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「組織論・運動論」討論欄

或る友人からの手紙・再論

2002/11/24 桜坂 智史、50代

 私はJCPウオッチに「或る友人からの手紙」を投稿した。それに対して、実際に救援運動もされている誠実な実践家のかたからご批判をいただいた。
 以下はその返信である。なお、相手のお名前を仮にJさんとさせていただく。関心のあるかたは直接、JCPウオッチを参照していただければ、彼の真意もより的確に読者諸氏に伝わることと思う。

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 Jさん、どうもです。 

>  私は金正日一派への批判者であり、当然今回の「週刊金曜日」へも大いに批判を持つものであります。

 わたしもキムジョンイルの批判者です。それと週刊金曜日の記事とをごちゃまぜにしたら、問題は見えてこないのではありませんか。その理由はこれから記します。

>  さて私は既に80年代に、亜紀書房刊「凍土の共和国」や萩原遼「ソウルと平壌」を読んだ頃から、「北朝鮮」には大いなる疑問と関心を寄せてきました。丁度ソ連東欧の崩壊、大韓航空機爆破事件の頃であり、又ソウルオリンピック後の韓国を訪問する機会があり、その経済発展ぶりに驚かされたことも疑問に拍車をかけることになりました。
>  90年代初頭文春等に「日本人行方不明学生北朝鮮拉致説」が掲載された頃から、「拉致問題」にも関心を寄せ、初期の段階から拉致被害者家族支援にも参加してきました。

 わたしも萩原遼さん(井出愚樹さん)の翻訳や著作によって蒙を啓かれた思いがしました。『北朝鮮に消えた友と私の物語』の書評を週刊金曜日に執筆したときに、萩原さんから丁重なお手紙とご著作をいただき、萩原氏の見解の深さをいっそうよく理解することができました。

>  そうであるがゆえに、十派一からげに「拉致問題を巡っての北朝鮮批判は排外主義へ手を貸すことになる」というような見方をされるのは、非常に心外であります。
>  私は、「金正日一派は日朝両国人民共同の敵であり、北朝鮮への補償は飽くまで北朝鮮人民に対してなされるものでなければならず、北朝鮮人民を何等代表する資格のない金正日一派に対して行ってはならない。北朝鮮人民の金正日一派を追放する闘いを支援するのと、統一的に北朝鮮人民への補償を追求しなければならない。こうした日朝両国人民の共同の営みを通じてこそ、日本人の一部にある排外主義的傾向も克服できる」という立場であります。

 私もほぼその立場に賛成しています。

>  私も現在加藤氏の新著「国境を越えるユートピア」平凡社ライブラリーを読んでいます。氏がライフワークとして追究されてきた「天皇制絶対主義の戦前日本を逃れ、ユートピアを求めて入ソした日本人達を待受けていた悲惨な運命」と、「北朝鮮の悲惨な現状」とは奇妙に重なり合って来ました。

「国境を越えるユートピア」は、『国民国家のエルゴロジー』の改訂版ですね。私は、いまは休刊している『月刊フォーラム』1996年6月号に、 『現実に対峙する加藤哲郎氏の政治学~
「モスクワで粛清された日本人」「国民国家のエルゴロジー」を読む』
を書き、掲載されています。眼にする機会があったら、ご一瞥いただければさいわいです。

>そうであるがゆえに、加藤氏が今回の「週刊金曜日」に批判的な見解を示されたのも当然と大いに納得できました。

 ここなのです。
 肝心のここの論理が違う。
 加藤氏の所論の正しさと週刊金曜日のジャーナリズムとしてのありかたと混同されていませんか。金曜日はキムジョンイルを正しいという立場で報道していますか。そんな金曜日が萩原遼さんの著作書評や記事を載せますか。私は掲載号もそのつぎの最新号もすべて眼をとおしました。そのような先入観を除去した眼で検討することこそ、社会科学者の仕事なのに、倫理観という名の先入見だけで判断しかけているきらいはありませんか、加藤哲郎氏に。私は『加藤哲郎のネチズン・カレッジ』も読みました。読んで共感をおぼえたから、加藤氏とともに有田芳生氏がすすめている新聞広告にも連帯して、協同の運動に末端で加わる意思表示をメールで有田氏にも送りました。
 Jさん、ここは正念場です。運動の総体からひとつひとつを点検しながら、吟味していかないと、容易に足をすくわれますよ。
 共産党員でさえヨーロッパの社会民主党がつぎつぎに第一次世界大戦に祖国防衛戦争支持と、合流していった。歴史の教訓に学ばないと、一気に濁流は押し流していくことでしょう。
 加藤氏の正しさと、マスメディア・マスコミの情報媒体としての役割と分析とは、よくよく実証的に吟味しないと、高揚した国民感情によって、なにかを置き忘れていきはしませんか。
運動が高揚しているときに、冷静な理論家は少数派として出発せざるをえない。そしてその理論や論理が正しいときだけかろうじて、少数派はやがて多数派として理論は世論・常識(コモン・センス)になっていくことでしょう。

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