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「組織論・運動論」討論欄

共産党は、なぜ選挙で伸びないのか

2006/08/31 土方副長

1 共産党は、なぜ選挙で伸びないのか。

 共産党は、なぜ選挙で伸びないのか。
 選挙のたびに支持拡大を訴え、多くの有権者と「対話」をしてきたものとして、確信したことがある。
 それは、とりわけ若い有権者に、共産党が「きもち悪い」政党であると認識され、そうであるがゆえに、多くの有権者に嫌悪感を抱かれているということである。
 共産党の支持者には各世代の方がおられる、50代以上の方と、20~30代の方とで、やはり生きてきた時代背景が異なるためか、若干の相違がみられるように思う。
 前者は、共産党を「怖い」政党であると認識している。過去の暴力事件や異論を持つ者を排斥してきた独善的な体質がそういう認識を抱かせたのであろう。
 後者は、共産党が「きもち悪い」政党であると認識している。
 若い有権者に支持してもらわない限り、共産党に未来はない。
 そこで、これについて分析し、検討を加えたい。

2 共産党が「きもち悪い」と思われる原因

 まず、共産党が「きもち悪い」と思われる原因は、「カルト宗教的な党運営」がなされていることに起因していると考える。
 たとえば、「カルト宗教的な党運営」のあらわれる一面として、各種の「会議」がある。
 民青や共産党で行われる「会議」は、通常の日本語から連想される会議、すなわち、「物事をその場で決定する場」というイメージからはかけ離れている。
 なぜなら、方針はすべて上部機関で「決定」されており、民青や共産党行われる「会議」は「伝達」の場所としての意味を持つのみであり、そこには「命令と服従」の関係しか存在しないからである。
 このような会議の方針に異論を挟むものがいた場合、どうなるのか。
 今の20代・30代の若手の民青や共産党の専従者には、カルト宗教の信者顔負けに「教義」を盲信しているものが多くを占めていることとも関連して、この組織の体質が剥き出しになる。

 私は大阪府の例しか知らない。よって、他の地域で活動している方で、他府県の「会議」がどんな雰囲気であるのか、教えていただける方があれば幸いである。
 大阪府の民青のLC会議や府委員会の会議の例を以下に記す。

 まず、民青のLC会議や府委員会会議の場合、前代表は「コマイヌ」とかいう(正確には忘れたが)人であったのだが、異論に対しては、真っ赤になって反論し、「勉強不足だ」とか「敵の攻撃に惑わされるな」など怒鳴り、ほとんど議論のできる雰囲気ではなかった(「人間がコマイッチ」などと、他の党員(同盟員)からは嘲笑されていたものである)。
 また、具体的な説明を求める質問に対しては「上部機関に聞いてみる」などど、まったく自分の頭で考えることのできない人物であった。

 さらに、次に代表になったのは「みわぞお」とかいう(正確には忘れたが)名の人物であったが、彼は地元の党員には「民間企業が嫌だから(つとまらなかったから)専従になった」と公言しているような器であった。
 彼も、やはり、まともに質問に答えられずに「上部機関の見解」を繰り返すだけであり、具体的な説明を求める質問に対しては「上部機関に聞いてみる」などど、まったく自分の頭で考えることのできない人物であった。

 ここでは、私の体験談として、いわば公人としての立場にあった者の例を挙げた。
 しかし、わからないことは自分の頭で考えるのではなく「上部機関に聞いてみる」というのは、彼の場合だけでなく、共産党に蔓延してみられる体質ではなかろうか。
 有権者は「対話」の際に、このような解答しかできない党員を嘆くとともに、ここに党のカルト的体質をみてしまうのである。

 共産党の会議でも、私は地区委員会レベルでの「会議」しかしらないが、やはり、「会議」という日本語から連想される「物事をその場で決定する場」というイメージからはかけ離れた実態がある。とにかく党中央の結論ありきで、それに無条件・無批判で従うことが強要される。
 方針はすべて上部機関で「決定」されており、党の会議は、「伝達」の場所であり、そこには「命令と服従」の関係しか存在しないからである。

 共産党は「他流試合」をしないため、討論に弱いことはおびただしいが、(不破氏が小沢氏に自衛隊の問題で討論に完敗し、党の政策を変えたことは記憶に新しい。)「党の見解」を繰り返すだけの「指導」的立場にあるらしき者の「知性の貧困」ぶりは嘆きたくなるほどである。

3 突然の政策の変更と「民主集中制」

 それでは、このような党の体質が、どのように有権者に受け止められているか。とりわけ若い有権者に、共産党が「きもち悪い」政党であると認識され、多くの有権者に嫌悪感を抱かれる原因はなになのかを、具体的な例を挙げて検討しよう。

 例えば、共産党員は、ある時期までは自衛隊の廃止を主張し「日本は外国に攻められる可能性はない」という主張を異口同音に有権者に対して喧伝していた。
 まともに考えれば、「可能性」がゼロであるはずがない。
 「日本は外国に攻められる可能性はない」などというのは、目をつぶれば世界はなくなるというのと同じである。
 このようなことをすべての党員が有権者に対して喧伝していたこと自体が、共産党が「考える者」の集団ではなく「信じる者」(盲信する者)の集団である理解され、有権者に、共産党=「きもち悪い」政党というイメージをうえつけたに違いない。

 しかし、ある時期(不破氏が小沢氏に自衛隊の問題で討論に完敗したしばらく後)を境にして、すべての党員が「自衛隊を有効活用するのは当然だ」などと、全く違う主張を異口同音に口にしはじめる。

 このような共産党の体質が、有権者に果たしていかに受け止められたのか。
 共産党=「きもち悪い」政党というイメージは、けっして「反共宣伝」によってうえつけられたのではなく、自らが有権者にうえつけたイメージなのである。

 このような事態が生じてしまうのは、まさに党内原理に民主集中制を採用しているからである。党中央が「真実」の解釈権を絶対的に握り、党員を無条件にその解釈に従わせ、党員は見解を留保(心の中で思う)ことはできても発表することはできない結果、このような事態が生じてしまうわけである。
 たとえ、いかに「党内向け」に赤旗で政策の変換を説明しようと企てても、一般の国民からすれば、全く違う主張を異口同音にしはじめる集団を目の当たりにして、カルト的な体質を強く感じるなという方が無理であろう。
 そもそも、「職場に憲法を」などと対外的には主張している政党が、党員には憲法21条で保障された「表現の自由」を事実上認めない制度をとっていること自体が、ダブルスタンダードである。

 民主集中制という党内独裁原理は、党内の権力者にとっては極めて都合のよいシステムである。しかし、異なる見解を留保(心の中で思う)するだけの自由なら北朝鮮にも保障されているわけである。 このような政党が政権を取ることを国民が警戒するのは当然だといえる。

 もちろん、民主集中制という党内独裁原理をもつ政党が、必ずしも、国家権力を握れば独裁政権となるとは限らない。
 しかし、異論に対して非寛容な体質を持つ政党が国家権力を握れば、独裁政権となる可能性は極めて高いといえるであろう。民主集中制を採用したレーニン型の政党(ソ連・東欧)は、政権をとると、すべて独裁化してしまったことは、歴史的な事実だからである。
 日本共産党は、スターリン主義と呼ばれることを嫌うようだが、レーニン主義もスターリン主義も根は同じであると考えられる。どちらも独善的であり、官僚主義にほかならない。

4 まとめ

 実際にも、世論調査では、共産党と公明党に対する「嫌悪感」・「拒否度」が極めて高いことが伺われる。
 これらは「反共」宣伝によるものだなどといっている限り、共産党には永久に進歩はないであろう。
 冒頭に述べたことと関連するが、武装闘争時代や70年代の民青による暴力行為を知る者がもつ共産党に対する「嫌悪感」と、20~30代の方がもつ共産党に対する「嫌悪感」とは、内容が異なるのである。
 若い有権者は、共産党が振り回す「正義」やその「体質」に、うさんくささやカルト的で危険な体質を感じ取っているのである。
 「共産党は、ある時期までは、『オウム』と変わらず、現在でも『カルト教団』と変わらない」と断言する者さえいるが、これらの見解にも理はあるのである。
 共産党では「史的唯物論に確信を持」たねばならないと「教育」が施されるが、自分たちが「正しい」のかどうかを、真摯に省みる姿勢がなければ、カルトと同様にみられても仕方がないのではないといえるのではなかろうか。

 「史的唯物論に確信を持」っている方もおられるであろうが、たとえ事実はひとつであったとしても、その事実に対する解釈は人によって異なってよいはずである。
 唯物史観の名の下に「真実はひとつ」であると主張し、真実か否かの解釈権を党中央が絶対的に握る。それを党員に無条件でその解釈に従わせる。
 このような「史的唯物論」と「レーニン主義的党運営」(民主集中制)によって、「科学」に名を借りた「カルト宗教的な党運営」がなされているのが現実であり、そのような党の体質が多くの有権者に嫌悪感を抱かせていると思われるが、いかがであろうか。
 腐敗した資本主義を変えていく方法はいく通りもあるはずである。
 「唯物史観」は、党中央を物神化させ、党員を信者とする道具として用いられ、「民主集中制」は、党内独裁を容認するための道具として用いられている。
 このような現状では、多様な価値観や人権を尊重することを保障した日本国憲法を守る立場から、共産党の「体質」を批判していかねばならないと思うのは私だけであろうか。
 自覚ある党員の「内部からの改革」を心から期待してやまない。
 民主的なルールに基づいた、異論、反論は、心より歓迎する。