JDさんへ。久しぶりに投稿を拝見して、お元気だったのだな、と安心しました。
プロレタリア独裁についての内容は、少し年輩の方には常識ではないかと思われるのですが、私と同年代の者にとっては、全く常識ではありません。
おっしゃるとおり、私たちの世代では少なくとも党員の間ではほぼ常識的なことでした。通常、日本語で独裁という言葉は個人独裁という語感を伴うので、その違いを説明するのはなかなか苦労がいります。1971年に、中央がこの語句を「ディクタツーラ」とか「執権」とかに変更するというときのおもな理由もそういうところにありました。
ヨーロッパにおける資本主義の勃興期に、あまりにも悲惨な労働者階級の状態から、さまざまな人々がこれらを改善するために、いろいろな社会主義思想を展開しました。この中で、マルクスやエンゲルスが特に際だっていたところは、労働者の労働時間の短縮や賃上げだけの部分的な改良をめざす運動だけでは、これらの根本的な解決はできないということで、労働者階級が政治権力を獲得して、みずからを支配的な階級に高めなければならない、そしてそれによって社会全体を変革する、ということだったでしょう。
共産党宣言にはプロレタリアートの独裁という語句は登場しません。「プロレタリアートが政治権力を獲得する」という程度の表現です。時間がなくて、マルクスやエンゲルスがいつごろからこの語句を使うようになったかを調べていませんが、それほど早い時期ではなかっただろうと思います。あるいは、1871年のパリコミューンのあとであったかもしれません。調べてはいませんから違っているかもしれません。このことは別にして、いずれにしても、彼らが「プロレタリアートの独裁が何であるかを知りたければパリコミューンをみたまえ」と述べていることからも、彼らの思想が、単に「労働者階級が政治権力を獲得する」というものから、「プロレタリアートの独裁」へと発展するにあたって、おそらくはパリコミューンの経験があっただろうと思います。
また、語源的にも、古代ローマにおいて非常大権を握るディクタトル(独裁官)という言葉を選んだのであって、通常の政務を司るコンスル(統領・執政官)という言葉を使っていません。
マルクスやエンゲルスの著作を読めば、プロレタリアートの独裁なくして、資本主義から社会主義への移行はありえないであろう、と理解するのがふつうでしょう。党員用投稿欄に「新日和見主義問題によせて」という題名の投稿で、その中にも少し私の考えを書いておきました。駄文ですが、時間があればお読み下さい。
プロレタリアートの独裁はマルクス主義の核心です。これが具体的にどのような形態をとるか、どれほどの期間が必要であるかについては、あらかじめ語ることは不可能でしょうが、これなくして革命はできない、と私は思っています。
社会主義を否定する風潮が支配的ですが、その背景にはソ連の崩壊があるのでしょう。これらの論調の多くは、ソ連が崩壊したという事実だけを根拠として、社会主義が不可能であるとしていることが多いのですが、ソ連崩壊という事実はあまりにも重い事実であり、これらの見解は事実を根拠としているから説得力があるように思われるかもしれませんが、よく考えてみるとあまり説得力があるとは思えません。ソ連が存在していたときに、私(たち)はそれを何の検討もなしに、それが社会主義だと思いこんでいました。つまり、そこに社会主義を名乗る国が存在していたから、それが社会主義だと思いこんでいたということです。同様に、ソ連が崩壊したことだけを根拠として社会主義が不可能であるとするならば、私(たち)の「思いこみ」と同質のものといわねばならないでしょう。
それでも、私はソ連社会主義を人類史の汚点のように見る見解には同意できません。ソ連社会主義は、私たちが手本とする社会主義と位置づけることはできないにしても、この経験はやはり偉大な経験であり、そこから学ぶということが大切なことでしょう。歴史から学ぶということです。
人間の思想は単なる理論ではなく、その人の生い立ち、置かれている環境、階級的立場、生活状態などの中で形成される価値観と不可分に結びついているものです。その思想も可変的なものでしょうが、JDさんが少なくとも現在、社会主義の理想を自らの思想としているならば、そのために自らの理論を磨けばいいでしょう。そのためにご自分が必要だと思う書物を読めばいいでしょう。特に、みずからの政治信条を形成する上で、右から左まであまねく既存の思想を検討して自分の政治的立場を形成した人など私はみたことがありません。学習し実践していく中で、おかしいな?と思うようなことがあれば、そこで立ち止まって考えればすむことです。
JDさんの投稿はだいたい読んでいます。私にとっては内容的に、本質的な批判をしたくなるようなものはありません。ただ、一度に何人もの人と同時に討論すると、大変な負担になります。焦点を絞って討論するとか、返信を後にするとかなさってもいいのではないかと思います。
私自身も「さざ波」のいろいろな投稿をみて、質問してみたいとか、反論してみたいとか思うものがありますが、少なくとも紙上討論のような場所ですから、多少ともモノを読まなければならないし、何も見ないで書くこともできませんから、とてもその時間的な余裕がなくて、ROMを決めこんでしまいます。いろいろな立場からJDさんへの批判的な投稿がありますが、私はそういう理由でくちばしを挟まないだけです。
日本共産党が今日ほどひどい右傾化をする前に、学生時代を過ごした私の経験からすれば、JDさんの考え方は「ずれた」ようなものではありませんから、自信を持って学習し、討論をされればいいと私は思います。
たとえば、JDさんが「さざ波」上で、たとえば「国家」について反マルクス主義の立場のどなたかと討論して、JDさんが反論できないところまで行ったとしても、それはJDさんがその討論において言い負かされたというだけのことであって、それ以上のことを意味するわけではありません。
もう少し、追加したいことがありますので、近日中にもう一度投稿する予定です。