「プロレタリアートの独裁」が不可能なのは、結局「プロレタリアートという階級が存在しないから、その独裁も不可能」ということなわけです。
存在しないものが独裁する、という構図は、その「代理」がその「存在」に代わって「独裁する」という結果を生まざるを得ない、というのは必然的であって、階級の独裁が党の独裁へ、党の独裁が党書記局(ひいては、党書記長)の独裁へと変わっていく、これは「ロシアなら起こるが、日本では起こらない」ということはなくて、どこの国でも論理的に起こることなのです。
すでに100年前ドイツで、ベルンシュタインがマルクスの予想(資本主義が進展すればするほど、ニ大階級へと収斂していく、という)が外れており、逆に中間階級(階層)が増大している事実を暴き出しました。その後100年経って、ベルンシュタインの時代よりもさらに階級・階層の分化は進みました。社会は、個人や集団・共同体、さらには国民国家などがそれぞれの思惑と欲望、さまざまな動機でもってうごめく複雑きわまる有機体です。それは一元的な階級理論で把握することが不可能な多様な存在なのです。
階級社会という社会認識の方法が不可能であるなら、「国家の主体が特定の階級である」とする国家理論もまた事実とは異なることになりましょう。
現在の日本国家をブルジョワジーの独裁国家である、などという見解も事実とは異なることになります。上で述べた複雑な有機体である市民社会における各構成員の欲求を、最大限公正・公平に調整し満たす調停機関、それが国家であるということです。
国家の権能は、市民各自の役割が小さかった時代には当然大きなものでした。しかし、市民として人間が成長し、自立してくる近代以降、国家の機能・権能は相対的に小さくなっていく傾向にあります。もちろん、いきなり個人のレベルにまで国家の役割が分担されることはあり得ませんが、自治体へ、あるいは超国家的国際組織へ、と(つまり、概念的に上と下へと)従来の国家の機能が分割されていく傾向にあるのが現下の情勢と言えます。それを支えるのがNGO・NPOであり、その構成員は「自立した個人」です。なお、こうした意味での国家は、人間集団の集まりである社会が続くかぎり、「死滅」も「廃絶」もしないでしょう。ただ、いまよりはその機能・権能は異なるものになると思います。
さて、問題は、上のような社会観・世界観・歴史観(私見ですが、おおよそ現状の世界で常識的とみていいように考えてますが)に立てず、旧来の階級社会認識と、それにもとづく階級闘争理論からまだ自己を解き放っていない個人・集団の場合です。彼らは現状をどう見ているのでしょうか? 一方ではグローバル化という市場原理主義的な流れがあり、それに対抗する旧来のナショナリズムの動きも出てきているのが現状の特徴でしょう。
それへの対抗運動は、一部左翼の側ではシアトルに示されるように右翼ナショナリズムと組んでの全体主義(内容的には、すでに歴史的に破産したラッダイト運動の縮小再生産)への誘惑という危険な傾向も見られます。共産党も無党派「市民運動」も、国家と市場の間で方針展望が出せないでいるのが現在の姿でしょう。彼らに言わせると、現在のグローバル化は「帝国主義者の陰謀」ということになるらしい。グローバル化に抗して、あくまで国家を盾に市場の適切な調整を目指す、というのが米国をも含めた欧米における新社会民主主義の基本方針でしょう。
日本では、新旧の社会民主主義勢力が不在なため、市場と国家の間でどうしたらよいか、適切な反応を打ち出せないでいるわけです。市場にも反対、しかし国家にも反対、したがって、いきなり「地球市民」とか「アソシエーション」と言って夢を見ているしかない有様なのです。共産党の場合は、非(反)共産党系諸党派(いわゆる「新左翼」「過激派」)や、無党派「市民運動」とは異なり、プロ政治の局面に確固として存在してはいるのですが、国家の当事者へと自らを押し上げ、党としての政策を国家の政策と化すような展望のないまま、(言葉は悪いものの)自己目的的な運動を繰り返しているだけ。その点で、(夢見るしかないという意味で)プロ政治の局面に存在しない非(反)共産党系諸党派や、無党派「市民運動」と大差ないわけです。
そして、旧来の階級社会認識と、それにもとづく階級闘争理論からまだ自己を解き放っていないという意味では、共産党中央とこの編集部の方々との間に大きな(本質における)違いはない、というのが私の感想です。