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「組織論・運動論」討論欄

2/3 樹々の緑 さまへ

2005/02/05 ロム3

まずはじめに、文章だけでやりとりするため仕方がないと思うのですが、どこか議論がすれ違っている感じがしています。まあ、おいおいはっきりするでしょう。要点としては、ロム3さんは、私がお互いの「共通の前提」だと考えていることに対して反論をなさっているが、私が伺いたい肝心な点(その先)にはお答えになっていないという感じです。

 もしかしたら、お互いの「共通の前提」が違っていませんでしょうか。まず、革命論ですが、私は、生産力の拡大が革命だと思っています。産業革命、情報革命、来るべきエネルギー革命によって、社会体制が変わってくると考えていますので、その時代、その時代の生産力に見合った社会体制にすべきだと考えています。人為的に権力をとるのは、革命ではなく、クーデーターと考えています。

一例を挙げれば、「革命」を社会構成体の構造の変革として捉えて、その「完成」は当然「構造」の問題であるが、そのためには、社会主義を目的意識的に実現しようとする勢力が「政治権力」を獲得し、これを利用する方法を通じて「構造の根本的改革」を行う必要がある、と明記した、1/12付人文学徒さんへの投稿(その2)の末尾です。

 社会主義はなんのために必要なのか、人権を守るために必要なのだから個々の立法とか、労働運動とか、その他もろもろの立場による要求運動と政党がうまく力を合わせて、一つ、一つ、権利を勝ち取って行けばいいと思っています。実際、大衆運動の中でそういう成果は上がっているのですが、今までは政党の引き回しがひどかったので、大衆組織が盛り上がらない弊害がありました。過去のそういう弊害を背負いながら、要求中心の大衆組織に変えて行く努力をしているところ です。

私は、日本共産党東京都北区議八百川孝さんのホームページを、昨年10月頃から随時見ていますが、八百川孝さんが、彼のいう「社会民主主義主義革命」を「社会的変革」だと言っているのも、このような私の論旨と同じ意味だと考えています

 八百川氏とは、以前は意見が食い違っていました。今まだ全部読んだ訳ではないのですが、リニューアルしてから、こと、マルクスの継承のしかたについては、同じ意見のように思います。
 レーニンは、マルクスの一部しか継承してなくて、老成してからのマルクスは、もっと、平和的なのではないかと思います。八百川氏の考え方は、最近変わったのだと感じました。

そして、ロム3さんは、このような(私がいう)八百川さんの論旨にも反対していらっしゃるのかを、お尋ねしたのです。注意していただきたいのは、ここで私は、「権力獲得の方法」については何も述べていないことです。ただ、「本気で社会主義(八百川さんやロム3さんがいう「社会民主主義」)を実現したいなら、権力の獲得に消極的であってはならないのではないか」ということなのです。

 私が入党したころの1960年代の日本共産党は、国会議員は2名程度でしたが、選挙(権力)に固執してはならないと学びました。あの当時はもっぱら、労働組合運動に力を入れていました。また、大抵の大衆組織もあの当時にできあがっていました。今とちがって、党員が先頭にたって大衆組織を指導していました。
 その後、選挙至上主義になってから、党も大衆組織も弱体化してきました。選挙至上主義(権力主義)はやめてほしいということです。

このことに関連して、上記(その2)で「この過程は、以前のどの社会構成体の変革においても同じであったと言える」と述べ、さらにあなたへの前投稿でも、近代市民革命も「暴力革命」の形ではあったが「まず権力を獲得して」、これを利用して社会変革が行われた、と述べているのです。

 近代市民革命が何を指していられるのか解りませんが、フランス革命なら、ナポレオンという独裁政権に道を開いたのではないでしょうか。それが市民を解放したことになるのかどうか私には理解できません。

もちろん、その変革の「下敷き」となる社会制度の萌芽は、旧社会の中にすでに育っているものであること、したがって、何か突然降って湧いたように「まったく新しい、以前には想像もつかなかったような」制度が出現するのでないことは、当然の前提です。別の角度からいうと、これが、あなたが強調してやまない「史的唯物論」の見地ではないのか、と私はお尋ねしているのです。

 史的唯物論は、まず、生産力が社会形態を変えて行くと私は認識しています。生産力が向上すれば、使用者と、被使用者の中で軋轢がおきます。機械が人に代われば首切りも行われます。その余った人員を巷に放り出すのではなく、しかるべき他の職種に切り替える。その間に賃金や、技術習得のための援助をするというような方策を万全を期して考えておくべきだったと思います。それが、できなかったのは、左翼の怠慢であったと思います。

 左翼は、世の中の変動を現実よりも早く予告すべきなのに現状では後追いばかりしていて、先を予告した人は、修正主義者だとか、資本家の手先とか、罵倒されてきたのではないかと思います。

私の印象では、ロム3さんの主張は、「旧社会の中で新たな社会における基礎的制度の萌芽を育てる」ことだけを強調し、これを現実に「社会構造の変革」に結びつける橋頭堡(古い!)となる「政治権力の獲得」を後景に押しやっているように見えるのです。

 政治権力を獲得するには、それなりの力量がなければならないと思います。今の左翼に複雑な生産力や経済をコントロールして行く力量はないと思います。権力を維持できるような力量を身につける方が権力を取るより先決だと思います。

そして、その「権力獲得アレルギー」とでもいうべき見地をもたらしているのは、パリ・コミューンやロシア革命・中国革命の過程で「暴力が行使された」ことへの嫌悪感ではないか、と指摘しているのです。

 中国革命は、他の革命と成り立ちが違っています。これははっきり旧勢力より力量があって出来た革命です。暴力といっても、第二次大戦の延長戦のようなものです。

 私は、幸か、不幸か、中国で内戦による市街戦の最中に身を置いていました。その時のことを後から不思議に思ったのは、ソヴィエットが引き上げ、蒋介石軍が入ってきて、それを、八路軍(共産軍)がすさまじい戦闘で攻撃したのです。あの当時から、ソヴィエットと、中共とは、亀裂が生じはじめていたのかなと思ったりしています。アメリカの意向でソヴィエトは一旦蒋介石軍に満州を渡したのかもしれませんが、三つの軍隊が実に鮮やかに交代するのには、おどろかされました。二度目に蒋介石軍が入って来たときには、朝は、中共支配地、昼には、中央軍支配地域に代わりました。その時は、戦闘はなく、飛行機が飛んだり、迫撃砲が飛んできたりしましたが、私は、その日退院した病気の弟を背負って町中から郊外の家に向かって母と三人で歩いていて、ザクザクと攻め上ってくる。蒋介石軍とすれ違いにこわごわと歩いて帰ってきました。

その嫌悪感を、「権力獲得の必要性論」一般へと推し及ぼすことは、われわれが現に直面している21世紀の日本という「具体的条件と情勢」の検討を看過する、

 暴力だから嫌悪するのではなく、力もないくせに権力をとるのがいけないと思うのです。力のないものが取った権力は恐怖政治を巻き起こします。

私がわざわざ、前投稿で「21世紀の、日本という国の現状で、政治権力を実際に移動させ掌握する方法は、基本的に選挙制度を通じた(ブルジョア)民主主義的・平和的な方法」だと述べたのも、

 選挙でとるとると言う権力も、ますます遠ざかっているのが現状です。「取ろう取ろうは、取られの元」で、権力なんかを思考するよりも、現実的な法改正で庶民を守ってほしいです。

八百川さんが「一般化したのはレーニンの誤り」だと指弾する「暴力革命」の方法や「ソビエト的形態」を考えているのではないことを、ぜひとも明示したかったからです。付言しますが、この点では、原仙作さんがいわれるように、レーニンの総括は一定の歴史的条件と情勢の下での結論に過ぎず、「レーニン主義者」がそれを誇張したのであって、八百川さんの非難は濡れ衣だと考えています。

 ちょっとむつかしくて解りかねます。

「何によって人権は進歩したか」についてのあなたの見解を問うているのです。それは、経済発展(生産力の発達)によって自動的にもたらされたものではない、ということです。

 私は、経済の発展が一番大きな要因だと思います。経済的に苦しければ生きるためには、他人の物もとることが日常化します。
 それは、中国でいやというほど体験してきました。
 私たち日本人も戦後はドロボーしなければ生きてこれなかった。
 石炭があると言う情報がはいれば、ありのごとく、盗みに行く、中央軍が追い払おうとして、ばんばん鉄砲をうってくる。それでも誰もしりぞかない。あんなの空砲だよ。脅しているだけだといって、一すくいでも石炭を手に入れようとする。結果は何も得られず帰って来ましたが、鉄筋コンクリートの空き屋が一軒、みんなが柱を切り取ったので、壊れた時がありました。中から、木材がでてきた。それを群がって取り出したのですが、私は少ししかとれなかった。不在中の母に後からうんとおこられました。

資本制生産が発達し、資本主義社会が「発展」すれば、自動的に「人権も進歩する」と考えるのは、あなたが強調してやまない「弁証法的唯物論」や「史的唯物論」の立場ではないと思うのですが、いかがでしょうか? 

 生産力が向上しなければ、今の豊かな生活は保障されないでしょう。暖房もなく、食物もとぼしく震え上がっていても、権力がほしいですか?

何事にも、時間がかかります。秋の彼岸と、春の彼岸は、太陽が同じ位置にあります。にもかかわらず気候は全く違います。冬至は太陽が全く遠くにありますが、冬至以後のほうが夜明けは早くなりますが、気候は大寒を迎えて寒くなります。経済問題にも時間差があると思います。夜明けが一番くらいからと言って、夜がもう一度くるか のようにあせってはならないと思います。
ここの部分は、結局何をおっしゃりたいのか、私にはほとんど理解できません(彼岸だとか冬至だとかの話は分りますよ)。

 情報革命が社会主義をもたらすというのが、私の持論です。しかし、今は、反対の現象が起きています。情報革命ゆえに失業者がふえています。正に夜明け前の漆黒の闇だと思います。ファンダメンタルズと、実際の現象にはずれがあるということを言いたかったのです。

まさにその「うまみ」の実体は何かが問題だと思います。結局ロム3さんの論旨では、「現在の政治」で「権力を取」っているのが、労働者階級に対する経済的支配を政治権力の保持によって維持している資本家階級であること自体を、言い換えれば、いまの日本社会は階級社会であること自体を、曖昧にしてしまうのではないでしょうか。そしてその曖昧化は、ロム3さんが強調してやまない「史的唯物論」「弁証法的唯物論」の基本的見地にも反するのではありませんか?

 今の世の中を資本主義とは、言わないそうですね。市場経済というのが、資本主義のことらしいですね。旧社会主義が計画経済というのに対応しているのかも知れませんが、今は資本家が社会を支配しているのではなく、企業家が支配しているからだと思います。資本主義も変化してしまっていると思います。
 階級社会と言う言葉もいずれなくなるでしょう。これからは、階層社会になると思います。

 すくなくとも、男女の階級差はかなりなくなってきました。今の時代に慰安婦などはいませんからね。その時々の変化を細かくよみとることが、弁証法だと思っています。

また、ロム3さんの上記論旨では、具体的な「権力担当者」と「階級社会における政治権力の所在」とを混同しているように感じられます。「人権擁護」の大衆運動が進展すれば、支配階級が「妥協」によって延命を図るのをやめて、階級的支配自体を「投げ出す」というのは、幻想だと思います。人民側の運動が、正確に「支配階級の権力支配の廃棄」を自覚的に目指しているからこそ、「支配階級自身が権力を投げ出さざるをえない」客観的情勢も作り出せるのだと、思うのです。

 その客観的情勢をどやって作り出すのかが一番のもんだいです。
 今までの考え方、やり方では、作り出せなかったのですから、その一番の原因が権力志向にあったと私は思っています。
 受かりもしないのに、全国300議席、立候補する必要はないです。共産党は、無理をしない政党であってほしいです。その代わり正しく情勢を見極める政党であってほしいです。

しかし現共産党は、「権力を取ること」に熱中しすぎて、「足腰を鍛える」ことに意を払わなかったから低迷しているのではないでしょう。私に言わせれば、「(ぜひとも取らねばならない)権力を取るという課題の実現に向けて、真剣かつ誠実に自己検討をしてこなかったから」こそ低迷しているのだということです。この場で多くの方々が言われているように、「本気で選挙に勝とうとしていない」のではありませんか?

 ここでまた、何のために権力を取るのかを復習していただきたいと思います。人権を守ることが出来さえすれば権力はどうでもいいのです。

「資本主義の成果の上に社会主義が生まれる」ことが、なぜ「資本主義のことすべてをわかっていないとその政権は維持できない」理由になるのか、よく分りません。資本主義社会を実現した人たちは、「封建社会のことすべてをわかっていたから」革命政権を維持できているのでしょうか?

 当初は、前の時代のことが解っていないと、政権を維持できません。一般業務でも担当者が代わったから、前のことは解りませんですむでしょうか。
 資本主義の矛盾の一番はげしくなった時に多分政権交代をするようになると思います。その悪くなる道筋をよく観察しておかないと、政権交代は出来ないと思います。

 いま抱えている不良債権の問題、べらぼうな国債の発行残高、産業の空洞化、これは前の時代の人が作った負債だから知らないとは言えない問題です。

《付言-八百川さんの見解についての感想》
 何せ長大なので、ざっと斜め読みしかしていないため見落としているのかも知れませんが、八百川さんは、現日本共産党の民主集中制についてどのような見解に立っているのでしょうかね。
 彼の社会主義論については、その実質には大きく肯けるものがあるのですが、彼のスタンスには、問題意識のズレを感じざるをえません。例えば、「言葉」は現実の社会の中で意味を与えられていくものなので、語源探究をしたからといって、われわれが現在考えていることの内容を「社会民主主義」だと再定義するのはやめてほしいと思っています。だったら、いまの日本の社民党や新社会党は「社会民主主義者の政党」ではないのか、と言いたいくらいです。
 また、民主集中制が、彼が批判する現日本共産党の「社会主義」論のあり方と深く関係しているとは、八百川氏は考えていないのでしょうかね。現職の共産党区議でありながら、ホームページで理論的批判だけはする(これは多分「全国的問題」ではないという理解なのでしょう)というのは、彼が「疑問」を持ち始めた時期と理由が、私とまったく同じだっただけに、気楽なものだというのが、私の率直な感想です。

 メールを送って見てはいかがですか、私はメールでマルクス語ではわからないと言ったのですが、先日見たら、リニューアルされていました。前回読んだ時と内容も変わっています。わたし的には進歩したと感じています。なにしろ党員で区会議員ですから、党の制約を感じながら書いていると思います。彼も、党も日々変化していると思うのですが。

 彼の主張は、今後も変化して行くと思います。それは、読者の反応によって変化すると思います。如何に彼の主張を変化させるかが私は楽しみなのです。