価値観が多様化した時代、ひとつの政党の考えで引き回す時代は終わった。
これからは、是々非々で連携して少しでも世の中を良くして行くことしかないと思う。
それには、政策に市民も政党も通じて、軸を持つことだ。軸さえあれば、是々非々の対応もしやすいのだ。
今までの野党は、実は、軸がそんなになかったのではないか?観念論に偏り、その挙句に行き詰まって、むしろ自民党との野合に走ってしまったり、など、枚挙に暇が無い。
逆に、当面の政策さえ一致すれば、旧来の保革の枠などに拘るのはナンセンスである。自分の立場を維持しつつも、できるところを 大いに一緒にやっていこうではないか。それができないと、結局独善か、一方で相手に擦り寄るかになってしまう。
余程、自信が無いのだろうか?そんな諸君には、
「もともと地上に道は無い。みんなが歩けば道になる」
江田三郎先生の遺訓を差し上げよう。とにかく、賛同できる部分で賛同していき、ともに歩めばよいではないか。簡単なことだ。
世の中が右傾化していると嘆く左翼の諸君もいる。しかし、それは一面では価値観の多様化についていけないことなのではないか?旧来左翼の枠にピッシリとはまる人など、特に若い人にはそういないと思う。
否、厳密にそんな人がいたら、宗教的で気持ち悪い。私自身も、ジェンダー問題は明確なラジカル派だろうし、経済政策はむしろ国民新党・自民党橋本派などの伝統保守に近い。運動論・組織論は、ごった煮主義の民主党に近い。ひとつの枠に押し込めるなどナンセンスだ。枠に押し込めていてはアウフヘーベンは起きず、結局「ひからびた歌手」に成り下がってしまうのだ。
ある程度、違いを許容しないと駄目だと思う。全てを押し付けるのではなく、協力すべきは協力し、批判すべきは批判するで良いと思う。「ヒロシマの心」にしても、「革新」の独占物ではない。独占しようとしたところに、桎梏がある。結局、「平和」が、「絶対少数派」の旧来左翼の独占物となってしまったために、「平和」が少数派のような雰囲気が醸し出されてしまった。実際には、企業経営者など保守層の多くも、憲法九条の価値を認め、核兵器廃絶を望んでいるにも関らずだ。もったいない話だ。
「わが党だけが」などというけち臭い観念は捨てるべきだ。統一戦線も、前衛党が引き回すのではなく、むしろ市民も政党も対等な「連合」であるべきだ。市民派の一部に気安く既成政党や労働組合を見下すものもいるようだがこれもナンセンスだろう。対等でいろいろあってよいとしないと、政党以上に「大衆から干上がった」存在に落ち込むことになろう。
市民派も、労働運動も、良識保守も対等に腕を組んで進めばよいのだ。
むろん、もちろん、現代社会にも問題はある。
価値観が多様化しているのだが、一方で、他者に対する許容度が下がっている傾向もある。自分の価値は絶対で、他の人のそれはだめだというきめ付けが、まかり通っているようにも見える。
結果は社会はバラバラ。総理の思う壺である。連帯の政治を興していかねばなるまい。
「他者への共感」をキーワードにしないといけない。それは「愛国心」の押し付けではなく、社会の他の構成員への連帯の気持ちだ。
古い”歌”は忘れよう。新しい”歌”を起こそう。