貴方の文章からも既に分かりますが、貴方と僕とは、党への批判とか改革方向とかが非常に似通っていると理解することができました。僕の投稿を読まれた限りで、僕の文章こそ挙げられていませんが貴方もそう受け取られたはずだと推察することができました。貴方の以下の主要論点は、賛成です。断片的な問題としてではなく、全て現在の日本で主要な問題として重要な指摘だということで。
「残る問題は、市場をコントロールするために、いかに規制、計画を取り入れるのか。また、誰のために規制、コントロールをするのかという点で、政治的な勢力をどう結集するのかという問題。」
「それ(市場)にどう修正を加えるのか、そしてその実現のプロセスをどう描くのかを確定することが問題だろう」
「政権をとるための視点。社会のどの層に依拠すべきなのか、もっと真剣に考えるべきだ。政治の谷間に居る人たち、もっとも政治の力を必要としている人たちが、必ずしも社会変革の主体ではないということを考えるべきだ。」
「抜本的な路線の転換=政権を目指す党への脱皮は、必然的に陣地論と民主集中制の放棄を要求する。」
「この民主集中制問題を突破できない最大の要因は、現在党中央に結集している幹部の「知性」「民主性」の問題だろう。当時のイタリアと比べ、なんと自立した知性が、不足していることか。」
「道遠しであるが、このHPでの議論がもう少し活発にならなければ、何の活路も見出しえないのではないだろうか。『時代に取り残される』ことは、明らかだ。」
さて、こういう点全てに日本共産党も問題は気づかざるを得なくなっているのでしょうが、マンネリというか無力感に襲われているということなのか、とにかくやる気が感じられません。これよりもっと悪い推察は、過去に現指導部がなした言動、理論における幾多の誤りをなし崩しに修正するという点においてソフトランディングを図るまで静かにしようとしているのではないかということです。窮乏革命論、プロレタリア独裁論、前衛党論などは言葉の上では修正しましたが、そういう理論はまだ残っているはずです。でなければ、民主集中制の存続を説明できないはずです。「東欧は社会主義国ではなかった」という社会主義概念のなし崩し修正。原水協や民青や民主主義文学同盟など大衆団体の引き回し。小田実、森村誠一問題など文学や上部構造への政治・土台主義。などなど、などなど。これらはもう、党の根幹に関わる致命的なことばかりです。不破がなぜこれで無傷でいられるのでしょうか。本当に不思議です。指導部が己の過去にこれほど責任を取らない組織というものも他に例を見ないのではないでしょうか。それなのに、周囲や中間機関の幹部は「ヒラメ」、「伝動ベルト」でしかないし、民主集中制で異論、中央批判は提起できないし、もうお先真っ暗という感じに落ち込んでしまうばかりです。自社2大政党体制が実質崩れるという50年単位のこの絶好機に日本共産党がなんにもできないなどという時が来るなどとは70年代には想像もできませんでした。グローバリズムがニートという形で人類の希望である若者たちを世界的に吹き荒らしているというこの時になのです。
他方、この不破とは対照的に、幹部周辺はもう歴史的屍ごろごろの異様さです。志賀、内藤、春日、袴田、野坂、市川、中野重治、佐多稲子、古在由重、田口富久治、中西五洲、浅田善之助ぱっと思いついただけでも屍は無数にあがります。全て民主集中制にも切り捨てられたということではなかったでしょうか。
こんな風に、僕はこの2年ばかり、自分の半生を振り返ってもんもんと考え、暖めてきたところをここ書いてきました。このサイト参加者が鼠算式にどんどん増えていけば、民主集中制も実質崩れるのだと自分に言い聞かせながら。
いっぱい討論したいものですし、何よりもここの読者を増やしたいものです。少なくともこの2年は増えていません。微減というところではないでしょうか。残念です。