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「組織論・運動論」討論欄

「樹々の緑」さんとの討論として

2005/02/07 人文学徒

   年末から始まって3回の、「試論」とは名打たれていてもかなり多面的にして周到な従って長期に及ぶご努力を、本当にご苦労様でした。こういう討論こそ、僕が「日本共産党の惨状の本質」と「変えていく方向のエッセー」などの投稿に際してまさに望んでいたものです。そして、この貴方の論文は、さざ波の今後にも好影響するものと確信しています。1国革命論や2段階革命論やの批判派であってさざ波を重視する方とか、民主集中制を否定した面も含めて「イタリア左翼民主主義者」党の軌跡に賛成される方とかならば、応答せざるを得ないような内容でもありますしね。こういう多面的討論の深まりを期待しつつ、貴方に感謝する次第です。島本慈子氏とか、ノリーナ・ハーツ氏とか僕にとって興味ある著作も教えられました。是非読みたいと思っています。これも有難うございました。

 さて、述べられている主要テーマの最も簡潔な要約は、以下のようなものでしょうか。

 日本共産党の官僚制、非民主性の捉え方、組織的改革方向、日本の政治における「中期的行動目標」もおおむね一致する。が、資本、国際資本と闘わなければ殺されるという状況は続くのだしして、社会主義は綱領から下ろせない。その解釈はいろいろあり、その本質的内容やそれへの道筋などは今後変わらないものではありえないと考えているのであるが、社会主義を綱領に掲げ続けて、何世代にもわたる目的意識的な闘いを行っていくべきだ。その中心部隊は労働者と貧農であろう。こう考えればさらに、権力の獲得、それに向かっての党としての行動の統一などは、人文学徒氏においては弱い視点になっているのではないだろうか。

 こうして、日本共産党の非民主性批判から社会主義を下ろすというような『濡れ衣論』はどう考えても納得できない。アツモノに懲りてナマスを吹く、水を流して赤子まで、こんなことをどうして主張されるのか!? 社会主義を実現したいと言われているのは本音なんですか? 

 おおむねこういった内容ですね。それで、さて。

 僕としてはまずなによりも、こう言いたいと思います。ここに集う人々は社会主義実現要求が前提のはずだし、綱領というものには最終的な事業の目的としての社会主義実現はどうしても入れるべきだと、貴方が言われているだけなのではないでしょうか、と。そしてこの点以外は結局、貴方と僕はほとんど違っていないとも、僕は言いたいと思います。あなたが僕に、その旗をなぜ下ろすのかと重大問題として問うのと全く同じに、僕もなぜそれを掲げるのかと貴方に問いましょう。民主主義的な中期目標で宗教者なども含めてもう一度改めて広い一致点を探しあって、言葉、認識ではなくこういう中期目標への互いの誠実で有能な実践を示しあい、それで点検、評価しあって結びつきを深め合っていくという政党ではどうしていけないのかと。(なお、この政党の中の社会主義グループは当然のことながら、その旨を表明しており、国民の要求から言っても緊急で、かつ社会主義政権確立に好影響していくような中期目標を、考え抜いて、綱領に入れて行こうとするというのは当然のことです。)なぜ、この今現在において「科学的」社会主義実現要求の、従って唯物論の人々だけで固まろうとするのかと。もっと言うならば、貴方はそれが科学的な、勝てる道だと言われるが、政党としてはそういう人々だけの固まりで(最も速く)勝てると言うその証明、説得がないのではないですかと。貴方も、社会主義を巡る重大問題で多様な解釈が現にあること、その実現への何世代にもわたる長い道のりの今後にも様々重大な解釈変更がありうることは、是認されている。そういう不確かな「信念」の小さな固まりで(より速く)勝てるという確信をこそ、僕は説明して欲しいと言いたいのです。貴方も僕も社会主義を下ろすということではまったくなくって、その問題とは別の、今日本に必要な政党の綱領の問題としてです。少なくとも僕のほうは、唯物論者でなくとも抵抗なく加われるようにしたい、「信念」(「空想的」社会主義以来の貴方が言われる時代の苦悩への共感ならば僕も共有していますが)でなく実践で結びつき合おう、「信念」のようなものには解釈独裁発生の疑念があると、この3点だけは明確にしてきたつもりです。
 そしてまたもう一つ、従来の唯物論がいわゆる上部構造の役割を過小評価していたということもはっきりしているから、その「科学」、分析の正しさにも今のところ疑念があるということも、僕は度々述べてきました。世界の共産党とその国家のほとんどが「自らの組織原則」もあって崩壊していったとか、「宗教」や「民族問題」の過小評価とか。また、以下の事実も、この問題の現時点における重要性をさらに決定的にしているのではないかとも述べてきました。社会主義革命がこれまでの革命と次の点で決定的に違ったものだということです。以前の革命は経済的実権が新しい支配階級にいわば自然に移っていき、そのうえでやがて間もなく必然的なように政治革命がおこったが、社会主義革命は政治革命が先行せざるをえないという事実です。つまり革命における上部構造の役割りが史上初めて決定的に高くなるということであって、経済主義的必然性のみに頼るようなセクト主義、客観主義ではだめなのではないかということです。また、生産力が発達すれば、資本主義的権力の内にあっても民主主義が発達していくという議論もあるようですが、この議論が間違いだと言うのは、「過去へのこだわり」さんなんかが肌で感じているところでしょう。国際資本に関連するごく少数の管理的労働者以外はますます極貧にさらされていくというのが経済的必然性だとしても、また、労働者に組織性、計画性が平民としてはかってないような水準で身についていくとしても、その動向を諸国家の安定的選挙結果に結び付けられなくてはこの世界にはほんの少しの質的前進すらないのでしょう。
 こういった上部構造の独自性という点に関わっては何か従来の「科学的社会主義」理論が解明できていない、この時代に対する決定的な弱点が潜んでいるように思うのですが、どうでしょうか。そして僕は、この弱点が主として認識的問題であるより以前に、社会的実践の問題であるような気がしてならないのです。民主集中制論者だけで固まるのは決定的に愚かなことですが、唯物論的社会主義者だけでまず固まってしまっては、こういう必要な社会的実践が切り開かれていくというようには僕にはどうしても思えません。こういう固まりではどうしても土台主義から出られず、何か変革側の倫理というものの必要なあり方の創出にも不足するような気もしています。ちなみに1国社会主義論は、内部指導者の腐敗から必ず崩れていくと既に断定できるような非現実的な理論という謝りなのではないでしょうか。

 ところでさて、以上も仮説、断言のようなものであるとは、僕も確かに認めます。でも、こんな現代的性格の難問には、過去の理論家たちでは、原さんが上げられたエンゲルスやレーニンの言葉か、マルクスの実践概念ぐらい程度しか言及、ヒントを、僕は知りません。だからこそとにかく、「ミネルバの梟は夜に飛び立つ」、しばらくはなによりもかってなく広い人々と実践を重ねて実をあげ、その理論的力も蓄えていって、そこから社会主義への主体形成の答えも考えていきましょうよということなのですが。

 なお、「労働者寄り抑制」言及へのご批判はともかく、ぼくが良く使う「資本家をばら色に描かなすぎるのは控えよう」という発言については、日ごろ気になっていることなので、一言釈明を。これはマルクスの資本論序文の言葉で、「この本では資本家をけっしてばら色には描いていないが、それは個人個人を批判するのではなくて、その立場を批判する限りにおいてのことですよ」という内容だったかと思います。「こういう配慮をすればもっと広い仲間に言い分が認められるのになー。現在の若者は普段はやさしいからなー。土光さんとか、奥田さんとかの個人のパロイディー漫画をいやらしく描いたんじゃ、全くの人格攻撃と捉えられて、入り口で締め出されちゃう」と、こんな僕の日ごろの気持ちを込めた主張でした。ほんの些細なことかも知れませんが、僕は大事なことと考えてきましたので。「人間相手には僕は本来、みんなと気持ちよくやっていきたいと考えているのだけれど、あなたの立場上どうしてもこういう数々のことをあなたはやらざるをえないみたいで、それらの点は地上からなくすように僕らとしては行動せざるをえないのですよ」と、僕はやりたいのですね。こういう態度を、マルクスも「資本論」を読むに際して留意すべき大事なこととわざわざ述べているのだと感心してきたものでした。
 最後になります。予告したよりも少ない内容になってしまい、すみません。以上のような点を皆さんと話し合ってみたいと、現在考えています。