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「組織論・運動論」討論欄

多元派の看板としての「民主・集中制」

2000/3/19 大統領

 ★先達の覚者に学ぶ「的」に関する問題意識
 「的」の有無の論者について、岩名やすのり氏と加藤哲郎氏の二氏の論があります。岩名氏は『民主主義的中央集権制・歴史的評釈』(岩名やすのり1982年・(株)青木書店)の訳者あとがきで、『「民主集中制」の略語自体』『まことにふさわしくない』と、また加藤氏は『社会主義と組織原理』(加藤哲郎1989年・(株)窓社)で、『しばしば「民主主義的中央集権制」に関連して扱われる諸論点、「民主主義と中央集権の統一」の名でけっきょくは「中央集権」になっているのではないか、「民主主義」が形容詞に留まり主語は常に「中央集権制」ではないか』(25ページ)としています。この岩名氏の18年前の明快な指摘の先見性には敬服します。その「あとがき」部分を紹介して、すこし残念なことについて意見を述べます。
 ★『「民主集中制」という略語自体、一種の共産党用語的』か
 岩名氏は、マイケル・ウォーラーの著書『DEMOCRATIC CENTRALIZM:AN HISTORICAL COMMENTARY』(1981年)の翻訳者です。同氏は、訳者あとがきで『訳出にあたっては、本書の学術論文的性格上、意訳的方法はとらず、できるだけ原文に忠実で、しかもよみやすい訳文とするよう心がけたつもりである』と述べ、また『なお、訳語について一言断っておきたいが、本書の表題でもあるDemocratic Centralizmについては、多少のはん雑さをいとわず、すべて「民主主義的中央集権制」と訳し、よくおこなわれるように「民主集中制」と省略することはしなかった(ただし、訳者が付した各章の小見出しだけは、便宜的に「民主集中制」という短い表現を用いた)。その理由は、一つには、「民主集中制」という場合、「共産党の組織原則」をいう狭義の民主主義的中央集権制を示すことが多いので、意識的に避けたためである。二つには、そもそも「民主集中制」という略語自体、一種の共産党用語的性格が濃厚であり、今日、この問題が論ぜられるべき本来の広がりと性格から考え、まことにふさわしくないと判断したからである。最後に、本書の翻訳出版を快く承知していただいた青木書店の江口十四一編集長、ならびに、編集実務にあたって一方ならないお骨おりをかけた編集部員、西山俊一氏にふかく感謝したい。』と結んでいます。ここに『(ただし、訳者が付した各章の小見出しだけは、便宜的に「民主集中制」という短い表現を用いた)』と述べているように、小見出し部分四ケ所の「民主集中制」という文字は、原文にはありません。長短の問題ではなく、意味が違うので、「ふさわしくない」という先覚者の岩名氏ゆえに残念です。
 ★『「民主集中制」からの逸脱』と『不本意な沈黙』
 もう一つ、西山俊一氏にも関連しますが、『共産党組織のペレストロイカ』(藤井一行1989年・(株)窓社)の14ページに、『私は』『スターリン時代の「民主集中制」からの逸脱を問題にしている』とあり、藤井氏のこの『「民主集中制」からの逸脱』という表現は味わい深いものです。しかし、目次には「民主集中制のペレストロイカ」とあり、これは「民主的集中制の」とされるべきものと思います。その「あとがき」に、『前著の生みの親ともいうべき西山俊一氏が創立した新しい出版社からその姉妹編を世に送り出すこととなった。二人にとって10年に近い不本意な沈黙との決別である。』とあります。この『二人にとって10年に近い不本意な沈黙』は、異端審問官による魔女狩を連想させます。
 ★『スターリン主義の汚染からみずからを清浄化』
 この「前著」とは、その10年前の『民主集中制と党内民主主義』(藤井一行1978年・(株)青木書店)であり、氏は「はじめに」で『スターリン主義の汚染からみずからを清浄化するための作業』と位置づけ、本来の組織論の再構築が不可欠である、としています。また「あとがき」では、『きびしい状況にもかかわらず、『現代と思想』(第二六号)に発表した未熟な「前稿」をいっそう充実させて一書にまとめるよう私にすすめ、出版にまでこぎつけてくださったのは、こんどもやはり青木書店編集部の西山俊一氏であった。氏の熱意と助力なしには、やはり本書の実現はありえなかったであろう。「前稿」発表後にあらわれたさまざまな不本意かつ不愉快きわまりない反響のなかで(略)』とあり、「前稿」の「民主主義的中央集権制と思想の自由」(『現代と思想』(第二六号)1976年12月)に対しては、『いたずらにレッテルのみが大仰な‘批判‘も聞かれはした』といいます。
 ★『スターリン型の民主集中制』と『レーニン型の民主集中制』か
 また藤井氏は、『民主集中制のペレストロイカ』(藤井一行1990年・(株)大村書店)の「まえがき」で、『レーニン時代の、あるいはレーニン型の民主主義的中央集権制の理念も実態も、現存型とは質的に著しく異なること、現存型はむしろスターリン型と呼ぶべきものであることを発見した』といい、『民主集中制というものが実態としては世界で60年以上もスターリン型=秘密結社型として君臨してきた』、『世界の一角に、民主集中制を堅持するとしつつ、現実にはスターリン型の民主集中制に固執する勢力が存在するばあい、それにたいして、本来のレーニン型の民主集中制を対置することは国内的にも国際的にも政治的な意味をもちうるであろう。』としています。ここでは『スターリン型の民主集中制』と『レーニン型の民主集中制』とされ、使い分けがされていないので、まだ「的」の呪縛の影響の名残が見られます。
 ★単元派は、なぜ「的」を使用しないのか。
 『多元的社会主義の政治像』(田口富久治1982年・(株)青木書店)の「民主集中制の政治学」(56~91)と同「西欧共産党と民主集中制」(92~132)の76ページ中に「民主集中制」の文字が145箇所にあり、「的」の呪縛の影響が見られます。「民主主義的中央集権制」の文字の使用は、冒頭でマイケル・ウォーラーの同名の著書『民主主義的中央集権制・歴史的評釈』を紹介している箇所の他に一箇所ありますが、合計してもほんの二箇所だけです。この「民主主義的中央集権制」の文字を使用しない傾向は、『民主集中制と近代政党』(日本共産党中央委員会出版局1978/1991年)とも共通しています。この目次には17の小論があり、その内11の見出しすべてが「民主集中制」の文字を使用しています。また『民主集中制論』(榊利夫1980年・(株)新日本出版社)においても、目次の十箇所ですべて「民主集中制」の文字を使用し、「民主主義的中央集権制」の文字を一切使用していません。さらに『現代前衛党論』(不破哲三1980年(株)新日本出版社)においても「民主集中制」の文字は多用されていますが、「民主主義的中央集権制」の文字は一切使用していません。
 ★多元派の看板である「民主集中制」の盗用
 これに対して、前述の、田口氏が紹介したマイケル・ウォーラーの『民主主義的中央集権制・歴史的評釈』においては、本文144ページ中、「Democratic Centralism」すなわち「民主主義的中央集権制」の文字がなんと557箇所もあります。この、あまりの落差を見るとき、一瞬、目眩(めまい)すら感じられます。なぜなら、単元派が、本来、多元(三元)派の看板である「民主集中制」の文字を、過失か故意かは別として、その概念規定をねじ曲げて、堂々と規約前文に盗用しているからです。
  ★「規約前文(三)」は、事実上の両論併記
 日本共産党は、民主集中制論争が世界的に注目されるなか1994年7月の第20回党大会で、『党規約の核心をなす民主集中制の組織原則について、一部改定案では、規約前文(三)において』、『日本共産党の組織原則は、民主主義的中央集権制である。』と規定していたところを『日本共産党の組織原則は、民主集中制(民主主義的中央集権制)である。』と改定しました。理由は『「民主集中制」という用語は、従来から党大会や中央委員会の決定をはじめ党の文献で正式に使用されてきた。』からとしています。この「民主集中制(民主主義的中央集権制)」という表記のしかたは、「民主集中制=民主主義的中央集権制」、すなわち、この2つが同じ意味ということです。しかし、国語の辞書を引けば「民主」は名詞で、「民主的」は形容詞とあります。名詞と形容詞の区別もできない、科学の党の非科学の一証左です。民主集中制」は、「民主主義中央集権制」(名詞・名詞)の略字であり、「民主的集中制」が、「民主主義的中央集権制」(形容動詞・名詞)「の略字であると私は考えます。この「民主集中制」の用語は、横型組織論の三元派の用語であって、その縦型組織論の単元派による盗用と誌紙での「的」隠しは、『従来から党大会や中央委員会の決定をはじめ党の文献で正式に使用されてきた』としても、8回大会における戎谷中央委員会幹部会委員の、『統制委員会の大会選出」は「二権分立になり、民主集中制を否定する』という用語法に象徴されるように、権力分立を否定する、「民主主義的中央集権制」(形容詞・名詞)の意味として、誤って使用されていることは明らかです。
 ★「民主集中制」を「民主・集中制」と表記することを提案
 一般社会では「民主集中制」を「名詞・名詞」であると概念規定しているにもかかわらず、これを「民主集中制」(形容詞・名詞)であるなどと党内だけで通用する概念規定をし、文法上の「誤り」を認めないならば、それは公党として世間を欺き、党自身をも欺くことであり、これが党中央の故意または未必の故意を形成し、その責任は重大です。「民主集中制」の用語は、三権分立派の看板であり、その紊乱(びんらん)的盗用は、三権分立派の利益を害するもので、看過できません。そこで、単元派の陰謀を許さず、単元派の用法と一線を画し、多元主義的「民主集中制」の復権のためにも、この略語を使用する場合は「民主・集中制」と表記することを提案します。
 ★田口氏の「分派禁止」容認論
 田口氏の前著が『科学的社会主義か多元的社会主義か』として有名な不破・田口論争を呼び起こし、「多元的」に対応する「科学的」が「単元的」すなわち「反三元主義」であることを明らかにした意義は大きいと思います。しかし、「分派」に関する記述については、気になる部分があります。 田口氏は、『先進国革命と多元的社会主義』(田口富久治1978年・(株)大月書店)で、『私は、この問題について、次の一点だけはとくに強調しておきたい。それはすでにスローンの見解を紹介しながら述べたように、分派禁止の規定を伴う「民主集中制」の組織原則は、一般的には潜在するかもしれない党執行部への反対意見の結集を妨げ、現執行部にとって有利に作用、ないし操作されうる、ということである。』としながらも、『私は、党内分派の存在がそれぞれの先進諸国の共産党の政治的戦闘機能を低下させる危険がはるかに大きいと思う』と述べ、「分派禁止」を容認しながら「禁欲」を「指導部側」に期待しています。この部分は、単元主義に立つもので、論理の矛盾のように思います。
 ★「分派禁止」論の洗い出しとその克服
 この「分派」に関する議論は、ともすれば田口氏のような人物でさえ、多元主義を唱えながら、その本質が三元主義であることを忘れ、今だ(当時)に呪縛下にあるほどの重大問題です。宮地論文においては『2、民主集中制放棄後の組織原理」において、「現行の垂直性組織原理を放棄した後は、全党員間、全党組織間の水平的横断的交流権が確立される。これは「分派」の呪縛から党員を解き放ち、党内民主主義を完全に保障するものとなる。ただしその場合、分派による混乱を防止するに足る政治的文化的成熟、節度ある論争レベルの確立が必要条件になる。』とされています。この「足る」や「ある」の制度的保障の具体的表現を明らかにし、なお「分派禁止」の呪縛からの解脱のためには、「分派禁止」論を洗い出し、その克服が必要です。
 ★参考文献

「民主主義的中央集権制と思想の自由」(『現代と思想』(第二六号)1976年12月)
『先進国革命と多元的社会主義』(田口富久治1978年・(株)大月書店)
『民主集中制と党内民主主義』(藤井一行1978年・(株)青木書店)
『民主集中制と近代政党』(日本共産党中央委員会出版局1978/1991年
『民主集中制論』(榊利夫1980年・(株)新日本出版社)
『現代前衛党論』(不破哲三1980年(株)新日本出版社)
『民主主義的中央集権制・歴史的評釈』(岩名やすのり1982年・(株)青木書店)
『多元的社会主義の政治像』(田口富久治1982年・(株)青木書店)
『社会主義と組織原理』(加藤哲郎1989年・(株)窓社)
『共産党組織のペレストロイカ』(藤井一行1989年・(株)窓社)
『民主集中制のペレストロイカ』(藤井一行1990年・(株)大村書店)