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「組織論・運動論」討論欄

雑感 : 筆坂本を考える<売行き好調の薄気味悪さ>

2006/06/07 Forza Giappone 青年

 全国紙の新刊書案内欄においても、大文字、しかもセンセーショナルなアナウンスがなされたせいか、筆坂著書『日本共産党』(新潮新書)のヒットが止まらないようだ。これは市内のみならず、某県県庁所在地の中型書店某所でも事情は何ら変わりがない。いずれも通学通勤圏内での範囲だが、ぼくの知る限り、今まで見たこと(聞いたことすら)もない《共産党コーナー》まで設置されたのには、さすがに驚いた。

 版元こそ異なるものの、ときの党幹部級が政治問題に焦点をあてた新書版というのは、今まで皆無だったわけではない。ご記憶の方もおられるとは思うが、上田耕一郎氏の『国会議員』(確か、平凡社新書だったはず。間違っていたらご指摘ください。)は比較的読まれた方も少なくないのではないかと思う。二昔前には江田五月氏(元社民連、現民主党議員)が同タイトルでエッセイ風の新書版を講談社現代新書から出していた。

 地元で筆坂本の初刷が発売になったのが確か4月19日前後。ぼくは、筆坂本は当初から購入する気はなかったが、《共産党コーナー》まで設けて売りまくろうか(!)という一部書店の識見には、ちょっと尋常ではないものを感じた。史上稀にみるきな臭い諸法案で国会法務委員会は騒然、外国軍移転経費3兆円(?)、交通違反監視員の民間委託解禁で懸念されるトラブル、児童らをめぐる悲しすぎる犯罪の多発、8年連続自殺者3万人台・・・、なにもこういった何かと閉塞モードな不健全なご時勢であるがゆえにヒットしたとも思えないしなぁ・・・。

 反共ではなくさりとて「親共」でもないという無党派友人B君とC君は、(表紙に仰々しく付された)オビのフレーズにつられて購入してしまった(情けない)。「ちぇっ、お前すぐ流行(?)に乗るんだなぁ。そんなの放っといたって図書館が常備してくれるってのに」。ぼくはそんな軽口をたたいた後、早速、図書館に向かいそそくさと斜め読みを済ませた。
 が、一見俗耳になじみやすいオビのキャッチフレーズだからとはいえ、反共勢力(ここでは、悪意的な者どもの意味。)を喜ばせかねない筆坂本の内容たるや、ざっと読んだかぎり、“利敵文献”の謗りを免れないのでは、と感じたのも正直なところだ。党に中立的な思想の人(悪意的反共ではない人)の中には、記述が繁閑よろしきを得ていない、とか、核心を突いておらず物足りなさを感じた、という人もあるのでは?とも感じた。

 どうせなら、終末論、じゃなかった、「未来社会論」絡みで筆坂氏なりの異論(そういうものが氏にあれば、の話なのだが。今なら「ある」と思われる。)をも、併せて論旨展開でもしてくれればまだしも、なのに・・・と感じてしまったのも事実だ。執筆の動機が不純(?)であるにせよ、氏は同書を、党への《決別宣言の書》と位置づけてある程度覚悟の上で原稿用紙に向かったとも思われるけれど。

 それはともかく、なにしろ、相変わらず、いわゆる“青写真タブー”が《鉄のカーテン》の如く立ちはだかるアナクロな党内ムードなだけに、移行期、更にその先の本当の未来社会における望ましい社会・経済のあり方、なかでも私的所有権と公的所有権のあり方等々につき、各人が自由闊達に論じる機会が皆無に近い。悪しき設計主義なんかではなく、これら諸点を論じ尽くすなり、素朴でもいいから疑問点を出し合ったりイマジネーションを働かすことはとても大切なのに、ほとんどの場合、意識的にか無意識にか自主規制の力学が作用してしまっている。
 氏は、離党に際して青年層向けの、せめてもの花ムケに青写真タブーの破壊私案とかでも提示してくれればまだマシだったかもしれない。
 若干の私的要望を付け加えるとすれば、「(既存の)社会主義というのはとかく需要を考えないが、スーパーコンピューター任せにしたところで最適需要予測なんてできっこないのではないか? だいいち、自働機械に生身の人間の欲求が読めるわけないじゃないですか! その辺りを中央はどのようにお考えですか?」といった問題意識。 晴れて(?)自由の身となった筆坂氏なら、右顧左眄の必要なんかなく、自説述べられるんじゃないかな? 入党前は三和銀行マンだったわけだし、何らかの問題意識は持っていると思われる。

 それはそうと・・・。
 話の筋を戻しましょう。

 どうしても、氏の言うところの「プライドを取り戻したかった」というのが氏の本心なのであれば、リベンジ心に理性を失ったまま出版を急ぐことなしにもうちょっと慎重に、良心的な編集者のいそうな出版社(ここでは具体的出版社名は差し控えるが。)をじっくり探した上で、筆坂氏がとくに重視したい論点、識者により見解の分かれそうな論点、論争を喚起しそうな論点、言及すべきでない論点を冷静に精査してからでも良かったのではないか?とも感じた。
 真に優れた編集者ならば、政党本部という一種の閉鎖社会の中にあって幹部を務めた筆坂氏の、幹部活動を通じて育まれたであろう問題意識や文筆上の持ち味(しかし、氏の真の問題意識が何なのか、ぼくにはわかりかねるが。)を引出しうるかもしれないし、執筆前にリファーしておくのが望ましいと編集者が判断しうる、党外の適切な専門的資料(?)の提供だって受けられたかもしれない(当然、これも慧眼な編集者にしかわからないかもしれないが?。)

 それから2週間後、さりげなく数ヶ所の書店をチェックしてみた。するとどうだ、2週間前に、販促垂れ幕と共に25冊の「山積み」状態だった筆坂本が、僅か1冊を残して完売していた。

 サッカー週刊誌をレジで精算しつつ副店長に水を向けてみたところ、こんな答えが返ってきた。
 「あぁ、あの本ですね。売行きには、実のところ私らも驚いている状態なんですよ。政治家ものというとこの国では不人気なのが相場でしたしね。平成になりたての頃は石原さん森田さん共著の『ノーと言える日本』、湾岸戦争以降でヒットしたのは、ハマコー(浜田幸一)さんの本と、1992~3年頃に出た小沢一郎さんの『日本改造計画』ぐらいだと思います。記憶のかぎりでは鳩山さんの本も舛添要一さんのも伸び悩みましたから・・・、ハハッ、まぁでもこちらとしましては実に久々の嬉しい悲鳴なんですけどね」と喜びを隠さない。

 長年のおつきあいなのでなおも聞いてみる。「通常ですと、最後の1冊がはけた(売り切った)段階で追加(注文)入れるんですが、筆坂本はそうじゃないんです。大学生グループなどから30冊まとめて注文したい、などと電話いただいたりしまして(聞いたぼくも驚いた!)。なんで売切れなんだ!とクレームいただかないうちに適正冊数入れるようにしないとならないという経験なんて、滅多にないですし」
 「これ言うと語弊あるでしょうけれど、(共産党の)議席数(の低迷)と反比例してるようなので、私らも、なぜだ?ってうわさしてる状態でしてね。だってゴシップものとはいえオカタい政治本でしょう?」
 バイトの女子大生氏は一足早く読了したとみえ、この日、送り届けられたばかりの梱包ダンボールの荷解き作業をしながら、「えっ、店長。それってセクハラ事情が吐露されてるからじゃないんですか? まさか《アノ清潔な共産党》が、って固定観念お持ちの人にはインパクト、確実にあると思いますヨ」とニヤニヤしつつ雑談に割って入ってきた。

 彼女とはもうかれこれ約3年、互いにコミュニケーションする仲なので、(お粗末ながら)しばし政治放談になった。「ゼミの友人も、普段は政治談義なんて“アウトオヴ眼中”(無関心)なのに、最近なにげに様子違うんですヨ。俄かに“本の虫”モードづいちゃってる子、アタシの周りでも結構多いし」「でも、ウチの助教授にはなかなか通じないんですヨ。《その本出してる出版社は、昔、写真週刊誌で売ってたところではないか? 本学の学風に相応しからぬ本は持ち込まぬように》なんて気取っちゃってるしねぇ」とあけすけ。

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 あまり雑感にすぎる(脱線です)のは見苦しいので、瑣末なやりとりはここまでとしたい。
 さて、最新の某社の売行きカウントによると、筆坂本の「増刷り」は早くも「第7刷が増刷中」だとのことらしいのだ。やはり、この分野としては異例ずくめと言っていいのかもしれない。

 それで、これはその後ぼくらが ハッ!と感じたことなのだが、「もしや」とも感じるので記しておきたい。(前述の《まとめて一括注文・・・云々》という客はさておき、)山積みの筆坂本が異様な売行きを続けているその要因、本当はひょっとしたら、学生を装った党員青年を、党機関が動員しているのではないか?、党外一般人の衆目にふれたり売れることを恐れるあまり、県党や地区党の青年専従者辺りを動員(?)して、「とりあえず、店頭にある分だけは」と・・・。 
 類似の先例は、有田芳生氏の時にうわさを耳にしたことがある。1990~91年頃有田氏が出版、且つ、それを以って党規約に違背した(つまり、党員であるのにかかわらず、組織問題を党外一般向けに公表した)と宣告され、除籍処分を受けたとされる問題作、インタビュー集『日本共産党への手紙』(日本文芸社?)の時期だが、都市部での党事務所近くの比較的大きな複数の書店の店頭から、有田本が「すごい勢いで消えた」と囁かれていたのを思い出す。オカタい政治ものにしては、実に不思議ではあった。当時はゼミ仲間の間でも話題になった記憶がある。

 書店バイト経験の豊富な党員師弟のW君によると、「そう言えば、当時、平積みの有田本の表紙を隠すように別の本を覆いかぶせる、不審な動きの人が居たなぁ・・・、不審者の年齢は26~7歳にみえた。で、気になったんで店長に通報したわけ。指示されて系列チェーン店に照会してみたら、《なんだ、そちらもそうなの? 実はウチも不自然に有田本が覆い隠されてたことが一度ならずあったんだ》という返事だったので、組織的計画的なものなのかなぁ・・・と。別に万引き被害に遭ったわけじゃないけど気分悪い。 ちょうど、横田濱夫著『はみ出し銀行マンの勤番日記』がベストセラーになった時期と符合するけど、横田さんの本も某銀行が行員を動員して店頭からゴッソリ買上げたといううわさが首都圏某エリアでしきりに流れてたんだ。とにかく不気味悪かったよ」 とのことだった。

 今年は、有田本初刷りから約16年後、ということになるが、いまだにそんな古典的手法を弄してまで筆坂本封じを敢行しているのが、「万が一にも」本当だとしたら、呆れると同時に、最悪の場合、関係書店から営業妨害容疑で訴えられかねないと思うが、如何なのか? 
 いずれにせよ、これが単なるうわさ、杞憂の類いであって、つまらない穿ち過ぎでしかないことを希う。

 わが国には曲がりなりにも言論・出版の自由が(最近、かなり怪しいし危機的だが。)存在する。平和憲法は少なくともぼくら一般国民にとっては押し付けられたものではない、断じてない。第9条平和主義をはじめ、13条、25条、99条など、先人達が生命を賭けて闘いとって勝ち得た多数の権利が平和憲法の各条項に詰まっている。言論・出版・結社・団結の自由も論を俟たない。

 健全か否かはさておき、筆坂本よりもはるかにどぎつい暴露本を楽しみにする向き(階層)も一定程度存する(需要がある)。その出版(ここでは筆坂本のそれ。)を容認することが風紀紊乱や公序良俗に「著しく」反したり、あるいは、特定個人のプライヴァシーを侵すと疑うに足る(誰がどのような手続を経て何を論拠にそれを判定しうるのかが問題だが。)、相当な理由があるとは、現時点においては大方の党外一般人は感じていないと思われる(そもそも、セクハラ被害者女性のご氏名はもとより、容貌も年齢も所属も住所も、わからない。チークダンスを共にしたとされる筆坂氏の脳裏ぐらいにしかないのかもしれない。)。

 筆坂氏にも軽率な一面があったと感じるが、だからと言って、もし党が、仮に、筆坂本の発禁処分を「ぜがひでも断行しなければ」と思い詰めるようになったとしたら、誰もが「ここは北朝鮮や旧ソ連ではありませんよ。合法的な法廷闘争で仮処分申請でもおやりになるしかないでしょうね」と答えるしかないと思う。「ところで、かのような本の出版に彼を駆り立ててしまった組織的な遠因は、あなた方中央の側にあるのではないですか? 彼にかぎらず首を切って、《ハイっ、これで一件落着》とされた過去の何人かに対する姿勢、それに処分者が出るたびに内部的引き締め・無用な監視が強まってはいませんか? もののついでに言うけど、青年世代に笑顔がないのは党が息苦しいことの証左ではないのですか?」と指摘する人も当然おられるかもしれないが。

 また、それらに比べてもより一層低劣(とされる)出版物の類い、これこそ枚挙に暇(いとま)がないが、いわゆるC級本や合法的官能本とかの類いが、民度を貶める、青少年の性欲を徒らに刺激する、などと(女性ならば「見たくない権利」の侵害か。)言い張り、「そんなもん、存在してはならない。発禁にせよ」というのであれば、旧共産圏や独裁諸国でなら可能でしょう、と言うほかないだろう。「思想汚染の撲滅」なる薄気味悪いスローガンとか、異常なまでの文化的潔癖性の称揚とかの類いは、一党独裁の政治風土や恐怖政体のもとでしか花開かない、とは、とある偉大な故人の名言である。