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「組織論・運動論」討論欄

党勢拡大路線は正しいか

1999/6/19 川上慎一、50代

 4中総で、6年半ぶりに党勢拡大の「月間」(集中的な取り組み)が決定されました。目標を定めて計画的に党勢を拡大するという路線(以下「党勢拡大・拡大運動」とはこのようなものを指す)に対する批判は、この「さざ波」でもあまり見かけません。私が読んだ中では吉野さんの「『積み木理論』の誤りについて>Kミナトさんへ」ぐらいでした。すべての通信、投稿を詳細に読んだわけではありませんから、もし、私の速断であればお許しをいただくよりありません。
 まず、この運動の否定的な側面を述べます。さざ波への投稿者の中では私は最高齢に近いのではないかと思います。団塊の世代の近くにいます。1960年代の後半から狂気としかいえないような党勢拡大運動が間断なく展開されました。そこではどんなことが起きたかいくつか例をあげます。おそらく近年入党した人には信じてもらえないかもしれませんが。
 「24時間党員」という言葉が流行したときがあります。これは分かりやすくいうと「常にどんなときでも拡大を忘れるな」ということです。拡大月間があると、それぞれの職場、学園、地域でどんな課題があっても、すべての党組織は拡大運動に突入しなければなりません。地区活動者会議が夜中の1時、2時に開かれることもときどきありました。しかもその召集はたいていはその日の数時間前です。学生だった私は往復の交通費だけ工面して出かけたことがあります。地区党幹部に激しく気合いを入れられ決意表明をさせられます。拡大以外に当面する課題をやらなければならないという気もあるし、率直にいってあまり気の進む活動ではありませんでしたが、強大な党を築くことは日本革命にとって欠くことができない事業であることを自分で自分に納得させ、拡大に突入していったものです。どうしても職場や学園で拡大できないときは、夜、町の中へ行って、見ず知らずの人に「赤旗」を取りませんかと声をかけるような党員さえいました。
 期限と目標を申告させられ、厳しく点検、追及されます。当時はまだ現在のような配達網ができていませんでしたから、職場や学園あるいはその近くにポストという場所を作ってそこへ分局の人が新聞「アカハタ」を持ってきます。そこから担当の学生党員が学園のクラブハウスなどへ持ってきます。無理な拡大をしていますから、日刊紙も日曜版もなかなか配達できません。そのクラブハウスにはじきに新聞紙の山ができあがります。数カ月ごとに古紙回収業者のもとへリヤカーで古新聞を売りに行きます。
 毎月の紙代(新聞代)の上納はもちろんとてもきちんとはできません。累積赤字が膨らむと機関から指導が入り、やむなくLC(細胞委員会)の人たちが中心になってアルバイトをしたり、貯金を下ろしたりして支払います。
 こういうことの繰り返しです。「すべてを犠牲にして」といってもいいほどの活動をして拡大しても、翌月にはきれいに減紙します。「賽の河原の石積み」のごとく、同じことの繰り返しでした。多くの党員はこうして消耗していきました。党員の拡大にしても同様でした。党員を拡大する基本は「説得」でした。誤解を恐れずにいえば一種の「マインドコントロール」といえるかもしれません。党活動に結集しなくなる「未結集」党員が次第に増加していきます。安保闘争とそれ以後の大衆闘争の高揚の中で本当に多くの経営(職場)に党組織ができました。そして、この拡大運動の中でどれほどの細胞(支部)が壊れていったかもはかり知れません。
 厳しい地区機関の追及に耐えかねて、学業半ばにして姿を消し、ようとして行方が知れなくなってしまった人、自立的な日常生活ができなくなってしまった人、「自律神経失調症」という病気にかかる人(常任の職業病といわれた)も少なくありませんでした。
 それでも支部の党員は、常任(専従)と違って党から給料を貰っていませんから必ずしも機関に結集する必要はありません。機関との間にできるだけ距離を保ちさえすれば、職場や学園の課題で闘いを展開することが可能でした。ただし、これら課題で私たちの支部が困っているときに、党機関からただの1回も指導や援助を受けたことはありませんでした。それができるメンバーが(結果的に)機関にはいなかったのでしょう。そういう能力をもつ常任活動家はもちろんいたに違いありませんが、彼らの頭の中には拡大以外のことが存在しなかったのでしょう。
 やがて、私たちの支部委員会のメンバーの中には、「LCは地区機関に対して防波堤の役割をすべきだ」というような意見さえ出るようになってきました。私の知る限りでは、この狂気の拡大の季節に、なおそれなりの健全さを保持し得た支部はこのようなところしかありませんでした。
 その後、急上昇急暴落(月間で拡大した分がすぐに減少してしまうことをこのように表現したことがあります)は、配達網が完備しなかったからだということで、膨大なエネルギーと4、5年の歳月を費やして配達網を完備することに取り組みました。しかし、配達網が完備しても急上昇急暴落は続きました。現在の部数は1970年代の初頭とほとんど変わらないのではないでしょうか。
 党がどのようにして壊れていくかという現象について述べました。こういう党活動を長年に渡って続けるとどういう結果がもたらされるか、ということについて述べます。まず、「大衆運動と党勢拡大の2本足の活動」についてですが、これは実際には不可能なことです。「大衆運動は社会民主主義者でもやる。党勢拡大は党独自の課題である。」という意味の言葉は、他ならぬ宮本前議長の言葉です。彼がこのように発言したのは1960年代の終わり頃の中央の会議だったと記憶しています。私の彼に対する信頼が次第に揺らいでいく1つのきっかけとなりました。理論的にどうして事実上1本足になるかは別の機会に譲ることにします。
 長年の党勢拡大路線の結果、党活動が拡大と選挙だけに矮小化され、大衆運動がほとんどできない党になってしまいました。四中総で不破委員長は「地域、職場、学園に責任をおい、大衆運動にもとりくみながら着実に党勢も増やす、そして自分たちの計画をもって将来の展望を自主的に見通しながら、いわば自前で活動している支部が…全国で約二千七百にのぼる」と報告し、これを評価しています。「二千七百」という数は全国の支部の約1割だということです。現在でもこのように活動していると支部があるということはすごいことでしょうが、本来、党の支部はすべてがこのように活動するものであることが当然であるとするなら、1割という数は党破壊の現状が驚くべき状態にまで進行していると見るべきではないでしょうか。
 拡大運動は、目標を定め、厳しく追及することを基本的な手段としています。党内の思想動員(党員をその気にさせること)をしなければなりません。一種の刺激を与えることですが、これは次第に刺激の度合いを強めていかなければ効果が持続しません。馬を走らせるときに最初は1つのムチで走るでしょう。しかし、その次はムチは2つ入れなければなりません。最後には、ムチを入れ続けなければならなくなるでしょう。こういう状態が長く続けば、党員は上から何か言われなければ何もやらないという状態に慣れてしまいます。「自分の頭でものを考えない党員」がこれほど多くなってしまったことに、党勢拡大運動が大きく貢献していることは明らかでしょう。
 幹部会報告によれば、6年半にわたってこのような「月間」をやらなかったそうですが、それがなぜかは述べていないので分かりませんが、「やれなかった」というのが真相ではないかと思います。急上昇急暴落が解決できなかったこと、党破壊の状況があまりにも深刻であったことがその原因ではないかと私は推測しています。
 この党勢拡大運動は、議会主義と不可分に結びついた不破指導部の総路線ですから、彼らはやめないでしょう。また、党勢拡大路線がどれほど有害であるかについては、実はもっと深い革命の総路線上の問題です。冒頭にあげた、吉野さんの「積み木理論」についての投稿は、その点も意識した党勢拡大路線に関する批判でしょう。この点に関しては、また、いつか投稿したいと思います。とりあえずは四中総で提起された拡大運動はやめるべきであるということと、急上昇急暴落は避けられないということだけを述べておきます。