タコ壺学習会とはよく言いましたね。
状況がリアルによく把握できますが、一体いつの時点の話という気がします。30年前にタイムスリップしたような感じがします。
雰囲気としては、60年前のような気もします。そんな筈はありませんね。60年前には、私は軍国主義の雰囲気にさいなまれていましたけれども、貴方はまだ生まれていなかったのですからね。
あなたの文章は格調が高いというのか、夏目漱石風ですね。そんなところも60年前にタイムスリップしたように感じるのだと思います。
意外と現代は、明治、大正の夏目漱石時代に似ているところがあると思います。外に打って出ようとしないで、内部、内部に閉じこもってしまう。ニートの世界はまさに夏目漱石時代とそっくりだと思います。最高学府を出ても、働く口がない。社会が彼を拒否しているというより、彼が社会を拒否している。社会を拒否していても生活できる。「生活できるのになぜ働く必要があるのか」とニートの一人はテレビで語っていました。
>ぼくのエリアでは、綱領学習会が再開されてからほぼ5年になる。講師の開講時挨拶では「青年層向け」が第一公約であった筈であるにもかかわらず、2004年春以降、それはなし崩し的に変更されてしまった。
あんな矛盾に満ちた綱領をまともに勉強している人もいるのですね。学習しなければわからない綱領なんてそもそも何の意味があるのかと言いたいですが、不破氏の書籍を売るための詐欺商法のたぐいに思えます。
>今や青年層はぼくを含め僅か3名のみ(うち1名は、レーニン・エンゲルス・不破氏に耽溺しそれを金科玉条のごとく振りかざし、理論的自己保身グッズにしている某女性青年専従。実は良識派青年層は彼女を “革命裁判所 ”と別称、蔑み、忌み嫌っている。)。
そういう教条主義のコチコチ人間はいますね。60年前の体制派軍国少女を彷彿とさせます。反戦、反戦といいながら、意外と戦争にあこがれているのではないかと私は感じています。専従だから生きてゆけるのですね。
>失礼ながらほかの7~8名は全て50~60歳台という惨憺たるありさま。そのためか、党外では絶対に通じない閉鎖社会用語というか活動家用語(?)とでも言うべき晦渋で奇妙なジャーゴンが以前にも増して飛び交うようになってしまった。
閉鎖社会には間違いありませんね。常識的な人が参加しないということは、惨憺たることではなくて健全さを示していると見るべきだと思います。老人と青年はだましやすいのです。難解な綱領を作ってそれを学習させようとは、不破詐欺商法にひっかかっているのです。いくら勉強したって、矛盾について語らなければ真実がわかるわけはありません。学習しなくてもいい綱領を作るべきだとは思いませんか。
>これから長く生涯学習に集団で取り組むこと自体は有意義だし、熱心にお誘いを受けたし、当初は(少数とはいえ)異論派党員の存在もあってそれなりの魅力を感じたし、脱落することなく受講を続けているが、「このままでは党勢拡大どころか現状維持で手いっぱいではないか」との感を、ますます強くするきょうこの頃である。
現状を維持できればいいですけれどね。官僚主義を瓦解させることが今の時代にもっとも要求されていることだと思います。共産党はその時代の波に取り残されることが出来るかどうかですね。
>学習指定文献の選定プロセスにも、かなり問題があると感じる。学習指定文献の選定プロセス。指定文献は受講年順に『空想から科学へ』『ド・イデ』『ドイツ農民戦争』『政治哲学入門』『綱領を読む(旧版)』『日本改革』『科学の目・・・』『再び科学の目を語る』『中級課程』『北京の五日間』『新・綱領を読む』『党綱領の理論上の突破点について』。そして先月からは『21世紀の世界と社会 ウンヌン』が指定文献(最後の書名はウロ覚えなのですみません)。
なんか、うんざりしますね。「1000兆円の赤字を抱えた日本経済をどう建て直すか」というような本はないのですかね。
>つまり冒頭の四書以外は、不破・宮本著書一遍倒ということだが、それについて2年前に最初の意見をした。だが、講師に苦情や建設的異論を申し出ても原則論で押し通されるだけであった。
詐欺商法の出先機関の人が一番苦労をしています。その苦労をわかってあげてください。彼はその本の売り上げによって、生活しているのではないでしょうか。
>曰く「改良主義的イデオロギーになびくのでなく、まず本紙(日刊紙のこと)を丹念に読みなさい。党の文献を軽視しているようでは君たちの未来社会は描けないよ」
君たちの未来ではなく、今の彼の生活をささえるためにと素直に言ったほうがいいでしょうが、彼自身も催眠にかかっているのだろうからそうは言えませんよね。党にぶら下がって生活している人の未来はどうなるのでしょうか。その辺を考えないと党の民主化もむつかしいと思います。
>ごく常識的に考えても(いや、考えずとも)、講師陣の文献選定基準は非常に偏向しているといえる。悪意的反共ではなく中立的スタンスから諫言を呈する著者や学識者は、その気になって探せば見つけることができる。いちいち学者諸氏のお名前は列挙しないが、私見では1950~60年代生れの学識者のなかにけっこう良識派が埋もれているように感じた。その多くは、(読む限りでは)論旨展開が無党派風っぽいもののよほど時代感覚がズレていない限り違和感は感じない。邦訳書の中には激しくホットな論争で応酬し合う対談本もあり、むしろ夢中になって読めた。そう言えば、西洋の格言の中には「クリティークと学問とは、しばしば同義語である」旨、示唆的な至言もある。
貴方自身も現実を見ることよりも、観念的に書物の中で何かを求めることがお好きなようですね。若いときはそうしたものかも知れません。私にも覚えがあります。
>ともあれ、ベクトルの向きが単線上を走った(迷走というべきか?)ままでは、新しい部員加入など望むべくもないと思うからだ。題名の「止まらないタコ壺学習会」を本物のタイタニック号にしてはいけない。
新しい部員は、講師が探してくればよいでしょう。彼の生活がかかっているのだから、苦痛の中に仲間を呼び込む必要はないと思います。とはいっても、私自身は主催者に同情していつも仲間を集めては後で後悔している人間ですが。
>いずれにしても、指定文献が「ほぼ必ず不破著書ばかり」なのは誰がどう考えても異常でしかない。どうせ中央が「非民主的に」密室で身勝手に決めたリスト中から「選びなさい」、との江戸幕政期のお達しのようなものが中間機関経由で下部組織に降りてきているのかもしれないが、もういい加減、ボトムアップで末端青年組織で決めることを解禁すべきだ。もし仮に「不従順な行ないがあった」と看做したからといって陰湿な介入が許される時代ではない。
不破さんは、革命家というよりは、日本共産党株式会社の会長でしょう。日本共産党の生産物といえば赤旗と書物しかないでしょう。それを売るのが、社員たるものの任務です。それを売れないようでは専従を解雇されても致し方ないと思います。そういうことは大方の党員はわかっているのです。だから、笛吹けど人は踊らずです。そういう体制にもかかわらず、日本共産党の議員さんたちは、良く活躍していると思います。そこを良識ある党員たちは評価しているのだと思います。宮本時代、下部では、宮本さんのことを「宮本天皇」と言っていました。いまや、不破さんは天皇でもなく、「不破神様」です。そう呼ぶ人はいないけど。神様を全くないがしろにするのには、ちょっと勇気が要ります。
>ところで、5月8日付.ロム3さんの「社会科学研究所なんて必要なのか?」なる鋭い突き上げがあった。多くはまことに時宜を得ているご指摘だと思う。常連投稿大ベテランの人生経験潤沢な良識ある報告に感謝したい。
私の投稿を読んでいただいて有難うございます。人生経験潤沢な良識ある報告といわれると、赤面の至りですが、年だけは、不破君と同じくらいに取っています。
不破君が東大出なら、私は中学出です。不破君が最高幹部なら、私は地域をはいずりまわった、居住党員でした。お互いの視点が逆方向にあります。
今流行の勝ち組、負け組みでいえば、私は負け組みでしょう。この世の中になんの足跡も残すこともできない。子なし母さんです。でも、今の時代、子供にわずらわされない人間は幸せなのかもしれません。周りを見ていると、ついそう思ってしまいます。好きで子供を作らなかったわけではありません。そういうチャンスに恵まれなかっただけです。
いま、私の孫くらいな年のあなたと対等に対話できることをとてもありがたく思います。大変なご苦労のともなう、「さざ波通信」の主催者さまのおかげです。
ここから、日本共産党を変え、日本を変えて行くことができれば大変ありがたいと思います。