若干がっかりしている。このサイトは、党の民主的変革、政権政党への脱皮を
旺盛に論議する論壇であると思っていたが、その活力を感じない。
どなたか、投稿でそのような論議を呼びかけておられたが、それに応えるような論
議が続いた形跡もない。
イングラオ自身の政党構想、政権構想は不明確だが、今のヨーロッパ社民の「第3
の道」に批判的なことだけは確かなようだ。
しかし、彼が提起した「発展モデル」という問題と「異論の公開」は、まさに日本
共産党が直面している核心的な問題であると同時に避けて通ろうとしている問題に違
いない(「イタリア共産党を変えた男」。私自身は、彼は問題提起から後、自己飛で
きていないように感じるのだが...)。
この本を読むにつけ、いかに多彩で自立的な幹部が当時のイタリア共産党に結集し
ていたかが分かる。
下からの民主主義の問題もあるだろうが、幹部の民主主義的な素養の問題は大きい。
「共産主義者である前に、民主主義者であり、民主主義者として共産主義を選択した」
という本質的側面の欠如。民主集中制は、そのような素養の欠如という欠点を最大限
化するシステムとして機能する。
もう、20年近く前、後に東京都知事選挙にも立候補した某氏の講演を聞いたのだ
が、まさに「資本主義の全般的危機」論そのもの。「資本主義はそんなに弱くはない
よ」という思いをつぶやきながら聞いていたが、学者ぶるにはあまりにもお粗末な公
式主義にあきれた記憶がある。
また、大学を卒業してしばらく地域の支部に属していたが、ヨーロッパにおける世
界戦争に至らない「戦術核」か「限定核戦争構想」だったかが問題視されていた時で、
その危険性が強調されていた。私が、「そのような可能性があるとしても、世界戦争
にまで発展する危険性も残されているのではないか」と基幹会議で発言すると、地域
の女性党員が「それは読みが足りない」と発言したのを思い出す。彼女を責めている
のではなく、民主集中制はそのような状況を作り出してしまう危険性を持っていると
いうことを言いたい。
幹部による異論の排除と、異論がない範囲における形式的な討論の「自由」と「民
主主義」という2側面。
私などは、前者の経験はまったくなく、後者の経験のみだ。「民主集中制をすべて
灰色に描くことは間違いだ」。地方(私の経験の範囲内の)では、まったく自由に議
論ができ、割と好きなことを発言し、制裁もない。しかし、そこには党の方針に「本
質的な異論」がない場合という限定条件がつく。もっとも、党の方針と一体化してい
る人は、そのような制約を感じるはずも必要もなく、無条件の民主主義を確信してい
るだろう。しかし、そこからは自己改革的な創造性は生まれてこないだろう。こうい
う状況が全国に蔓延しているとしたら、それらの善意にもかかわらず、結果は別のも
のになるか、結果を予想せずに行動しているだけかだろう。
前者は別の深刻さを持つ。有田氏の査問経験。捏造とはとても思えない。そのほか
のHP掲載の諸論を読んでも「さもありなん」という思いと「そこまでか」という思
いにとらわれる。
党内の「内部生活」と「外部生活」あるいはそれとの関係のあり方とは、密接不可
分に相互浸透的に結びついているのであり、「次元の異なる問題」でもないだろう。
だからこそ、一般国民は将来の政権党になったときの危惧を表明するのではないか。
この民主集中制問題を突破できない最大の要因は、現在党中央に結集している幹部
の「知性」「民主性」の問題だろう。当時のイタリアと比べ、なんと自立した知性が、
不足していることか。
また、「発展モデル」についても、「全般的危機」論の放棄は当然だとしても、公
式的、儀式的な「大企業」論は相変わらずで、個別の論議(方針)の正論性にもかか
わらず、政策全体の魅力を失わせている。
現在の資本主義の発展モデルをどれだけリアルに把握し、変革(改良・コントロー
ル)の方針と方法論(政権構想)を提起できるかにかかっている。
道遠しであるが、このHPでの議論がもう少し活発にならなければ、何の活路も見 出しえないのではないだろうか。「時代に取り残される」ことは、明らかだ。