団体職員のPINKOさま、現役の社民党員であり、社民党全国連合に勤務しておられる職業的な社民党の活動家であられるというお話をうかがいました。
そこで、是非以前から社民党関係者の方にうかがってみたいと思っていたことがありますので、PINKOさんにお尋ねいたします。
(PINKOさまの最後の投稿が7月ですので、この投稿をご覧いただけるかという不安もありますが!)
さて、現在においても護憲政党である共社両党の憲法擁護のための共同・共闘の実現に大きな溝が存在することはPINKOさまの投稿を拝見しましても痛切に感じます。
共産党の側にも「護憲よりも党勢拡大だ。」と口走った愚かな中間機関の幹部が存在したり、護憲のポーズをパフォーマンスするために社民党幹部の皆様に対する礼を失した振る舞いを共産党の最高幹部たちがしでかしたことなど、両党間の溝を広げるようなたくさんの問題点が存在します。
しかし、話を歴史的にさかのぼってみますと、1980年にそれまでの国政上の革新統一戦線のために協議するとの共社両党間の合意がありながら、当時の旧社会党飛鳥田指導部が共産党との事前の協議いっさい抜きに、一方的に公明党との間にいわゆる「社公合意」を締結し、政権協議の場での共産党排除の政治原則を明確にしたことという歴史的事実があります。
そして、この政治原則が政権協議のレベルにとどまらずに、その後に地方の首長選挙において京都の蜷川革新府政をはじめとした全国の革新自治体つぶしにまで拡大していきました。
さらには10.21統一行動をはじめとした大衆運動における統一行動からの社会党・総評ブロックの離脱、はたまた、国会運営においても正規の機関以外のすべての政党間協議の場から共産党を排除し、共産党抜きで国会審議のスケジュールを決め、それを共産党に押し付けるという、あの悪名高い国会の場での“密室協議”にまでこの政治原則をエスカレートさせたこと、これらはすべて例の社公合意を出発点として起きたことでありました。
この旧社会党の振る舞いはそれまでの革新統一のための営々とした努力の積み重ねを旧社会党の側から一方的に破壊したものといって過言ではないでしょう。
そしてこの旧社会党の振る舞いにより、60年代から70年代にかけて自民党政治の革新的転換を望む国民の声を背景とした革新統一のための努力と、それによって築いたすべてのものがすべて水泡に帰してしまったのであります。
ある意味において、今にいたる政治の反動化・反動攻勢の起点になったものがこの社公合意であるといっても言い過ぎではないかもしれません。
もし、1980年の時点でこのような事態が起こらず、革新統一のための努力が、国政上の政権共闘の場でも結実していたら歴史は大きくその様相を変えていたことでしょう。
はっきり言えば、この旧社会党の振る舞いが革新勢力の分裂と分断に果たした役割ははかりしれないほど大きなものです。この政治的影響力は今にいたるも生きていることは否定できないでしょう。
そこで、旧社会党を今の時点で引き継いでいる社民党の皆様がたにおかれてましては、この歴史的事実をどのように考えておられるのでしょう。
また、社民党として、この社公合意とそれにともなってひきおこされた革新統一の破壊と分断についてどのように総括しておられのでしょうか。はたまた、総括はされていないのでしょうか。
この問題が私などには、今でも喉の奥にひっかかったとげのように心の奥底に残っております。
そしてこの問題の本質的な清算なしには共社両党の共同の問題も発展していかないものと思います。
憲法9条をめぐる情勢が五年以内の改憲を政権公約とした安部政権の登場で緊迫しつつある昨今、一段とこの問題の清算にこだわらないわけには行きません。
そのほかにも、村山社会党が安保容認・自衛隊合憲をうちだし、それをテコに政治革新を望む国民に背を向け、自民党との連合政権の道に転落していった問題などもお聞きしたいと思いますが、とりあえずは社公合意について社民党の方に直接にご見解を伺うよい機会と思いましたものですから、お忙しいなかご迷惑かと存じますがお返事を下されば幸いです。