久しぶりにこの欄を覗いてみました。心配していたより意見が寄せられており一安心しました。
また、ある方の投書に、『「全般的危機論」と「情勢の厳しさ論」が並存し、「出番論」がくるというワンパターンな提起が党でも県労連でも民青でもされてきた。』という表現を見つけました。かって私が、「全般的危機論は今も生きている」で主張した論点であり、嬉しく感じました。
今回は、「世界」7月号の山口二郎と小池晃の対談についての感想、意見を記したいと思います。最近、この欄でも新社会党との共闘拒否問題が数多く取り上げられており、それとも多少かみ合うかなと考えます。
両者の論点を要約すれば山口氏は、小泉内閣への対抗軸は①新自由主義に対抗する社会経済政策、②対米従属ではない外交政策の2つであり、この基本軸で野党が共闘すべき。さかのぼって「9・11」選挙では、護憲、民主主義の大きな観点から民主党との選挙協力を行うべきではなかったか。「実際に選挙結果を動かしていくための大義へ向けた選挙協力」が必要ではなかったか。そして来るべき参議院選挙、衆議院選挙で巨大与党に対抗する戦列をどう組むかを考えるべき。「民主党は過渡的な政党」「(日本の現状は)一遍には変わらない、一歩一歩現状を変えるべき」と主張する。
これに対して小池氏は、「民主党(前体制)と自民党との見分けがつかない」、「(小沢体制になって)内容のある対抗軸が打ち出せるかどうか見極める必要がある」「共産党がある一定大きくならないと対抗軸もはっきりしてこない」「棒倒しのように、いまはそれぞれが力を発揮し小泉内閣を包囲すべき」「(共闘には)基本政策の一致が必要」「基本政策の一致のない共闘は、党利党略と国民には映る。不誠実」「ヨーロッパと違い日本には反ファシズム統一戦線の歴史がない」「民主党は(諸潮流の)複合要素がある」「民主党は政権を変えること自体に意味があるというが、政権の中身がどう変わるかが大事」「医療改悪反対など個々の共闘の積み重ねが今は大切。一挙には行かない。急がば回れ」と主張する。(要約に多少不備のある点はご容赦ください)。
小池氏は、観点鋭くしかもマスコミ受けする国会議員として期待をかけている人ですが、立場上かもしれませんが、いかにも苦しい。
要するに、「前衛党」意識を基盤とする「党勢拡大」至上主義、共産党中心主義が、良識的な言い回しの裏に悪意はないにしろ党の基本的見解として存在している。日本社会の変革のためには、革命(前衛)政党が不可欠という命題から、革命政党の前進、拡大が日本社会の進路を左右する最重要課題という逆立ちした結論が、共産党の公的見解としては容易に導き出される(個々の共産党員の意識としては、「逆立ち」意識などもちろんなく、共産党の前進=日本国民の幸せの増進とすんなり素朴に映っているのだろうが)。
私の目には、日本社会の抱える根本的な政治的問題点は、政権交代がないということと写る。民主社会の成熟度として、まずは民意による政権交代が不可欠であると思う。これは、「よりまし政府」どうこう以前の問題である。まずは、「党利党略」のレベルからでも政権交代を実現し、自民党一党支配体制を流動化させることが、日本社会にとって必要ではないか。体制の流動化が、民意の加速度的な流動化を促す、すなわち旧来の「長いものには巻かれろ」式の村型思考、社属的思考から、自分の要求、考えに基づき政党を選択し、政治にかかわっていこうとする国民意識の成熟化につながっていくのではないかと思える。荒っぽい言い方になるが、この(歴史認識的)観点からすれば、自民党政権でない政権は、基本的にいずれも「よりまし政権」と言える。
「9・11」選挙においては、3分の2を超える巨大与党の出現を阻むために、小選挙区において民主党候補の支援に回るべきであったと思う(3分の2は予測できなかったとしても)。
共産党の使命は、歴史を合法則的に動かしていくことではなかったか。理想とする未来社会においては政党も消滅することを自覚した政党であれば、自らを歴史的課題の上に置くことはしないはずであるから。
選挙という階級闘争の最高形態における闘いであっても、むしろそうでるからこそ、自らの歴史的使命を自覚した論戦が必要ではなかったか。百歩譲って、同じ「改憲勢力」と決め付けたとしても、改憲において自民党と同じ危険度を持った政党とはまさか見なしてはいないはずであるから。
「統一戦線」論を掲げる政党であれば、相手を敵陣に追い込み戦線を狭くするようなことはしないはずである。「複合要素」を持った政党とみなしているのであれば、巨大与党の出現によりそちらに吸引、影響され、共産党からすればより悪い「複合体」に変質する危険性を当然予測すべきだから(むしろ、少数化することにより存在を際立たせるために対抗軸を明確にすると予測したのだろうか)。
共産党の選挙対応、共闘に対する対応はセクト主義といえばそうなるが、共産党の場合の問題点は理念、主張点と現実の行動とがかけ離れている(結果としては、逆という)時がままあるということがとりわけ問題だ。大義を掲げていない政党であれば、セクト批判ですむが、もう少し理念と現実とを一致させるために、「結果責任」ということを重く考えるべきだ。「主張していた」「赤旗で指摘していた」では、政党としては通用しない。主張の一貫性が正しさの証明となるのではなく、現実がどう動き、どうなったのか、それに共産党がどういう影響力を行使したのかしなかったのかが問われるべきだ。
「一致点での共同」が「一つでも相違点があれば共同できない」に転化する。例えば、「共産党としては、○○とは共同できない」という意見が、共産党の個別政党としての意見から、団体間の「相違点」「不一致点」に格上げされる。まさに、先の命題は、「拒否権」に転化するのでる。
前衛意識、特別意識を捨てることが必要だ。普通の政党、普通の意識の政党になるべきだ。自己を特別視していては共同はできない。飲み込むことも必要だ。歴史的使命を帯びた政党として歴史の大道に照らして飲み込むべき点は飲み込むべきと思うが、それができてこなかった経過があるから、ここでは普通の政党としてどの政党もやっていることとして大局を見て多少の相違点は飲み込んでほしい。
先の対談で山口氏は、野党共闘ともからめて政権構想の提示を小池氏に求めた。しかし、小池氏は今の時点では現実味を帯びないとして、個別政策の具体化の必要性に言及するにとどまった。共産党は共産党を大きくするために存在しているのであろうか。統一戦線政府であり単独政権を目指すのではないという政党が、共闘の相手も明示できず政権構想も提示できない。本当に政権を取る気があるのかと疑問を持たれても当然であろう。政権を取るため、歴史の逆流を食い止めるために、「権謀術数」をめぐらし現実政治に影響力を行使するのが政党、とりわけ革命政党(こういう表現は今は使わないのかもしれないが。実践を重んじる科学的社会主義の政党)ではないのか。
実は、このような主張のやり取りをしていても共産党は変わらないだろうなという「確信」がどこかにあり、徒労感を感じないでもない。というのは、共産党の場合、論争が党組織内部に共鳴し、論議を通じて変えるべき点は変えられていくという仕組み、制度が機能不全に陥っているのではないかと疑われるからである。論争に対しては、組織防衛機能が働く。あるいは、思想的「ひきしめ」「しめつけ」機能が動員されるように思えるからである。
「筆坂本」を読むにつけ(再確信しただけであるが)、民主主義の形骸化(党員の思想レベルの低さに基づく中央崇拝、全員一致傾向。民主集中制の真髄である「派閥の禁止」による思想的画一性と党内における牽制システムの欠如・・・)と特定個人への権力の集中の弊害を感じる。
党内論争による路線変更の可能性には期待できないのであって、その特定個人の考え方が変わらない限り路線は変わらないだろう。
共闘に対する共産党の姿勢を論じると同時に、この点に切り込まない限り本質には迫れないだろう。
それにつけても、どのような党首を擁するかにより政党に対する投票行動が左右される現実にもっと目を向けるべきではないか。