 党機関紙誌編集部が、単に、「党官僚に批判的だ」というだけの理由で、批判意 見・投書を不掲載にすることのないよう、同編集部に対する適切なサーヴェイランス が確実になされること。
  6. 掲載・不掲載の別を問わず、「投稿者のプライバシー保護」に万全を尽くすこと。

以上とりあえず全6点を民青再建会議(仮称)の立上げにあたり、この場を借りて 提案しておいたしだいである。
 ただ、誤解される向きもあるかと思われるので付言すると、「民青再建会議(仮称) 」なる組織体は少なくとも公式にはまだ発足したという噂を寡聞にして聞いていない。
 しかしぼくの提言と類似するようなオピニオンは、以前からおそらく存在するだろ うと思うので、この投稿文を読まれた方のなかから、更に肉付けしたアクチュアルな 提言を寄せてくれる方が登場することを、切に望むしだいである。

 民青同盟員の中で準基幹級の役割を担っている女性(青年)がいる。ぼくと共に党 活動に取り組む間柄だ。だが、彼女はたったひとりでいくつもの「肩書き」を背負い 込んでいる。というより「背負わされている」と言った方が実情に近いのだが。
 彼女を見ていてこちらもつらい。なぜなら彼女は、各分野の勉強時間や自由時間を 犠牲にし、各種の定例会議や折衝準備に追われているからである。某事務局の連絡窓 口にもさせられてしまっている。
 実に気の毒なありさまだ。バランス感覚にすぐれ、敵対勢力(たとえば与党や民主 党など改憲勢力。)に関する研究にも熱心な精力的な人だが、「押しの強さ」や、持 論の他人への押し付けとは無縁。物腰もおだやかで控え目、だというのが第一印象だっ たほどだ。
 そんなステキな彼女が、実は3年前から元気がない。いったい、どうしたのだろう か、と懸念していたが、日ごとに無表情で朝出会っても笑顔を見せなくなった。時と して、目の下に「クマ」があることもある。最近は二ヶ月近く「体調がかんばしくな い」と悩んでいるようだ。
 このように、ただでさえ人員の少ないなかで特定の個人に負担が集中するようでは、 彼女のように体調に異変をきたす者が出るのは当然の帰結ではないだろうか。万が一、 彼女が「過労死」するような最悪事態に至ったばあい、県党や地区党はどう責任をと るのだろうか?
 いや、少なくとも過労死を招かないために日頃いかなる予防ガイドラインを策定ず みなのだろうか?
 そんな青年の過剰負担の恒常化・長期化(もう既に7~8年間)を、近くの地区党機 関が、まさか知らないはずがない。ここでもやはり「見て見ぬフリ」の『自由放任』 政策なのではないか?
 「お宅らは、いつからレッセ・フェールの古典派的なマネタリストに鞍替えしてし まったのか?」とアイロニカルに指導機関を問い詰めたいというのが、偽らざる心境 ではある。

 そんな実態を裏づけるかのような退廃的風景が某地区党に散見されることがある。 某地区事務所では専従勤務員(青年)が通販カタログを広げたり、アニメ(不健全な 映像作品ではない点だけまだマシか。)の話題に打ち興じていたりする。
 赤旗や「党系の文献」だけ精読するようなマジメな人が見たら、自分の目を疑うこ と、まずまちがいないだろうが、実態は「百聞は一見にナントヤラ」なのだから(だ からといってしょうがないではすまされないし、すましてはならない!)。
 専従勤務員には本当に「ヒマな日」などあってはならないはずだと思う。いやしく も、国民の党で、日本の民主的変革を心底願い、自らその主体者側として自覚的に専 従職を志望したはずなのだ。
 そのはずが、本当に「ヒマな日」は日がな一日、ネット・サーフィンで時間を空費 とは!信じられないかもしれない(夢想だにしたくない。)が、これも「百聞は一見 にナントヤラ」。
 「勤務員」といっても生身の人間なのだから、ときには「政治に埋没する日常」を 離れて一般世界の空気を深呼吸したくなるだろう。
 それゆえ、安息日たる休日があるのだし、そのせっかくの休日を「人間的なリセッ ト・デー」ととらえ、コンサートや演劇・映画鑑賞、或いは現代日本文学や詩集、経 済書の1~2冊も読んでみようとするのなら、少しは好意的に見守ってみようかという 気になるかもしれない。だが、現状を見るかぎり、まだまだ程遠いようである。

 それにしても、ここまでつらつら書き連ねた女性同盟員準基幹級の過剰負担の超多 忙さと、正反対の地区党専従員の退廃ぶり。
 あまりにも不均衡ではないか。
 これらに端的に見受けられる「労働負担の著しい不均衡」は、ひょっとしたらアマ ルティア・セン(Amartya Sen.アジア人初の1998年度ノーベル経済学賞受賞者。)の 「ケイパビリティー理論」を大幅にアレンジすることで解読しうるかもしれない(?) 。超学的で学際的なセンに対し、甚だ礼を失した不遜な態度だとお叱りを受けそうだ が、社会的弱者に対するあたたかい眼差しから学究の途についた同師なら、このよう な珍妙なプロブレマティーク(問題意識)にも或いは寛容の眼差しを以って答えてく れるかもしれない。
 だが、マルクス主義の教条的解釈と、その布教に安住する専従勤務員が、自らの誤 りに気付くのを期待することは、やはり徒労に終わるだけだろうと思うのも、残念な がら正直なところ。
 党活動に加わっている以上、イヤでも目に付くコチコチの教条主義者や、“不破天 皇”論者(個人崇拝そのもの)が拡大再生産されるさまは、さしずめ、タイタニック 号を思い出させられるようで何とも暗澹とした気分になってしまう。
 ソースティン・ヴェブレン(Thorstein B Veblen)というアメリカの制度派経済学 の創始者(故人)は有名だが、その不朽の名著『有閑階級の理論』が上梓されてから 今年でジャスト105年。
 その彼を現代、それも日本に呼び出したとしたら、彼は同書の増補全面改訂版を著 し、さしずめ次の題名で再び経済学界に一大センセーションを巻き起こしてくれるか もしれない。
 書名は題して『左翼党官僚階級の理論』。
 「まったく、荒唐無稽な妄想話にすぎない」と一蹴する向きがおそらく多いだろう が、県党準官僚や更に職階上位の党上級官僚らの知性退廃を耳にするにつけ、或いは 危機感の希薄さを聞くにつけ、党に心を痛める誰かが適切な警鐘を発してくれないも のか、と切望するきょうこの頃である。