山本さん、『社会科学総合辞典』は想像以上にマルクス主義の原理的後退がみられる、と私は思います。理論水準が高い人が利用しているということですが、あれでは利用するだけ無駄になる、あるいはマルクスから遠ざかっていく、という感じがします。具体的な項目について、時間があれば指摘してその誤りを正していきたいですが、あれこそ今の共産党の公式見解ですね。一つだけ簡単に指摘しておくと、この『辞典』では「真理」については説かれていますが、その対立物である「誤謬」については何も書いていません。「相対的真理」の項では、人間の認識が部分的で不完全であるのは、もっぱら歴史的条件に制約されているからだ、と主張しています。そして、この不十分な相対的真理が集まって、絶対的真理に近づいていく、というのですが、これでは単に認識は発展する、といっているだけで、相対的真理とか絶対的真理とかいう大仰な言葉を使うまでもありません。もちろん、この真理論は、レーニン『唯物論と経験批判論』に基づくものですが、これではマルクス・エンゲルスの真理論からの後退です。本来、真理論を説くのであれば、誤謬との関係において、真理と誤謬の区別と連関やその相互転化を問題としなければなりません。レーニンはそんなことを問題にしていませんが、そのレーニンを『辞典』では、認識論を発展させた、などと絶賛している有様です。マルクス・エンゲルスは、一定の条件の下では真理は誤謬に転化するという、相互転化を認めたのですが、このような真理論を支持しなければ、誤謬の分析ができません。なぜ誤謬に陥ったのかが理解できないからです。レーニン真理論では、失敗から学ぶ、ということが理論的に不可能になるのです。これが、今の共産党の旧ソ連評価にも関係しているように思われます。
独裁の問題ですが、誤解されやすいというのならば、誤解が起こらないように、正しくその意味を説明すればいいと私は考えています。それを安直に訳語の変更ですましているのでは、自らマルクスの言う「プロレタリア独裁」について全く理解していないことを暴露しているようなものです。
『独習指定文献』は、はっきり言ってその意図が不明ですね。全党員が独習すべき文献というのであれば、『資本論』の特に二・三巻なんか不要だと思いますし、レーニンの『唯物論と経験批判論』は前回述べた理由で要りません。宮本顕治『党建設の基本方向』は一応入れてもいいかもしれませんが、(基本をおさえた者がその誤りを発見できるように)上級くらいにしておいて、それより運動論・組織論としては『何をなすべきか?』と『「左翼」小児病』をまず学習すべきです。この二文献を読めば、教条主義とは本来条件を無視して真理を適用することである、ということもわかり、「自主独立」などといって他国の経験を無視することもなくなるでしょう。
川上さん、学生の特殊性に気を使っていただき、ありがとうございます。私は今夏休みで比較的時間がとれるので、「練習試合」のつもりで投稿しているともいえます。仰るとおり勝ち負けは気にしていません。
「通常、日本語で独裁という言葉は個人独裁という語感を伴うので、その違いを説明するのはなかなか苦労がいります。1971年に、中央がこの語句を「ディクタツーラ」とか「執権」とかに変更するというときのおもな理由もそういうところにありました。」
上にも述べましたが、さらに付け加えると、大衆に向かってどのような言葉を使うかという問題と、革命論としてどの言葉を使うかという問題は別物ですよね。
プロ独とパリコミューンについてですが、パリコミューンだけをみると、社会革命に対する政治革命の先行性を否定することにもなりかねません。パリコミューンを論じた『フランスにおける内乱』は、しばしばマルクスのプロ独論が体系的に展開された著作であるとされていますが、ここで展開されたプロ独論はあくまでプロ独死滅論です。すなわち政治革命の問題ではなく、社会革命の問題を論じているのです。このことを考慮しておかなければ、パリというごく小さな地域で樹立されたコミューンを絶対化・普遍化する誤りに陥りかねません。端的に言うと、一国レベルでプロレタリアートの権力を確立するのは、当時のパリほど容易ではないということです。私たちが当面している課題は、政治革命的課題なのです。
「ソ連社会主義は、私たちが手本とする社会主義と位置づけることはできないにしても、この経験はやはり偉大な経験であり、そこから学ぶということが大切なことでしょう。歴史から学ぶということです。」
私はここを、「失敗から学ぶ」と、より普遍化して捉えています。先ほども書いたように、レーニン真理論では失敗から学べません。(善意に解釈しても)誤謬の原因をもっぱら歴史的制約に求めるのでは(あるいはそれに加えて個人的な資質の問題に解消するのでは)、主体的な努力によって失敗を避けることはできなくなります。
私は本当に失敗から学ぶことが重要であると思っています。日常活動の例を挙げますと、共産党はよく「前進している支部の経験に学ぶ」という表現を使いますよね。今日の赤旗だったかにも、前進している支部の法則的な教訓、というようなことが書いてありました。私の支部なんかは、この教訓など当然のこととして実行していますが、前進(=党員拡大での前進)していません。このような場合、前進している経験と失敗した経験を統一的に分析しなければ、一面的です。党の会議でも、成功の経験ばかり紹介していますが、これでは本当の意味での教条主義になってしまいます。つまり、あの成功した支部のようにやれば自分たちも成功するんだ、というような形でです。もう少しいえば、よくでてくる「教訓」なるものは、わざわざ前進している党組織を調査するまでもない、はっきり言ってできて当然のことばかりです(「法則的」に至っては、何とも大げさな表現です)。それができていないのだから、「これが教訓だ、このようにしろ」というのではなく、なぜ、いかなる条件の下におかれているために、これが実行できないのか、という分析に進まなければ、意味がありません。理論軽視の傾向も、指導部が役に立たない理論(例えばレーニン真理論)などを推薦しているからであって、末端の党員のやる気は副次的な問題だと思います。むしろ、指導部はそのような理論水準の低い党員を量産したがっているのではないか、と疑いたくもなります。
「もう少し、追加したいことがありますので、近日中にもう一度投稿する予定です。 」
期待していますが、私たち学生と違って暇ではないことは承知していますので、いつになってもかまいません。