先の投稿は、制約された時間の中で書き殴ったに近いものだったので、書きながら気づいていた論点を、実際に書く段階で書き落としてしまったことが2点あります。そこで、簡単に追加させて下さい。
【追伸第1点】
6・4付さつきさんの投稿・第7項の冒頭で、さつきさんは次のようにいわれています。
> 樹々の緑さんは、「北朝鮮を追いやった」論に絡めて、「人の苦しみは、それを見た者に義務を負わせる」とのポール・リクールの言葉を引用して、現在の北朝鮮の悲惨な情況を救うためにこその人道援助であり、決して、日本政府が過去の植民地支配や戦時加害行為を未清算のままに放置してきたからではなく、「過去の未清算は、この義務をいっそう促進する理由となる地位を持つに過ぎ」ず、「援助は償いではない」と述べられています。
この私の言葉の読解は、率直に言って誤読でしかありません。
まず、「『北朝鮮を追いやった』論に絡めて」という評価は不当です。
再述しますが、「北朝鮮を追いやった論」とは、戦後の日本政府のアメリカに追随した厳しい北朝鮮敵視政策が、北朝鮮政府の拉致実行等の「異常な」行動を誘発した(さつきさんの2004年9月10日付投稿の言葉では「無関係でない」)という、北朝鮮政権の拉致事件や国内的恐怖政治に至る「原因」「因果関係」に関する、一定の立場を指して、私が作った用語です。
その論点に関する私の見解を、これになぞらえていえば、「旧社会主義諸国における人権抑圧政治の極限形態論」とでも言えるでしょう。ここで注意してほしいのは、私は、この「北朝鮮を追いやった論」「極限形態論」に関連する議論において、単に拉致事件だけの原因として論評しているのではない、ということです。「国内的恐怖政治」についても、同じ原因によるものとして捉えていることが、重要だと考えています。
そして私は、このような拉致・人権抑圧の原因論としての「北朝鮮を追いやった論」に「絡めて」、北朝鮮政府を通じた北朝鮮人民に対する食糧・医薬品の人道援助が「過去の清算ではない」と述べているのではありません。私は、2004年10月7日付投稿の中で、次のように述べています。
> 人民に対する彼らの仕打ちを見ても、その異常性は際立っています。まるで国家全体が、監獄化されているような状態だと思います。このような悲惨な状況に北朝鮮人民が置かれているからこそ、現に力となりうる食糧・医薬品援助(人道的援助)を行い、これを通じて北朝鮮民衆との連帯を図らねばならないのだと、私は考えています。
> 決して、日本政府が過去の植民地支配や戦時加害行為を未清算のままに放置してきたからではありません。それがあろうとなかろうと、「人の苦しみは、それを見た者に義務を負わせる」(最上敏樹『人道的介入』-岩波新書-の中で引用されている、フランスの哲学者ポール・リクールの言葉)からであり、また地理的・経済力的にも、日本がその「義務」を果たす上で最適の立場にあるからです。そのことは、先日参加した旧東ドイツ出身の北朝鮮国際援助活動家マイク・ブラツケ氏の講演会(9月11日・「本当の北朝鮮を知る会」主催)でも、特に強調されていました。過去の未清算は、この義務をいっそう促進する理由となる地位を持つに過ぎません。援助は償いではないのです。
これを読めば分ると思いますが、現状をもたらした原因如何に拘らず、「このような悲惨な状況に北朝鮮人民が置かれているから」という理由だけで、あたかもアフリカの飢餓が国際的援助で救われねばならないのと同じように、人道的援助は行わねばならないのだし、日本は、アメリカやヨーロッパ諸国のような富裕だが遠い国、中国やロシアのような近いが必ずしも富裕ではない国とは違い、「地理的・経済力的に」最適だから、その「人の苦しみを見た者の義務」を果たさねばならないのだ、といっているのです。
しかし、その援助についてさえも、「日本は過去植民地支配によって多大の苦痛を北朝鮮人民に与えたのに、長年に亘ってその清算を放置してきたから、真っ先に援助すべきだ」という、「過去の清算」に絡めて援助の必要性を説く見解がある、それはおかしいのだ、といっているのです。「過去の清算」が完了していても、このような窮状にある北朝鮮人民に対しては同じ援助が必要だ、だから、せいぜい、長年に亘る過去の清算未了は、「人の苦しみを見た者」としての「義務をいっそう促進する理由となる地位を持つに過ぎません。援助は償いではないのです」といっているのです。
ここには、「北朝鮮を追いやった論」との関係は、何もありません。私はここで、「追いやった論」者が、「『過去の清算』に絡めて援助の必要性を説」いているとも言っておりません。ただ、「追いやった論」に立つと、現在の人道的援助の必要性の理解にまで、おかしな見解となる「親和的傾向」があると思っています。事態を「文学的」に見過ぎると、こうした客観性を失った見方に陥りがちである、と指摘したかったのです。
【追伸第2点】
以上述べたことは、次の第2点にも関連します。
さつきさんは、6・4付投稿の第6項の中で、戦後の日韓関係と日朝関係とを縷々述べながら、暗に、そうした不正常な関係が長く続いたことが、拉致(や国内的恐怖政治)にも(原因としてかなり)関係している、と主張したかったのだろうと思います。
しかし、まず、さつきさんは、拉致が日本人や韓国人に対してだけでなく、レバノン人に対してもなされたという事実を、上記「重要な因果関係」からどのように導かれるのでしょうか。日本政府の不当な行為が、レバノン人の拉致にも原因となったとお考えなのですか?
より重大なのは、さつきさんがこの投稿の中で、
>51年のサンフランシスコ講和条約締結後も、同年の、日米安保条約締結をもって、日本は朝鮮戦争への米軍の出撃基地となり、53年7月の休戦協定締結まで続きました。そのことで、北朝鮮にとっては、日本は直接の交戦国ではなかったにせよ、敵国になってしまったのです。
という評価を明らかにされながら、
>韓国は、軍事独裁政権にあったにも関わらず65年6月には日韓条約調印・国交正常化となりました。と、「一応の」という限定詞やかっこ付きでなく述べていることです。
私は、この「日韓国交正常化」とは、内戦の当事者の一方のみとの国交樹立という意味で、決して国交の「正常化」だとは考えておりません。もしもさつきさんが、「日朝国交正常化」ということを、1965年の日韓条約締結と同じような意味で、「内戦当事者の残る他方との国交樹立」という風にお考えなのだとしたら、その認識自体に異論があります。
しかも、ここからが【追伸第1点】と関わるのですが、当時の韓国軍事独裁政権は、前投稿で引用した日韓請求権協定によって、韓国国民諸個人の請求権までも放棄してしまった一方で、「経済援助方式」によって多額の金銭供与・借款供与を日本から受け、それを被害者の救済にではなく「経済成長」に食い潰してしまったのです。
たしか最近になって、前投稿で触れた1960年代日本の原爆裁判と同じような論理で、韓国政府が国内被害者に僅かな補償金を支払ったというような報道があったように記憶していますが、国家間の「国交正常化」という形で「戦争責任・植民地支配責任」を処理しようとすると、どうしてもこうした「本当の被害者救済は行われず、国家が他の用途に流用してしまう」という問題が起こりがちです。
そして、私が危惧するのは、現在、ただでさえ国家財政が破綻しているといわれている北朝鮮政権が、仮に非常に近い将来に「日朝国交正常化」の中で日本政府から莫大な補償・賠償金を取得しても、それは本当の被害者救済のためではなく、金正日政権の延命やその取り巻き連中の飲み食いに不当に費消されてしまう、という危険が大きいということです。
さつきさんは、主として道義的責任の見地からだと思いますが、「過去の清算」を頻りに強調される。その目的は、もちろん、過去の植民地支配によって国家経済の正常な成長が妨げられたということに対する国家的な「償い」ということもあるでしょう。
しかし、その「過去の清算」の第一義的な目的は、何といっても、さつきさんご自身が新たに強調されるに至った、高齢化した個々の被害者に対する現実的な救済にあるのではありませんか?
そうした見地から現状を見るとき、本当にこの政権を相手にして、「過去の清算」などを淡々と進めてもよいのか。「お金が北朝鮮に入った後の問題は、北朝鮮国民自身の自己責任の問題で、日本の民衆がとやかく言うべき問題ではない」という、「内政干渉回避論」的な主張も、もちろん可能でしょうね。
しかし私は、この論は、北朝鮮政治の現状に目をつぶる、無責任な論調でしかないと思っているのです。
北朝鮮「国民」が「自己責任」を果たせますか? あの政治は、北朝鮮の民衆が心から望んでいるものなのですか? 政治的意見を自由に言い、意見や志を同じくする者が結社を形成して、国政に反映する道が、いまの北朝鮮の民衆に開かれているのですか?
観念的に「日朝国交正常化」を強調する人たちは、こうした問題にどのように対処するのか、見解を明らかにすべきだと思います。
注意を要するのは、ここで触れた、北朝鮮の民衆が自己責任を果たしうる条件の整備、すなわち、言論・表現・思想・結社の自由や、国民の参政的権利の保障は、国際人権規約B規約で、締約国に即時実施義務が課せられている事項であり、他の締約国(日本)がその不備を指摘することは、決して内政干渉になったりするものではない、ということです。その論理については、寄らば大樹の陰さんとの先行していた議論を参照して下さい。
だからこそ、昨年8月の国連人権委員会に対するウィチット・ムンタボーン報告などで、北朝鮮国内の人権状況に、非常な危惧が指摘されたりしているのです。その後の国連総会決議でもそうです。
こうした問題を放置したり、わざと見て見ぬふりをして、ひたすら「清算が遅れに遅れているから」という理由だけで「日朝国交正常化」を促進することは、「日韓国交正常化」の愚を繰り返すことになります。