某社会主義大国との交易会社「○○民芸品センタ-」(社長が党幹部)の設立を控え、スタ-トまで本業の建設業を手伝うという約束で就職しました。
1966年3月、「党の命令に従わなかった。俺に楯突く奴はどいつもこいつもブチのめす! 今、カンボジアでは人が殺されよる。お前のような役に立たない奴は死んでしまえ!」と社長が私の頭を鉄棒で撲り生命危篤の重傷を負わせました。
犯行現場は会社のオフイス&党事務所であり、数名の党員が常時詰めていました。
加害者は所属細胞(支部)長を立会人として呼ぶなど計画的でした。
知らせで駆けつけた県党指導者Wは、現場にいた党員3名に「本人が社長に喧嘩を売り、自分で転び机の角で頭を打った」と偽証するよう命じ、関係者には厳重な箝口令をしきました。
指導者Wは県常任会議にも諮らず「本人は党に反抗する者」であり「撲られても仕方なかった」とした通達を各級機関に下ろしました。
或る党員の電話で事件を知った中央委員会は県党に「詳しい調査報告」を提出するよう求めましたが、県党はこれを無視したのみならず、中央に知らせた人物の犯人探しをしました。
半年後、植物状態から回復した私はおぞましい謀略!が行なわれている事を露知らず所属細胞(支部)会議に出席しようとすると、頑強に拒否されました。
その会議に指導者Wと地区委員が出席し「加害者を将来党に帰すために除名ではなく離党の扱い」とするよう指示しました。その上で加害者を激励する文書を作成させました。
私は県党と中央委員会に「意見書」を提出しました。確かに受け取ったという文書が来たものの肝心の回答は無く、再々催促しましたが完全に黙殺されました。
自宅には指導者の配下が入れ替わり立ち代わり来ては「事件のことを喋ってはならない。これは党の命令だ」と圧力(時には暴力的な)を加えられ、永く彼らの監視下に置かれました。
1996年になって中央委員会訴願委員会が「意見書が常任幹部会で読まれた。調査の結果意見書の内容は全体的に正確であった」という報告をしました。
訴願委員会責任者(当時)市川正一氏は「結果的に三十余年もの長い間放置していたことを中央委員会常任幹部会を代表してお詫びする」と口頭で伝えました。
新しい世代の県委員長Mは「これは組織犯罪である」と総括しました。
しかし、中央委員会は「事件は事業上のトラブルから起こったもの」で「共産党とは関係がなかった」と結論し、当時の関係者は高齢者となり記憶が定かでない者がいると痴呆老人扱いにして「これ以上の調査はしようがない」と強引に幕引きをしました。
綱領と規約に基づき、厳正な党の調査が開始されて組織の暗部が白日の下に曝されることを望んでいましたが、この幕引きによって党に対する長年の期待と信頼が完全に裏切られました。
祖父の時代からのキリスト教徒の家庭で育てられた私たちに「やられたらやりかえす」という考え方は、そもそも始めからありません。我々に代わって、正義の日本共産党が必ずや審判を下してくれる固く信じていました。ところが県党は「謀って罪におとしいれる」「事実でないことを事実のようにこしらえて言う」秘密警察なみの手法で報いました。
※ 事務所に入ると二十歳の青年(従業員非党員)が社長に皮靴で殴打され両顔面がひどく腫れあがっていました。彼が前日「メニエ-ル病」と診断され、指示された仕事が出来なかった経緯を話している最中「問答無用」と鉄棒で撲られたものです。
加害者はカンボジアのポル・ポト虐殺を叫んで暴力を振るいました。未だ恐怖感がとれないことは、指導者に「事件を隠蔽するためには殺人も肯定する」論理が働いていることです。
これは「スタ-リン主義」「専制主義」「利権」などが彼らの背後にあるとしか考えられません。
日本共産党綱領には「組織的かつ系統的な暴力、一般に人間にたいするあらゆる暴力は廃絶される」と明記されています。
この事件は、まさに組織的かつ系統的な暴力ではないでしょうか?
1997年、「責任者の謝罪」と「名誉回復の措置」を要求する意見書を提出しましたが、党は「この問題は解決済み」であり「これ以上の発言をすればお前を処分する」という回答。また「党中央と地方の党は、今後お前が何を言っても無視すると意思統一した」と一方的に通告してきました。
党であってはならない反社会的事件が発生し、永年隠蔽されてきました。綱領と規約に著しく反したものであることは明らかです。
にも関わらず指導者の指導責任、結果責任、説明責任など党が追求することはありません。問題は何ひとつとして解決(払拭)していません。真の党は何処に存在しているのか分からなくなりました。
綱領・規約が急速に色褪せて見えるようになったのは私だけでしょうか?
全国党員の綱領・規約に基づく積極的な発言を期待します。
※ 「殺人未遂事件」詳細①から⑨ 党員投稿欄2001年3月3日付