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「組織論・運動論」討論欄

2/1 ロム3さんへ

2005/02/03 樹々の緑 50代 会社員

 さっそくのお返事、ありがとうございます。私の投稿の元が北朝鮮問題欄のロ ム3さんの投稿だったので、前回は北朝鮮問題欄に送りましたが、内容が北朝鮮問題 から離れるので、組織論・運動論欄に移して議論を続けさせていただこうと思います。

 まずはじめに、文章だけでやりとりするため仕方がないと思うのですが、どこか議 論がすれ違っている感じがしています。まあ、おいおいはっきりするでしょう。要点 としては、ロム3さんは、私がお互いの「共通の前提」だと考えていることに対して 反論をなさっているが、私が伺いたい肝心な点(その先)にはお答 えになっていないという感じです。

 一例を挙げれば、「革命」を社会構成体の構造の変革として捉えて、その「完成」 は当然「構造」の問題であるが、そのためには、社会主義を目的意識的に実現しよう とする勢力が「政治権力」を獲得し、これを利用する方法を通じて「構造の根本的改 革」を行う必要がある、と明記した、1/12付人文学徒さんへの 投稿(その2)の末尾です。
 私は、日本共産党東京都北区議八百川孝さんのホームページを、昨年10月頃から随 時見ていますが、八百川孝さんが、彼のいう「社会民主主義主義革命」を「社会的変 革」だと言っているのも、このような私の論旨と同じ意味だと考えています(但し、 もちろん私は、彼の主張全部に同調はしていません)。だから、ロム3さんの指摘に 「?」となるのです。この「さざ波」の場に即してもっとわかりやすく言うと、私の 立場は、銀河さんなどとは基本的に違っています(銀河さんに議論を仕掛ける意図は ありません)。

 そして、ロム3さんは、このような(私がいう)八百川さんの論旨にも反対してい らっしゃるのかを、お尋ねしたのです。注意していただきたいのは、ここで私は、 「権力獲得の方法」については何も述べていないことです。ただ、「本気で 社会主義(八百川さんやロム3さんがいう「社会民主主義」)を実現したいなら、権 力の獲得に消極的であってはならないのではないか」ということなのです。

 このことに関連して、上記(その2)で「この過程は、以前のどの社会構成体の変 革においても同じであったと言える」と述べ、さらにあなたへの前投稿でも、近代市 民革命も「暴力革命」の形ではあったが「まず権力を獲得して」、これを利用して社 会変革が行われた、と述べているのです。もちろん、その変革の「下敷き」となる社 会制度の萌芽は、旧社会の中にすでに育っているものであること、したがって、何か 突然降って湧いたように「まったく新しい、以前には想像もつかなかったような」制 度が出現するのでないことは、当然の前提です。別の角度からいうと、これが、あな たが強調してやまない「史的唯物論」の見地ではないのか、と私はお尋ねしているの です。

 私の印象では、ロム3さんの主張は、「旧社会の中で新たな社会における基礎的制 度の萌芽を育てる」ことだけを強調し、これを現実に「社会構造の変革」に結びつけ る橋頭堡(古い!)となる「政治権力の獲得」を後景に押しやっているように見える のです。そして、その「権力獲得アレルギー」とでもいうべき見地をもたらしている のは、パリ・コミューンやロシア革命・中国革命の過程で「暴力が行使された」こと への嫌悪感ではないか、と指摘しているのです。
 その嫌悪感を、「権力獲得の必要性論」一般へと推し及ぼすことは、われわれが現 に直面している21世紀の日本という「具体的条件と情勢」の検討を看過する、それこ そ「弁証法的唯物論」にも「史的唯物論」にも反する「観念的図式主義」ではないか、 と申し上げているのです。

 私がわざわざ、前投稿で「21世紀の、日本という国の現状で、政治権力を実際に移 動させ掌握する方法は、基本的に選挙制度を通じた(ブルジョア)民主主義 的・平和的な方法」だと述べたのも、八百川さんが「一般化したのはレーニンの 誤り」だと指弾する「暴力革命」の方法や「ソビエト的形態」を考えているのではな いことを、ぜひとも明示したかったからです。付言しますが、この点では、原仙作さ んがいわれるように、レーニンの総括は一定の歴史的条件と情勢の下での結論に過ぎ ず、「レーニン主義者」がそれを誇張したのであって、八百川さんの非難は濡れ 衣だと考えています。

 おっしゃることは、その通りですが、それ以前の封建制に比べれば人権は進歩した のではないでしょうか。

 私は、「それ以前の封建制」から資本主義社会へ時間が進行(あえて、「歴史の発 展」とは言いません)するにつれて、「何によって人権は進歩したか」についてのあ なたの見解を問うているのです。それは、経済発展(生産力の発達)によって自動的 にもたらされたものではない、ということです。資本制生産が発達し、資本主義社会 が「発展」すれば、自動的に「人権も進歩する」と考えるのは、あなたが強調してや まない「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」の立場ではないと思うのですが、いかが でしょうか? 人民の闘いと、その成果を決定的に確保しうる必要条件となる「権力 の獲得」によってではないか、といっているのです。

 何事にも、時間がかかります。秋の彼岸と、春の彼岸は、太陽が同じ位置にありま す。にもかかわらず気候は全く違います。冬至は太陽が全く遠くにありますが、冬至 以後のほうが夜明けは早くなりますが、気候は大寒を迎えて寒くなります。経済問題 にも時間差があると思います。夜明けが一番くらいからと言って、夜がもう一度くる かのようにあせってはならないと思います。

 ここの部分は、結局何をおっしゃりたいのか、私にはほとんど理解できません(彼 岸だとか冬至だとかの話は分りますよ)。

 これまでの共産党路線では同じ事だと思います。

 ここ以下の7つの文は、ほとんど意味が分りません。個々の意味は取れても、それ と「権力獲得」課題とがどうリンクするのかが分らないのです。なお、私は共産党員 ではありませんし、「いまの共産党」路線を批判している者ですから、私に対して共 産党批判をぶつけられても、答えようがありません。ここでの議論 のスタンスは、現共産党の路線とは一応離れて、「あるべき運動論は何か」を論じて いるものだと考えています。

 現在の政治では、権力を取ることに非常にうまみがあります。

 しかし、権力をとっても、苦労なだけだと考えるようになったら、誰も権力を取り たくないでしょう。

 まさにその「うまみ」の実体は何かが問題だと思います。結局ロム3さんの論旨で は、「現在の政治」で「権力を取」っているのが、労働者階級に対する経済的支配を 政治権力の保持によって維持している資本家階級であること自体を、言い換えれば、 いまの日本社会は階級社会であること自体を、曖昧にしてしまうのではないでしょう か。そしてその曖昧化は、ロム3さんが強調してやまない「史的唯物論」「弁証法的 唯物論」の基本的見地にも反するのではありませんか?

 また、ロム3さんの上記論旨では、具体的な「権力担当者」と「階級社会における 政治権力の所在」とを混同しているように感じられます。「人権擁護」の大衆運動が 進展すれば、支配階級が「妥協」によって延命を図るのをやめて、階級的支配自体を 「投げ出す」というのは、幻想だと思います。人民側の運動が、正確に「支配階 級の権力支配の廃棄」を自覚的に目指しているからこそ、「支配階級自身が権力を投 げ出さざるをえない」客観的情勢も作り出せるのだと、思うのです。

 今は、権力を取るより、足腰を鍛える方が重要だと考えます。「とおりすがりN」 さんが言われているように、資本主義の成果の上に社会主義が生まれるのであるから、 資本主義のことすべてをわかっていないとその政権は維持できないと思います。

 「権力を取るより、足腰を鍛える方が重要だ」というように、両者の課題を(「足 腰を鍛える」が何を指すかはひとまず措いたとして)対立的に把握する点に、ロム3 さんの論旨の特徴が現れています。
 しかし現共産党は、「権力を取ること」に熱中しすぎて、「足腰を鍛える」ことに 意を払わなかったから低迷しているのではないでしょう。私に言わせれば、「(ぜひ とも取らねばならない)権力を取るという課題の実現に向けて、真剣かつ誠実に自己 検討をしてこなかったから」こそ低迷しているのだということです。この場で多くの 方々が言われているように、「本気で選挙に勝とうとしていない」のではありません か?

 「資本主義の成果の上に社会主義が生まれる」ことが、なぜ「資本主義の ことすべてをわかっていないとその政権は維持できない」理由になるのか、よく分り ません。資本主義社会を実現した人たちは、「封建社会のことすべてをわかっていた から」革命政権を維持できているのでしょうか?

 「足腰を鍛える」地道な大衆運動は、それこそいまより数十倍も展開しなければな らないでしょう。しかしそれと同時に、それを「政治権力の獲得」の必要性やこれを 通じた社会主義社会実現の必要性に対する国民自身の自覚にまで結びつける目的意識 的な働きかけを系統的に行わなければ、社会主義の実現など、絵に描いた餅です。
 逆に、個々の選挙で勝つことや「赤旗」の拡大という、党勢拡大の課題を「その日 暮らし」のように近視眼的に追求するだけで、選挙で勝つことの先にある意味(=政 治権力の獲得)や「赤旗」拡大で何をしようとしているか(=国民の政治的自覚の促 進)を考えないでいる限り、いくら「大衆運動」に軸足を動かしても、どなたか若い 方がおっしゃっていたように、大衆運動を「拡大の窓口」のように利用するだけに終 り、運動さえも尻すぼみになってしまうでしょう。
 過去へのこだわりさんが正当に強調されている、「大衆運動の重視」は、このよう な基本的観点の欠落を指しているのだと思っています。

《付言-八百川さんの見解についての感想》
 何せ長大なので、ざっと斜め読みしかしていないため見落としているのかも知れま せんが、八百川さんは、現日本共産党の民主集中制についてどのような見解に立って いるのでしょうかね。
 彼の社会主義論については、その実質には大きく肯けるものがあるのですが、彼の スタンスには、問題意識のズレを感じざるをえません。例えば、「言葉」は現実の社 会の中で意味を与えられていくものなので、語源探究をしたからといって、われわれ が現在考えていることの内容を「社会民主主義」だと再定義するのはやめてほしいと 思っています。だったら、いまの日本の社民党や新社会党は「社会民主主義者の政党」 ではないのか、と言いたいくらいです。
 また、民主集中制が、彼が批判する現日本共産党の「社会主義」論のあり方と深く 関係しているとは、八百川氏は考えていないのでしょうかね。現職の共産党区議であ りながら、ホームページで理論的批判だけはする(これは多分「全国的問題」ではな いという理解なのでしょう)というのは、彼が「疑問」を持ち始めた時期と理由が、 私とまったく同じだっただけに、気楽なものだというのが、私の率直な感想です。