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「組織論・運動論」討論欄

新しい時代における議論の仕方について

2002/9/9 岩本兼雄

 NHKのテレビ番組に「プロジェクトX」という番組があるが、先日、その番組でワープロ製作の苦労話が放映されていた。企業が契約書を作成するにあたり、和文タイプの非効率に手を焼いていたことから発想された問題であった。5万の漢字とひらがな、カタカナをどのようにして簡単に英文タイプライターのように、活字の文章にするかという技術屋の話であるが、その番組を見ながらふと思ったことがある。
 それはどうしてコミュニズムが負けてしまったのか、ということである。

1、敗因のひとつ
 コミュニズムの側は、いろいろな政治的問題に直面して、その問題をああでもない、こうでもないと、泊まり込みでいろいろな意見を出し合い、不具合を指摘し、それをさらに検討し直すというようなことを繰り返し繰り返し議論を重ねて、さらにはテスト(実践)を繰り返すということを行ってきたであろうか、ということである。
 こうした議論のぶつかり合い、議論の練り上げということがあまり行われないうちに、早くもどこからか、権威筋がご託宣をのたまうか、あるいは、論争が始まるやいなや、理論的な批判が「角材による批判」にとってかわることがあまりに多かったように思うのである。
 これでは、とうてい資本主義に太刀打ちできるはずもない。
 3人の天才にあまりにも頼りすぎ、彼らの権威に依存しすぎてきたのである。

2、悪しき伝統
 社会主義世界体制崩壊後の今日、我々は周知を集め、議論を練り上げる訓練、そういって良ければ習慣(民主主義の新たな側面・質、インターネット社会が要求する本質的側面と呼べばよかろうか)を身につける必要があるのではなかろうか。この問題は私見では例の「民主集中性」問題の重要な一角を構成する。
 そこから、やり直していかないかぎり、新たに何物をも生み出すことができないように思うのである。
 ところが、今日においても、事態はさっぱり変わっていないように見える。「さざ波通信」27号の議論をみてもそうだが、一旦不破哲三氏に民族主義的偏向の烙印を押せば、後はどんな議論であれ、その現れとばかりに片言隻句をとらえて、烙印を押しまくる議論の仕方(私の投稿「さざ波27号を批判する」の参照を乞う)は、いわば日本左翼の悪しき伝統のようなものである。こうした議論の仕方は生産性がないばかりでなく、いや、それゆえに必然的に「角材による不毛な批判」に堕すことはもはや歴史的に経験済みのことである。
 私にいわせれば、今日、これまでの社会主義の古典的諸範疇を洗いざらい現代の状況に照らして再検討しなければならない事態(注1)の中にあって、どの論稿で確定したのか不明(私は「さざ波通信」の全論稿を読んだのであるが)な議論を証明済みのものとして振り回す愚は救いようがないというのが実感である。
 これでは、そうした議論にどこかで納得した者以外にはまったく理解できない、いわば隠語による主張であり、「教団」の外部からアクセスする者には閉鎖されたサイトということになる。貴サイトはそれでいいのだろうか?
(注1)、新たな現実に対峙して、多くの分野で様々な研究が行われていることを知ることは何より有益である。たとえば、経済学の分野では「ポスト冷戦研究会」というホームページを最近見つけたが、そこでは古典的諸概念を歴史的に限定してとらえ、現代経済世界を把握する研究がみられる。この研究会が行っている議論と貴紙の「さざ波通信」5号の「制約された従属帝国主義論」とを比較してみるといい。議論の当否は別にして現代を把握するための古典と向かい合う姿勢は歴然とした相違がある。貴紙のそれはレーニン「帝国主義論」にいまだ直接依拠しており、片やレーニン段階を歴史的に限定された世界としてとらえる冷戦帝国主義段階をいい、それすら解体しつつある世界として現代をとらえている。こうした現代世界では貴紙のいう「民族主義的偏向」の前提であるところの民族主義自体が日本で成立するのかどうかすら問われることになる。

3、貴サイトに望むこと
 インターネットという新しい道具を無意識のうちに悪しき伝統に従った古色蒼然たる議論の仕方で使ってみたところで、その効果のほどは悪しき伝統の範囲をでることはないように思われるのである。
 大事なことは、自己の議論を広い視野から再検討しつつ、軽信せず、軽々しくレッテルを貼ることを避け、批判は厳格な論証を自己に課しつつ、相互に対話が可能な議論の仕方を工夫することである。相手が反党サイトだと言おうが言うまいが、おかまいなしに、こうした姿勢、工夫を貫く、双方向性を追求する構えが必要ではないであろうか。
 新しい皮袋には新しい酒が満たされるべきであり、そのためには、まず議論の仕方をもっともっと練り上げる必要があるのではあるまいか。問われているのは日本共産党中央ばかりではないのである。批判はたえずその厳格な論証を自己に課すことによって、はじめて批判する双方にとって有益な契機となるのである。