本当にありがとうございました。一昨年からの僕の投稿をほとんど読まれたその上 で、年始年末を使って70枚もの原稿。こんな大変なご努力には、まず感謝の言葉も ありません。貴方が「時代の苦悩」という義憤から公論としてこれだけの努力をされ たと理解したとしても、以下どれだけの反論を僕が貴方にしようとも、僕個人の感謝 の強さは変わるものではないと、初めに言っておきたいと思います。また、僕の論 文、エッセイがたとえ拙い物であったとしても、この討論はさざ波にとって良いこと だと考えています。熱心に論じあっているというそのこと自身と、共産党や社会主義 というものをできるだけ広く多面的に考えてみるという問題提起をしあっているとい うだけでも、そう言えるのではないでしょうか。こういう事実にふさわしい応対をし ようと、僕も心しています。
さて、中心論点はお答えがやはり難しいので、前にも言いましたように十分な準備を した後にするとして、まず、誤読と思われること、簡単なことについてお応えしてお きます。僕の文章そのものを他人のもののように引用して客観的にお応えできること は、そのようにだけしていきます。
まず、良心的団体への「勝手連」の下り。僕のにはこう書かれています。「全国の支 部などがそういう団体の『勝手連』になってもよいから、相互発展を図りあっていき たい」と。党の支部はそれとして存在して、その支部が地域の諸団体を日々、勝手 に、大いに支援するという意味にしか読めないと思います。
次に、政治権力獲得問題。別に今年1月や去年1月の論文だけでなく、10月のエッ セーでも、この点は僕にとっても自明のことですからああいう文脈の中でも、こう書 いて済ませてはいます。「当然政党的側面は独自に追求されねばならないが」。する と当然、この前後の僕の投稿が問題になりますね。貴方の論議対象に入っている11 月10日付けの拙文最後に明確な表現があります。「こんな客観主義の哲学では、 『敵失の機会を待つ』だけで、『人々の意識と通じ合う』ことは永久にできないので はないでしょうか。人々の意識と通じ合うことができなければ、間違いなく政権は取 れず、社会主義などは永久にやってこず、資本主義の範囲の計画性を期待するしかな いわけです」。貴方のこの誤解の元は「議員政党」を僕が強調批判している点にある と思うのです。この場合の議員政党とは一般政党にも向けられる使用法ですが、当然 ここでは日本共産党の体質批判に使われているのであって、「選挙、拡大ばかりで支 部の独自性を重視してない」、そんなところから来て「院外院内闘争の協力を言いつ つも、院外闘争をからっきし強められないではないか」と強調して語ることになるも のですから、議会のことには言及が少なくなる、その点を誤解されたのだろうと考え ています。
構造改革・権力問題も前記の引用や去年と今年の1月の文と同じ事でして、立法、司 法、行政の権力を未来にもそのまま使えるなどとはどこにも書いてありません。「敵 の出方論」さえ語る必要がほとんどなくなった日本、あのピノチェトが病気の身でも 厳しく裁かれている時代であったとしてもです。この点も、日常的生活圏において力 も育てられないのに議会にのみ傾き、構造に眼が向いていない日本共産党の特徴を批 判する側面が中心とならざるをえなかったので誤解されたのでしょう。なおこの点 で、原さんと銀河さんが最近討論しましたが、僕は当然原さんの意見に賛成です。銀 河さんの見解は上部構造の相対的独自性を非常に狭く捉えていると思いますから。
次が、上部構造の相対的独自性。これについて貴方の投稿に何か明確な僕への批判的 指摘があるわけではないのですけれど、誤解されないように言いたいことがありま す。「土台が上部構造を百%決定し、この反作用などは無に等しい」というように考 えている人でさえ、「そのようにして、資本主義の無政府性は破綻をきたしており、 このようにみなさんの苦しみを救う豊かな土壌ができているのだ。我々を当選させて 欲しい」としゃべりまわる限りでは、上部構造の独自性を演じているわけでしょう? つまり「認識、宣伝が大切だ」と「選挙、政治の世界」でやっている限りみんなそ うです。僕に言わせれば日本共産党もそんなもので、政治と、認識・党内外宣伝・イ デオロギー闘争ぐらいの反作用は認めている。しかし政党であればこんな程度のもの は上部構造の独自性とは全く言えないでしょう。とにかく、「認識内容としての土台 主義」と、「そういう思想、政策宣伝」という「政治学」による引き回しが目立つだ けです。例えば、レーニンのように文化、風俗、人々の生活習慣などの根強さを押さ えるということが、全くできていないだけでなく、分かってもいない。こういう思想 全体を僕は自分の日記の中で長いこと「客観主義的認識主義」と呼んできました。ひ らたく言えば、「結局、土台の矛盾が明日の世の中を作るのだという認識を広めるだ け。そこから物事を発想するだけ。上部構造的営みについては眼中にないも同然」。 ちなみに、昔階級闘争の三つの形態とか言った政治、経済、イデオロギー? こんな のだけで闘える時代なんでしょうか? アメリカの二大政党なんか生活の隅々までの 獲得目指して、ボランティア的闘いをも含めて競いあっている。それも教会までが拠 点になって。教会もイデオロギー闘争のうちなんでしょうけどねー?
次いで、これは本論に大いに関係ありますが、宗教と唯物論のこと。というよりも 宗教と「科学的」社会主義のこと。と言っても同じことでしょうね。マルクスの唯物 論によって空想が「科学」になったわけですから。
あなたが言うように僕が勧めても「控えていた宗教者」が、A、N、S、Oとぱっと名 前まであがります。Nはカトリック、他の方はプロテスタントでした。またこれとは 全く別にプロテスタントが作った伝統ある学校で十年以上講師をしていてそこが全労 連系の教職員組合だったものですから、この問題はまさにフロントでした。しかしな んにしても、ここは世界でも最も宗教心が薄い日本ですよ。宗教の「心」を最も軽く 考えられる国です。そこのところを、世界の将来への日本の役割をも臨みながらよく 考えて欲しいと思います。ロシアにも旧東欧圏でも、自分の人生が不利になることを 承知であれだけ宗教が残ったということを貴方はどう考えられますか?あちらの国の 過去ではまるで「日本大企業の共産党員扱い並み」もあったんじゃないでしょうか。 彼らは、日本の共産党員よりも強固だったりして。ちなみに現在のローマ教皇、ヨハ ネス・パウルス2世はポーランド出身、クラクフ大司教に1967年に就任、その後 78年に教皇、生年は1920年です。ポーランドは1945年ドイツから独立、1 952年人民共和国憲法制定ということですね。
さて前置きの最後も本論に近い問題。「唯物論哲学」、「科学的社会主義」の「一 切否定」に近く、現実分析と離れて研究するだけと、「僕が述べている」と言われた こと。この問題については、エッセーの文章は確かにただ以下だけです。貴方の引用 「それはそれで大いにしたら良い」の次ですが、「未来を目指したより広く支持され る、正しい行動、政策を作っていくためにも。そこの(専従、非専従の)学者たちに は、むしろ当然多様な人がいた方が良い。マルクス主義者も、宗教者も、社会民主主 義者も」。僕の主たる論旨の性格からここもごく簡単な言及に過ぎなくなるのです が、それでもこの表現は「党活動方針を策定する指針としての意義を切断された」研 究とは読めないのではないでしょうか。ただ僕のエッセーの場合、左翼の右左中が同 居して政策と成果を競い合うという感じになりますので、学問的な社会主義の研究だ けとはなっていないにしてもです。
なお、以上全てに共通する僕なりのご注意をひとつ。僕は哲学出身で、さらに自分 の性格もあって、言葉とその概念を実態に即して考えるということ以外に、言葉を言 葉としてのみ考えるなどという習慣は持ち合わせていませんので、その点はご心配な きようお願いいたします。
さて、以上は前置きのようなもので、本論はちょっと先になると思います。前にも 言いましたように、いろんな本もひっくり返しながら、僕のこれまでの出発点よりも もっと前のより広い前提?の所から出発してみたいとも思っていますし、都合でこの 月末から3ヶ月近く自宅にちょっとでも帰れる日はゼロ、パソコン使用がままならな くなるということですので、すみませんがご容赦ください。パソコンが思いのほか使 えれば、意外に早くなるということもあるとは思いますが。