J.D氏のマルクス主義のイロハと題する一連の文章をとても興味深く拝見した。なかでも面白く感じたのは日本は「国家独占資本主義」の段階にあるとした定義と(その通りだとは思う)、いまの共産党員には階級意識がないというところだ。
私はマルクス主義者ではない。理由はいろいろだが、マルクス主義は産業革命後のイギリスで生まれたものだと思っているし、したがって彼が言うように万国の歴史に普遍的に作用するものではないと思っている。
私が今回取り上げたいのは日本共産党の「日本」の部分。わが国のアジア性のことだ。
そもそも階級とはなんであろう? 当然、生産手段を持つ者と持たぬ者のちがいのことであるが、わが国の無産階級者の内いったいどれだけの者が何代もの階級の伝統をもっているだろう。代を遡ればたとえ小作農であっても自らの食い扶持は生産できる階級ではなかったか? いや、今でも労働者の大半は田舎へ帰れば農民ということではないのか? これが第一点。
ブルジョア革命後、現代に至るまで人類が実現できた最も公平なシステムは自由と民主主義のシステムである。(経済的な不公平は残るが)各人一律一票の投票権と基本的人権の保障からなる個人自由の確立を目指すシステムである。共産党もこのシステムの保証下で合法的に存在している。
このシステムは自分たちの問題(または権益)に根本的に対立しているとの自覚のもと、民主の原則から言えば極めて奇怪ではあるが、プロ独と民主集中制という概念を持った共産党があるということらしい。資本主義経済が行き詰まった時に共産主義に移行するのが自然な流れという話も確かにあり得るのかもしれない。
しかし日本社会はそこまで成熟していないと思う。戦前の軍国主義や戦後の企業社会に見られるよう、全体主義に陥りやすいこの国の民の性質は、真の市民社会を経過していないアジア的歴史に求められる。現段階での改革はそこにあると思うし、それを経ずして共産党を作ったところで全体主義に陥るのは必然だと思う。社会権を強める運動は必要だと思うが、それは共産党本来の任務ではないんですよね?