人文学徒さんから「過分」の評価をいただき恐縮しています。まさに、人文学徒さんが言われるとおり、「共産党そのものを対象にした全体的情勢分析」、「その全体的改革像」の論議を置いて論議するものはなく、個別政策などどうでも良いと私も思います。
なぜなら、日本共産党の憂うべき現状の原因は、個別政策の誤りや(国民にとっての)魅力のなさなどではなく、むしろそれらは緻密であるにもかかわらず、政策のトータル、政権展望、党そのものに魅力がない点にこそあるからです。
私が、その原因としてつくづく感じる点がありますので、そのことを書いてみたいと思います。
8月8日、郵政法案が参議院で否決され、衆議院の解散総選挙が決まった夜、私は県職労の社民系の幹部に誘われて鉄建公団訴訟支援のコンサートに出かけた。その筋では有名だという歌手が、「共産党の支持者の人がいたらごめんなさい」と前置きした上で、「ここに来る前に、共産党の人が宣伝していた。今回の事態は、闘えば展望が開けるということの証左だと訴えていた。何という楽観主義。彼らは、何を闘ったのか?」と歌の合間に話をした。念のために、民主党の批判などもした上でのことだということを付け加えておく。
私は、このコンサートに行く前に、県労連主催の集会に参加し、「やりました。法案を廃案に追い込みました。これは私たちの運動の成果です。」という「演説」を聞き、「またお決まりのパターンが始まった。何のことはない自民党の分裂がらみの結果ではないか。」と胸の中でつぶやき、「話をするなら、自民党は、多国籍企業群の利益と旧保守層の利益が合い矛盾してきており、もはや諸利害の連合組織として自らを維持することが困難な状況になっている。われわれの運動は、そこにクサビを打ち込み、その矛盾を拡大し、解散に追い込んだ。選挙は○○の勢力と協力し、小泉改革に対して○○の対案を示して、自民党を過半数割れに追い込む、ぐらいなことを言わないと…。何の意味もない、自己満足だ」とはき捨てていた。
従って、その歌手の話には苦笑いをしながら、共感を禁じえなかった。
私が、この話を共産党に極めて近い私の信頼する人にすると、「共産党はそういう風に言うものだと思っていた」という。つまり、宣伝扇動の手段として、よく言えば仲間を励ますために、自己の成果を過大に宣伝するものと思っていたというのだ。私が、「それをあまりにも繰り返し繰り返し行ってきたために、宣伝扇動のやり方から、思考パターンになってしまっている」と指摘したら、深刻な顔をしていた。
共産党、そして全労連の情勢分析には、同じパターンがある。
(資本主義体制、あるいはその政策の)全般的危機論・破綻論と(われわれの運動にとっての)情勢の厳しさ論との奇妙な並存。そして情勢の厳しさからの「出番」論への飛躍。
日本共産党は第17回大会(1985年)で「世界資本主義の全般的危機」論を綱領から削除、その理由の一つに「資本主義体制について、支配階級の危機きりぬけ策・対応を軽視して危機が一路深化するとか、革命勢力の力量いかんにかわらず経済的危機が革命的危機に転化するなどの単純な見方を助長する弱点がある」点を挙げている。それなのに、私の考えでは、「全般的危機論」は、日本共産党の思考の奥深くに今も生き残っている。
それは何故なのか。「習い性」となっており、頭で考える通りにはいかないのか。全般的危機論は、情勢分析の手間を省くきわめて便利なツールであったために、それを削除したとしても、自ら考える習慣がついていない頭脳は思考停止に陥らざるを得ず、それを防ごうとすれば、従来の思考パターンを密かに忍び込ませる以外になかったのか。そういう点は、現実的にはあるだろうが、もっと思想的な理由があるのではないか、と思われる。
それは、「修正主義」との「避けようのない相違点」にこそ原因があるのではないか。
私は、かねがね共産主義者と社民主義者を分ける分水嶺は何なのか疑問に思ってきた。「民族戦争」を認めるかどうか?妥協に陥りやすい性格かどうか?どれもすっきりしない。この頃になり、ふとそれは、「資本主義の変質」を認めるかどうかにあるのではないかと思えてきた。よくよく考えれば、私が共産党と思想的な距離感を感じ始めたのもそこに原因があった。全般的危機論を共産党が削除する前から、それに違和感を感じていたのも、「資本主義はもっと強いぞ」、「それは危機を克服するために変化するからだ」という思いを抱いていたことに理由がある。
ようは、全般的危機論を放棄しても、「資本主義の本質」=「最大限利潤の追求」論には、まったく修正が加えられていないために、資本主義の見方、その政策の本質の見方が、きわめて一面的にならざるを得ないのではないか、ということだ。
小泉内閣の新自由主義路線も、単純に「自民党政治の破綻」の表れと言うことになってしまう。資本主義は生き残りのために絶えず自己を変化させるし、競争(企業間だけではなく、体制・反体制間の)は変化を強制するし、むしろ変化を本質とする。全般的危機論は、この変化にリアルに目を向ける絶好の機会であったにもかかわらず、「資本主義の本質は変わらない」という「階級的な信念」のために、情勢の見方は旧態依然たるものになったのである。つまり、「変化」は「破綻」と映るのである。
ところが、運動が直面する現実はリアルであるため、個別情勢分析では一転して「悲観論」となる。しかも、この両者が「矛盾なく」並存するところにこそ、理解不能な奇妙さがある。
そして更に、ここからきわめて恣意的な「出番」論が引き出されるのである。情勢は厳しい、だからこそわれわれが頑張らなければならない、まさに私たちの出番である、と。
しかし、ここから確信が出て来るだろうか。展望が見出せるだろうか。叱咤激励だけでは、人は動かない。内面の価値に訴えかけ、リアルな展望を、それが困難でも努力することにより達成可能であるとの確信を与える展望を与えない限り、人は動かないし、その支持も得られない。
長くなったのでこれで今回はやめるが、最後に「資本主義の変質」を認めないと言うことは、その中でその改革を目指している自分たちの活動を正当に評価できないということにつながる。改革ではなく、断絶としての「革命」に固執するかぎり、リアルな情勢認識も、自己の運動の正当な評価も、多様な勢力との協同も深い意味で実現できないのではないか。