まずは、現在の日共が「大衆運動」を「指導」する関係を清算し、党組織全体としては、いかなる「大衆運動」団体とも関係しない、という原則を確立すべきだ。個々の党員が両者を繋ぐにとどめ、「大衆運動」の自主性・自立性を損なわないよう配慮する必要がある。
そして、根本的な社会変革は下からの試行錯誤的な「大衆運動」なしには不可能であろうし、「共産主義者」の第一の任務は、そのような運動の先頭に立って骨を折ることであろう。「共産党」は、そのような「共産主義者」の連絡協議のセンターであればよく、党組織全体としては、いかなる対外的活動もせず、有害無益な党議拘束を排し、そうすることで、「民主」的な討論環境づくりに徹すればよいのではないか?
ただし、だからといって、「議会工作」が軽視されてよい、ということにはならない。下からの「大衆運動」が活発に行なわれるようにするための法制度の整備は不可欠であるし、それは、現在の「ブルジョア代議制」の枠内で進めてゆくしかない。
しかしながら、法制度の整備というのは、いわば枠組みの設定であって、その中での具体的な「大衆運動」には立ち入れないし、立ち入ろうとすべきでもない。言い換えれば、現在の日共も実質的に含まれるところの「左翼議会政党」が、根本的な社会変革を齎しうる下からの「大衆運動」の中身に
責任を負う必要などない、ということだ。
そのことを弁えた上で、余裕のある「共産主義者」有志が、「議会工作」の一環として、「共産主義」の実現を目的とはしない「左翼議会政党」の運営に係わり、党内の官僚的統制を排して、より広範囲の有権者を巻き込みつつ、必要な法制度の整備を進めてゆけばよかろう。
現在の日共が、以上に述べたような、互いに直接には関係し合わない、「共産党」と「左翼議会政党」とに分かれてしまった方が、格段に、個々の「共産主義者」の個性が発揮されるようになる、と私は確信している。