さつきさんからの5・21付一般投稿欄への投稿に対して、6月5日付で簡単な返答をしましたが、その後「組織論・運動論」欄に、21か月ほど前の私との議論に関連して、かなり詳細な投稿がなされていることに気づきました。
現在の私には、さつきさんのこの投稿を全面的に検討して、自分の見解を詳細に伝えようとする心理的又は時間的余裕がないのですが、最低限、さつきさんの6・4付投稿に対する「感想文」のような格好で、私の意見を述べておかないと、このサイトの訪問者に対して不親切だと思い、「不完全なお答え」を投稿することにしました。
>ほぼ同世代として(若干私が下ですが)学生党員生活をおくり、その後離党するという経験を共有する以上の、樹々の緑さんとの間に「考え」の共通性を見いだし、うれしくもなっていたのでした。にも関わらず、私たちの間に少しばかりの感性の違いが生じるのは何故なのか、ことのついでに考えてみました。
私は、主としてこのような観点から、お答えをしたいと思います。
「私たちの間に少しばかりの感性の違いが生じるのは何故なのか」、それは、いみじくもさつきさんご自身が言われているように、あなたに「法律の条文も自然科学の論文もすべて『文学』として読んでしまう」感性的傾向があるのだとすれば、たぶん、それがいちばん大きな違いの原因だろうと、いまでは感じています。私は、どちらかというと、さつきさんの原子力問題に関する議論を拝見して、「自然科学者」のイメージであなたのことを想定していました。
私は「文学」にはまったくの素人ですが、法律は、それを作ったり権利を主張したりする人にとっては、心の中に「文学的」熱情があったとしても、スキル=技術としては非常に「実用的」なものである(それに徹しなければならない)と言えるでしょう。「気持ちの問題はとりあえず横に置いて」分析・検討をするのです。分析・検討の「動機」になっている文学的な熱情が強ければ強いほど、そうしておかないと思わぬところで足元を掬われてしまうからです。そうした心理的傾向が、たぶん私にも濃厚にあると思います。
とくに、「人道」などという、元来「文学的」とも言える用語を使うときには、あらかじめその定義をかなり厳密にしておかないと、議論が道徳的な非難合戦になってしまいます。
そして、今回のさつきさんの投稿でも、いちばん感じられたのは、自分としてはずいぶん強調して念を押していたつもりだったのですが、この「人道」という語の意味について、ほとんど伝わっていない、ということでした。
それは、もちろん、私自身がこの問題に「法律的(国際法的)に」検討を加える過程で、自分が学んだ経験がある法律知識を、かなり無前提に「議論の共通の土俵」にしてしまったことにも原因があります。そのことは、あなたの5・21付投稿に触発されてなされた愚等虫さんの投稿で、はっきりと自覚できました。
それは、さつきさんも引用されている、私の次の文に関係しています。
>私はこの「人道」を、「人道(的)問題」というように使っていますが、それは「国際法上の諸原則を厳密に適用するとさまざまな先決問題が生じる場合でも、これを前提としないで解決できる問題」という意味です。
この点に関する私の理解(念押し)が、どうしても伝わっていない、そう感じます。結論的な命題として、言い直すと、
朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と略称する)政府と日本国政府との間で、植民地支配・戦争責任に関する賠償その他の合意を、「国家間の戦後処理」として正式に行おうとすると、「国家承認・政府承認」という国際法上の難問を、どうしても先に又は少なくとも同時に、クリアしなければならない。つまり、この課題は「国際法上の諸原則を厳密に適用するとさまざまな先決問題が生じる」課題なので、「人道問題」ではありえないのです。なぜなら、「人道問題」とは、「国際法上の諸原則を厳密に適用するとさまざまな先決問題が生じる場合でも、これを前提としないで解決できる問題」だと定義されているからです。問題の内容が「人の道」に関わるかどうかとは、一切関係がありません。
私は、原則として、これ以外の用法で「人道問題」という語を、使ってはいないはずです。
さつきさんがいわれる、「日朝国交正常化」とは、いま述べた「植民地支配・戦争責任に関する賠償その他の合意を、『国家間の戦後処理』として正式に行」うことを必須に含む、日朝両国間の外交関係の樹立だと理解しています。だから、人道問題として解決することはできないのです。
そして、このような、「国家・政府承認」という先決問題が障害として立ちはだかる問題(日朝国交正常化問題)と、拉致問題とを、「一体的に解決する」ということになると、結局、性質上先決問題が障害とはならない人道問題としての・拉致問題の解決にまで、新たに解決の障害を作り出すことになる、と私はいっているのです。だから、「両問題を一体的に解決する」という主張は、拉致問題を個別に解決できる(=個別的解決に何の国際法的な障害もない、相手方を「国家・政府」として承認しなくても解決するに国際法上の支障がない)メリットを台無しにするといっているのです。
「法理論的にはそうであっても、常識的に変だ」と思われるかも知れません。しかし、その場合の「常識」が曲者です。
「『国家間の戦後処理』として正式に」、と書きましたが、これは、法的な戦争状態・植民地支配状態を終結させ、相互に国家として認め合いつつ、従前の諸関係を最終的に終結させる合意です。したがって、合意の相手方を「国家として認めるか、さらに当該国家の正統性ある政府として認めるか」という問題について、曖昧にしたままで合意することは、国際法上許されません。「国家として、あるいは正式に人民の代表権を有する政府or組織として認めていない者との間で、戦争等に関する国家責任について終局的に処理の合意を行う」ということが、非常識であることは、法律の素養がなくても理解できるのではないでしょうか?
それは、スーダンのように内戦状態にある国の一部の武装勢力との間でだけ、周辺諸国が国際的な和平協定を締結するようなもので、そんなことは誰もしません。そんなことをしたら、武力紛争に介入し新たな紛争の火種を作ることにもなってしまいます。実際にもAUは、武装勢力の全てとの合意を図るべく、努力を重ねていると思います。
そして、さつきさんが引用された1965年の日韓基本関係条約第3条は、「大韓民国政府は、(中略)朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」と定めており、しかも北朝鮮と大韓民国(以下「韓国」と略称する)の国内法によれば、それぞれ、相互の実効的支配領域は、他方の領土だとされています。そうした事実の由来に日本国が責任を負っているかどうかとは関係なく、これを前提として、「日朝国交正常化」は図られねばならないのです。朝韓両国が、国連に同時加盟している現状の下では、軍事政権下のような厳しい対立は影を潜めていますが、国際法的には、この問題をどのように処理するのかを差し措いて、国交正常化はできません。これも「常識」だと言えるのではないでしょうか。
このことと、1990年代から日本国内で行われている、元従軍慰安婦らによるいわゆる「戦後補償裁判」に対する日本政府の態度とは、別個の問題であることにも、注意を喚起したいと思います。
これは、かなり法律的な議論になるので、きちんと説明するかどうか迷うのですが、これらの原告の請求は、国際法(国際公法)上の国家ないし政府による(これを原告とする)請求としてなされているものではなく、個人による請求(他方当事者=被告は日本政府という国家や、鹿島等の日本企業ですが…)であることが、基礎的認識として重要です。
これは、国際私法(いままで述べてきた国際法とは異なる概念)における損害賠償請求であり、少なくともわが国の裁判例では、未承認国家に属する人民でも、適法になしうる請求だとされているのです。また、このような未承認国家の「国民」(法的には、当該「国民」ではなく、単なる「外国人」-日本国民でない者が「外国人」と定義されている。国籍法第4条第1項-です)であっても、日本国が国内法を制定して、これらの者に対して一定の補償ないし損害賠償を行うことは、何ら妨げられません。すなわち、国家・政府承認の問題とはリンクせずに、「国交正常化」とは無関係に解決できる問題だという意味では、やはり「人道問題」だと言えます。
上の記述からもはっきりと解ると思いますが(是非そうあってほしいのですが…)、「解決できる問題」という時の「できる」とは、「国際法に由来する障害がない」という意味に尽きます。したがって、さつきさんが問うておられるような、「『実践的に可能』という意味なのか、『そうすることが是認される』という意味なのか」のどちらでもありません。
「国家として、あるいは正統政府として、承認するか」という問題と切り離して処理できる、そういう意味で「人道問題」であるから、「国交正常化とは切り離して解決できる」のです。これによって、例えば政府間交渉においても、「国交正常化に関する合意が成立しなくても、この問題を個別的に処理できる」ことになるのです。問題の性質がそのようなものなのに、拉致問題の原状回復を国交正常化の合意成立と同時解決(リンク)させようとすることは、他ならぬ「拉致カード」という外交術を使っていることになるのです。その法的根拠はありません。
こういう、一風変わった用語法の背景には、もちろん倫理的な意味での「人の道」=人道があったと思います。その典型が、北朝鮮に対する食糧・医薬品援助です。しかし、そのことと「人道問題」という国際法上の用語の意味とは、明確に区別しなければなりません。
そして、こういう「人道問題であること」のメリットは、日本人拉致問題ばかりではなく、日本国内における「戦後補償裁判」の妥当な解決についても同じです。
私が、以前に「戦争責任・植民地支配責任」について解決する、といっていたときに念頭に置いていたのは、国家間の「戦後処理」としてのそれであって、個々の個人からの請求を念頭に置いていたのではありません。さつきさんとの議論では、あくまで「日朝国交正常化」との関連で「戦争責任・植民地支配責任」を論じていたと記憶していますが、この点誤解があったのなら、ここで再度明らかにしておきたいと思います。
この点をもう少し説明すると、例えば、連合国の多数と日本が「国交正常化」した1952年発効のサンフランシスコ平和条約第19条(a)項で、日本国は、連合国に対する一切の戦争起因の請求権を放棄しました。その規定は、次のようなものです。
>日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。
これによって、当時の国際法(軍事目標主義を定めたヘーグ陸戦規則や、セント・ペテルスブルグ宣言等)にも反して残虐な無差別爆撃を行ったアメリカによる広島・長崎への原爆投下による被害者の、不法行為に基づく損害賠償請求権や、近時では、東京・大阪大空襲による被害者の損害賠償請求権は、放棄されてしまったと解されていました。それは、言ってみれば、このような損害賠償請求権も、一個の債権として国民に帰属する「財産権」である以上、国家の支配作用として対外的に処分できる(本当は、仮にそうだとしても憲法第29条第3項によって、「正当な補償」が必要なのではないか、という疑問がありますが…)、ということです。だから、1960年代の原爆裁判では、日本国政府が不当に(無償で)放棄してしまった被爆者の請求権に相当する損害賠償を、行為者本人であるアメリカ合衆国にではなく、日本国政府に対して求めたのです。
これに対し、中国国民諸個人によって前述の戦後補償請求がなされていることについては、1972年の日中共同声明第5項において、「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」主体が「中華人民共和国政府」とされていることから、サ条約第19条(a)項のように、必ずしも中国国民の個別的請求権まで放棄した趣旨ではないと解されることが、一つの有力な手がかりとなります。
そして、これらに対して1965年の日韓基本関係条約に付随する日韓請求権協定が、第2条第1項で「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されるものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。」と定めていることから、元韓国従軍慰安婦による損害賠償請求にあたっては、中国とは異なる(日本の被爆者と同じような)障害があるのです。
しかしです。何れにしても、日本国政府が、これらの個人(日本人であれ、中国人であれ、韓国人であれ、「朝鮮」籍外国人であれ)に対して国内特別立法を行って、実質的な損害賠償に応じたり、裁判の場で、被告として請求を認諾することは、これらの請求権条項の趣旨に反するものではないので、そのことに国際法上の障害はないと言えるのです。
ですから、この問題を日朝間でも「国交正常化における戦争責任・植民地支配責任の最終処理」とは別に、「人道問題」として交渉のテーマとすることには、私も異論はありません。しかしこの論点は、論題の本筋から外れていると考えています。
それとも、さつきさんは、ここで新たに、「個人的請求に関わる戦後補償問題と一体でなければ、拉致問題は解決すべきではない」とでも主張されるつもりなのでしょうか?
それならば、私は反対です。そして、日本政府が率先してこれら戦後補償問題を解決して「範を垂れ」ない限り、拉致問題の解決は促進されない、という硬直した判断にも、同意できません。
というのは、拉致被害者の原状回復は、北朝鮮政府自身の管理下にある被害者の身柄解放の問題である以上、日朝両政府間での交渉テーマとならざるをえないものですが、個別的請求権問題は、個々の個人と日本政府との話し合いで(すなわち、拉致問題と違って北朝鮮政府を介在させずに)解決できるということが、「人道問題である」ということの本質だからです。
また、たとえ北朝鮮籍(現在日本国内に存在する在日コリアンに、「北朝鮮国籍」の人間はいません。未承認国家だからです。韓国籍でない「朝鮮」籍の在日は、法的には無国籍者である「外国人」です。そのことの当否はさておき。)の被害者であっても、政府間交渉で初めて「請求権」が認められるというわけでもないからです。そして、もしも、北朝鮮政府が、「朝鮮」籍在日等に対する補償を「外交的保護権」の行使として求めるならば、問題は途端に、「国家・政府承認」の問題にリンクしてしまいます。外交関係にない国家から「外交的保護権」を行使されるいわれは、国際法上はないからです。
そしてさつきさんはさらに、「道義的に日本政府の方が戦後補償問題を先に解決して模範を示すべきだ」ということの根拠として、
>6.日本政府は、改めて「歴史の清算」を行い、朝鮮民主主義人民共和国側に拉致事件の「解決」の手本を示すこと。
上記要求の第6項は、かれらの原則的立場をはっきりと示すものです。
といわれています。これは、高槻むくげの会他の声明が、
> さらに、見落としてはならないのが、北朝鮮側が「開き直り」の論拠を、日本の「過去の清算」に置いている点だ。
(中略)
2.朝鮮民主主義人民共和国は直ちに拉致被害者の原状回復を計ること。
といっていることをどのように理解した上での主張なのでしょうか。上記在日の声明の全体の趣旨は、両者の何れの一方を先決問題とすることなく、ということだと思います。「過去の清算をしていないから」という北朝鮮政府の主張が「開き直り」として糾弾されるべきものであり、拉致被害者の原状回復を「直ちに」図るべきものならば、上記引用の第6項を、「道義的に日本政府の方が戦後補償問題を先に解決して模範を示すべきだ」という主張として読み込むことは、誤読だといわざるをえません。畢竟、さつきさんご自身の見解として妥当かどうか、ということだけが問題です。
そして、このように、私にしてみれば、従来論題でもなかった新しい問題を「これは、人道問題ではないのか」と提起するさつきさんの姿勢は、結局どこから来ているのかというと、私自身が定義している「人道問題」という言葉を、無理やり道義的問題に(悪くいえば)スリ替えてしまうところから来ているのだと思います。それは、私に言わせると、あなたの中に、無意識に贖罪感を優先させている傾向があるからではないか、と感じるのです。余談ですが、そうした点に私が、誰との類似性を見出していたのかといえば、有島さんではなく、寄らば大樹の陰さんです。もっとも、誠実さという点では、かなり隔たりがあるとは思いますが…。有島さんの論調には、どちらかというともっと第三者的な皮肉のようなものを感じておりました。
なお、交渉において「実践的にどうするのか」という問題については、相手のあること・状況に多大に依存することなので「ケース・バイ・ケース」としかいいようがありません。「どれかを先決問題や同時解決問題とはしないで柔軟に状況に応じて」としかいいようがないのです。
そして、ここで大事なことは、さつきさんと私が、21か月前に議論していたのは、あくまで拉致問題の解決策として、「拉致問題の個別的解決をめざすのではなく、『日朝国交正常化』と一体として解決すべきだ」という主張の当否だったはずです。
私は、拉致問題自体の解決策としては、本田さんに次のように述べていました(2004年8月16日付投稿)。
> もちろん、今回日本政府が決定した、人道的食糧・医薬品援助についても、その物資の流れを、厳密に追跡する必要はあると思います。政権側で物流を担当する人民軍幹部等が、援助物資を横領等して商売をしているという疑いも指摘されているからです。その点で、単に国連の出先機関だけでなく、現地に入っているNGOの協力も、日本政府は求める必要があるのではないかと思っています。
> しかし、そうした対民衆援助の実効性確保における困難にも拘らず、工夫を凝らして、現に北朝鮮の民衆が陥っている窮境に援助の手を差し伸べ続けること、これを通じて北朝鮮の抑圧された民衆に連帯のメッセージを送り続けることこそが、一見生温い方策のように見えて、実は、拉致問題を自分たちの狭い利害を護る「拉致カード」として存分に使っている金正日政権への、痛烈な打撃になるのではないでしょうか。誰が一番民衆のことを考えていないかを、白日の下にさらすからです。
注意してほしいのは、上記引用中の「人道的」という言葉も、「国家・政府承認とはリンクしない」という意味で使っていることです。
今回、さつきさんの引用で穀田恵二氏の「拉致問題に関するアンケートへの回答にかえて」という文書を、初めて知りました。
そこで、これに関して是非指摘しておきたいことは、引用で見る限り、この文書中の主張には重大なゴマカシがあるということです。
それは、1990年代の交渉と、2002年10月以降の交渉とを、まったく同列に置いて、単なる時系列の先後関係のみで論じていることです。その上で、「拉致問題の解決を交渉の前提として固執する態度では、日朝間の問題の解決をさぐるための交渉そのものを閉ざすことになり、不幸な過去の歴史の清算はもちろん、拉致問題そのものの解決をも遠ざけてしまうことになったのです。」と総括してしまっています。
90年代の北朝鮮の態度は、拉致問題そのものが「でっち上げであり、そのような問題は日朝間に存在しない」というものでした。しかし、2002年9月に金正日国防委員長が、自ら政府機関の逸脱行為として認めてからは、その原状回復が議題になるのは当然です。日朝平壌宣言で、少なくとも公式には、「交渉ルート」は開いたはずだからです。それを、あえて具体的状況や当事国政府の態度に変化がなかったかの前提で語るところに、穀田恵二氏の文書のゴマカシがあると思います。さつきさんは、金正日氏がそれまで「存在しない」としてきた拉致問題を自認するに至った背景には、日本政府の主張や被害者の運動がなかったと思っておられるのでしょうか。
さらに、「さざ波通信」第29号の記述がいつの時点のものか知りませんが、「北朝鮮側も拉致問題を頑としてみとめず」といっている以上、2002年9月以前のものであることは明白でしょう。
>その上で、交渉が当事者の歩み寄りによってしか成立しない以上、一方の日本政府が拉致問題を厳しく追及しさえすれば早期に解決したかと言えば、そうではないだろう。そのことは視点を北朝鮮側に移してみれば明らかであろう。北朝鮮側は、日本に対して賠償問題について厳しく追及してきたが、半世紀を過ぎても何ら解決していないのである。
という記述を、さつきさんは、
>「双方が歩み寄ること」を「日朝国交正常化」と捉えれば、これらの主張は、後で述べる「北朝鮮を追いやった論」に基づくものではなく、あくまで実践的解決をめざしたものと思われます。
という根拠づけに使っています。
率直に言って、この「論理の飛躍」にはついて行けません。
「『双方が歩み寄ること』を『日朝国交正常化』と捉え」ることが、上記「さざ波通信」の記述から、どのようにして導けるのでしょうか? 「双方が歩み寄る」ことは、全ての外交交渉において必要なことです。特定の「日朝国交正常化」だけに必要なことではありません。しかし、ここで問題となっているのは、そのような一般的な「歩み寄りの姿勢」ではなく、拉致問題・戦争責任問題等々について、個別具体的に、当事国政府にそれがあったか、ということではないですか?
そして、さつきさんがいわれる「歩み寄り」とは、拉致被害者の原状回復については、いったいどのような具体的内容になるのでしょうか。例えば、「拉致被害の全容を明らかにすれば、あと2年は原状回復を待つ」というようなことですか?
また、「国交正常化」という概念は、国家・政府承認を含む外交関係の樹立、という、特定の内容を持つ国家間関係における事象を指す言葉であって、さつきさんの用法のように、捉え所のない概念ではありません。
さらに、私が主張した「北朝鮮を追いやった論」とは、「日本人拉致や国内的恐怖政治という現象がなぜ起きたのか」という「問い」に対する答えとして示される一連の論理を指していることは、明白ではなかったでしょうか。それは、
> このような、内外ともに凶暴かつ異常な政治が行われている原因の有力なものとして、さつきさんはどうやら「拉致とは比べものにならないくらい非人道的で凶暴な日本の過去の侵略とその後の米国と一体化した敵対政策」があると、お考えのようです。(2004年10月7日付投稿)
と私が論じていることからも、明らかだと思います。同じくまた私は、
> さらに言えば、さつきさんは、だから、個々の行為である北朝鮮による日本人拉致事件だけを取り出して非人道的であると非難はせず、これに先立ってこれを誘発した日本の過去の侵略等と「関係づけて」、両者を一体のものとして扱う、とされているわけです。
> そしてその上で、いわゆる拉致問題と日朝国交正常化とを「切り離して」解決しようとする立場は、このような関係を見ない「人の道に反する」ものだと結論づけられているわけです。
> これはおそらく「左翼」を自称する論者によってかなり広く挙げられている、「拉致事件解決と国交正常化とを一体化すべきである」という主張の根拠(いわゆる「北朝鮮を追いやった」論)だと思いますが、納得し難いことです。
といっていることからも明らかだと思います。
つまり、さつきさんが今回引用される文脈である、「日朝両国間の交渉がうまく行ってこなかった原因」について検討したものではありません。こっそり他国民を拉致するような国が、そのような拉致行為自体を行った原因と、被害者の国籍国との「交渉」の席上で拉致をなかなか自認しなかった理由とは、リンクしません。一般的にいって、自国の不当な行為を被害国に対して率直に認めることは、どんな国であっても困難だと言えますが、他国民を拉致しないようにすることは、どんな国であっても困難だとまでは言えないからです。
「さざ波通信」編集部の立場が、上記私がいう「北朝鮮を追いやった論」なのかどうかは、ここでの論題ではないと思います。「誰か他の人も同じようにいっている」ことは、率直に言ってどうでもよいことです。
これに関連して、さつきさんは、私が、現北朝鮮政権が「正気を無くしているとは思わない」としたことについて、
>これは、私が一言で「正気を無くしている」と書いたことを、「非常識」で「特殊」で「異常」と言い換えただけであり、その意味は、彼らの本質が変わらない限り、人間としての常識的な言葉が通じぬ相手であるということと同じです。
と述べられています。私の上記記述の背景にある考え方は、最近、こどもをマンションの高層階から投げ落すような「異常な」犯罪が行われたりしていますが、その犯人が「正気を無くしている」とは思わない、ということと同じです。
何が問題なのか。さつきさんが「正気を無くしている」といわれたのは、北朝鮮政権を「弁護する理由」としてだと考えています。戦後長い間、日本政府が、アメリカに追随してひどい敵視政策を実行してきた、だから北朝鮮が「正気を無くして」拉致というとんでもないことをしでかしたとしても、その原因も割り引いて考えなければならない、という風に、さつきさんは主張しておられたのではありませんか?
ですから、決して「言い換えただけ」ではありません。さつきさんがいわれるような敵視政策はその通りですが、それが北朝鮮政府の行為を「割り引いて」考える根拠とはならない、むしろ、彼らは、そのような因果関係によって、いわば心理的なプレッシャーからやむを得ず拉致を実行したのではなく、非常に怜悧な計算によって実行しているのだ、そこに弁護する余地はない、ということです。
また、さつきさんは、北朝鮮による拉致の実行が「旧『社会主義』国家における普遍的な現象にむしろ起因する」とした私の主張に対して、「旧『社会主義』国家に普遍的なものであるとは考えていません」と反論された上で、「それが普遍的な現象であると考えるのであれば、例外のないことを示さなければなりません」といわれています。これは、言葉尻を捉えた、言い掛りに近い言葉です。
私は、一昨年10月7日付投稿で、次のように述べています。
> ささやかに暮らしている日本の民衆を突如として連れ去り、工作員教育に当らせるという、人間を必要に応じて駒のように動かす発想は、日本人拉致の特殊性を捨象して考えれば、程度の差はあれ、旧「社会主義」国家に普遍的な現象だったのではないでしょうか。歴史的な民主主義の未発達による国民の民主主義的経験の圧倒的不足、実質的一党独裁制の中での「民主集中制」による民主主義の形骸化・建前化こそが、これら一連の異常な政治の根源ではありませんか?「拉致問題」も、そのような政治の一環として、起るべくして起きているのだと思うのです。
私がここで「程度の差はあれ、」と断っている以上、むしろ、ベトナムやキューバには、決して「人間を必要に応じて駒のように動かす発想」など存在しない、と、さつきさんに示していただきたいのです。
また、私が「旧『社会主義』国家」といっている以上、それは、「ソ連・東欧の崩壊」で政権が崩壊した国家を念頭に置いていることは、読めば分ると思います。ベトナムの「ドイモイ」などは、そうした「普遍的な」問題を政権担当者が感じているからこそ、行われているのではありませんか? つまり、そういう意味では、「程度の差はあれ普遍的」なのではありませんか?
>現在の北朝鮮においても、権力の中枢にいた少なくない数の高官が「脱北」してその異常さをなんとか糾そうと努力していることを見ても、
「脱北」してからでないと、その「異常さ」を糺すことができない社会が問題なのです。しかも、その政府が、公式に国際人権規約B規約を批准していることが問題なのです。
民主主義の実質的保障の問題、それは、言論・表現・思想・結社の自由の問題として、優れて人権の国際的保障の問題なのです。それが名目(ほとんどが国際人権規約B規約の当事国でした)に堕していた、そこに旧「社会主義」国家の共通の(=普遍的な)病根があった、それがいわゆる「ソ連・東欧の崩壊」を招いた、という風には、さつきさんはお考えにならないのでしょうか。
> それでは過去の未清算に対する「償い」はいつ実行するのでしょうか。「非常識」で「特殊」で「異常」な国に住む人民に対しては「償い」など必要ないということでしょうか。「人の苦しみは、それを見た者に義務を負わせる」という言葉、この言葉に共感すればこそ、強制連行、強制労働、従軍慰安婦などの歴史を知った私たちは、実に多くの義務を負っていると考えます。そうこうしている内に、実質的な被害者は寿命を迎えます。不幸な目に遭った人々が、日本国籍を有していることと、北朝鮮国籍を有していることにどれほどの意味があるでしょう。日朝国交正常化を通してのみ、拉致問題と戦後補償の問題の両方が同時に解決できる道を開くのではないでしょうか。
これも、言い掛りの最たるものだと感じます。
私たちはいったい、何を議論していたのでしょうか。もう一度立ち返って下さい。
「日朝国交正常化を通してのみ、拉致問題と戦後補償の問題の両方が同時に解決できる道を開くのではないでしょうか。」とあなたはいう。
ではなぜ、「同時に解決」しなければならないのですか? それが問題だったはずでしょう?
「国交正常化」をしなければ、どうして拉致問題が解決できないのか、「解決」の中心問題は、「被害者の原状回復」ですよ。現に、国交正常化しないでも、曽我ひとみさん、蓮池、地村両夫妻は、立派に「原状回復」されているではありませんか。それだけを見ても、「同時解決を志向しなければ、今後の拉致問題の解決への進展はない」と言い切れますか? 百歩譲って「実践論」だとしても、逆に、「国交正常化」することが、拉致問題の全面的解決の保証を与えると考える根拠は、何なのですか?
問題の性質が、「できない」のではない。それは、個人に対する「戦後補償」も同じですよ。ただ、個人に対する「戦後補償」は、北朝鮮政府と交渉する必要はないのです。直接に請求権を認めればいい。その日本国内での立法化運動もやるべきでしょうね。何といっても、裁判闘争では「除斥期間の壁」は非常に厚いからです。しかし、拉致被害者は、北朝鮮政権の支配下にある以上、その解決のためには、必ず北朝鮮政府と交渉せざるをえないのです。
間違ってほしくありませんが、「同時に解決」したっていいのですよ。なぜ「同時解決」に固執するのか、そこが問題です。「国交正常化」と「拉致被害者の原状回復」とは問題の性質が違う、とこれだけ説明しても、「人道問題」という言葉の意味をシフトさせて行ってしまい、論点がスリ替わってしまう、それでは、まともな議論はできません。
以上、思いつくままに、簡単に見てきました。
さつきさんが、これをいまになって、未完成なままで投稿された意図を訝しく思うものですが、総じて感じることは、さつきさんと私の「ソ連・東欧の崩壊」に対する、あるいは現代中国や北朝鮮に対する認識の相違です。
それと、「日朝国交正常化」という政治課題に対する、具体的でないふわふわした認識です。