先日大学時代の友人である専従者の何人かと「日の丸・君が代」問題について話す機会がありました。これだけ強烈な路線転換が行なわれているのだから、彼らなりに悩みがあるのではないかと思っていましたが、私の考えが甘いと言うべきなのでしょうか、彼らは何の躊躇もなく、そして私に対する侮蔑を示して、法制化賛成論を展開したのです。それは、専従という立場上法制化賛成を言わざるをえないといったものではなく、中央の方針を何ら疑うことなく受容する思考態度とでもいうべきものでした。彼らはそれぞれ個性的で人間的にも魅力的なのですが、それだけに彼らがそうした思考態度にはまり込んでいるということは本当に哀れで悲しいことだと感じました。
私は彼らを責めるつもりはありません。そうした対立があっても、私は大局的には(宮本顕治が好きな言葉です )彼らを信頼し、尊敬しています。そして私自身、大学卒業後の友人との出会いや運動とのかかわりがなかったならば、今もまだそうした態度を脱していなかったでしょう。しかし自分たちが大学時代に勉強会を繰り返してきたのは一体なんだったのだろう、いろいろ努力しながら勉強してきても、結局「自分の頭で考える」という社会科学を学ぶ上で最も基本的なことを自分たちは大学時代に身につけられなかったのではないか、と暗澹たる気持ちになったのです。
共産党全体がそうで、私たちの大学は特にそうだったのですが、こうしたことの背景の一つには「運動に揉まれる」という経験の乏しさがあるのではないか、と思います。運動と言えば選挙と機関紙拡大でしかない、そうした大衆から閉鎖された社会の住人だけが「党の方針=真理」などというおよそ国民諸階層の利害の錯綜や運動におけるもろもろの葛藤を理解しない教条を信じていられるのです。かつては私もその教条を疑っていませんでしたが、これも今思えば極めて幼稚な自己完結的論理です。党が前進すれば、「真理が理解された」と解釈し、後退すれば「反共偏見」のせいである、となるのですから、そこに現状分析に値するものはなく、かつその内部にとどまる限り自己を疑うことがないのです。そうした思考態度はネオマルクス主義批判や丸山真男批判に表れるように、他者の議論を自分の(しかも陳腐な )図式を通してしか見ることができない人間を数多く生みだしてしまいました。これは大変深刻なことです。このままいけば、次の党大会は歴史的な右転向決議を全会一致で採択することでしょう。
何ゆえ「自分の頭で考える」ことのできない党員が多いか、という問題は是非この場で議論すべきことであると思います。それは個々の党員の責任だけではなく、時代的な根拠があるのでしょう。大まかに言えば、それは運動の弱さの反映、ということになるのだと思いますが、まさに不破指導部によって右傾化路線が注入されようとしている昨今、われわれはこの問題をより具体的、より実践的に、そして真剣に考えなければなりません。