というわけで、こちらにてレスいたします。
まず、いくつか事実認識のレベルで認識を一致させておく必要があると思われます。げじげじさんは、「多くの『社会主義国』が『崩壊』し、各国の共産主義政党やその運動が低迷している中、日本共産党の存在はきわめて重要だと思います」とおっしゃています。
まずいわゆる社会主義国の崩壊ですが、これはなぜそもそも崩壊したんでしょう? 分派闘争を認めたからですか? 党内の意見を公表していたからですか? 違うでしょう。その逆でしょう。いかなる分派も認めず、一枚岩の外観を作り出すことに全力をつくし、異端を排除し、討論を抑圧してきたからでしょう。そのような状態の中で、たとえ党指導部が大きな間違いをしてもそれが修正されることはないし、あるいは修正されても、大きな災厄をもたらしてからようやくだ、といった状況だったからこそ、変化についていけず、崩壊したのではないですか? もっと早くからオープンな討論をやり、たとえ主流派が失敗しても、代わって党運営を担えるような健全分派が存在していたら、ああもあっさりとは崩壊しなかったでしょう。民衆の意見はより党および国家の運営に反映されたでしょうし、あれほど大きな不信と怒りをもたれることもなかったでしょう。そうではないですか?
第2に、各国の共産主義政党やその運動が低迷しているというのも、事実認識として間違っています。ヨーロッパの各共産党は、90年代に大きな内部改革を経験し、分派を認め、公開討論の自由を認めました。それによって、組織が崩壊するどころか、あるいは低迷するどころか、その国における最も誠実で真面目な党外左翼の人々を党に引きつけて、選挙であれ大衆運動であれ、大きな前進をしています。イタリアの共産主義再建党がそうですし、ドイツの民主的社会主義党がそうですし、スペインの統一左翼がそうです。もちろん、フランス共産党のように低迷しているところもあります。これは、かつて最もスターリン主義的といわれた政党であり、ソ連にもべったりでした。
もちろん、分派の自由や公開討論の自由が、野放図な分派闘争を生んだり、無原則的な討論のあり方を生んで、活動と組織に混乱をもたらすこともありえます。その可能性を否定する者は誰もいないでしょう。だからこそ、そのような無原則的な状態にならない形でどのように党内民主主義を保障するかという、徹底した討論と試行錯誤が必要なのです。これは一筋縄ではいかない問題です。
しかし、いずれにしても、日本共産党の現在の規約が、スターリン時代のものを基本的に受け継いでいること、そしてそれを大会ごとにいっそう中央集権的なものにどんどん改悪していったこと、このことはよく知られている事実です。スターリン以降のソ連を「社会主義とは無縁」と言い放ちながら、そのときに制定された規約を今も後生大事に堅持しているのは、まったく理屈に合いませんね。
げじげじさんは、ロシア革命のときとは状況が違うとおっしゃっています。たしかに状況が違います。しかし、どういう意味で違うのでしょうか? 当時のロシア共産党は、多くの国民が字を読めないような状況下で、そして議会制民主主義や出版の自由、表現の自由、結社の自由さえまったくない状況下で、党内における討論の自由と分派の自由を保証してきました。つまり、当時のレーニン指導下のボリシェヴィキは、国家が許容する自由よりも大きな自由と民主主義を党員に保証してきたのです。だからこそ、それはツァーリ国家に対して道徳的な優越性を保持できたのです。ところが現在はどうですか? 日本国家自身が、表現の自由、結社の自由を認めているというのに、共産党の内部では、支部という仕切られた範囲でしか討論できないとされており(規約の通常の解釈によれば、ですが)、分派の自由も認められておりません。つまり、日本共産党が党員に認めている自由と民主主義は、共産党が反動的とみなしている(したがって革命の対象としている)国家そのものの認める民主主義よりも貧困なのです。まったく、道徳的優越性もへったくれもありませんね。
たしかに、状況は違います。しかし、その違いは、現在の党内民主主義の貧困さを正当化するものではなく、むしろそれをいっそう断罪するものです。ツァーリ政権下で過酷な弾圧にさらされていたボリシェヴィキが自由な討論と分派を認めていたのに、完全に合法の地位を持っている共産党がそれすら認めない、それは実におかしいですね。
げじげじさんによれば、そのような党内体制を持っていたからこそ、現在の共産党の陣地があるとおっしゃいます。それはたしかに一面真理です。同じことは公明党・創価学会にも言えるでしょう。維持するだけで、このままずっといくというのなら、それもけっこうでしょう。しかし、その道は、別の投稿でヤス同志が指摘したように、現在の40代、50代の世代が引退する年になれば、必然的に党そのものも衰退するでしょうね。そんな後のこと知らん、というのなら話は別ですが、まだ30代である私は、そんなふうに考えることはとうていできません。
げじげじさんは、「日本共産党の存在はきわめて重要」とおっしゃいます。外国の党と比べるのではなく、日本の政治状況の中で共産党の位置を考えるのなら、まさに日本共産党の重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはないぐらいです。しかし、だからこそ、共産党の政策が全党の英知によってではなく、指導部のその時々の気まぐれで決定されるような状態をなくさなければならないのです。全党の英知を結集するためには、公然たる討論は絶対に欠かせません。現在のような、討論が基本的に支部会議の範囲で仕切られているかぎり、絶対に党内討論など成立しません。たとえば、日本政府のあれこれの政策の議論が、町内会の範囲での議論しか認められなかったとしたら、国民的討論など可能だと思いますか?
おそらくこの辺になると、共産党指導部の現状に対する認識の差が決定的なのでしょう。国旗・国歌の法制化の問題をはじめとする、この間の指導部の一連の失策をどう見るか、それは失策ですらなく、正しい方針であったと見るのか、あるいは、失策かもしれないがどうでもいい問題だと見るのか、あるいは、失策でありかつ日本の民主主義にとって重大な問題だ見るのか、この辺の意見の相違が結局、組織論での意見の相違にもつながっているのでしょうね。
共産党内部の民主主義の成熟のためには、日本国民自身の民主主義の成熟は欠かせません。ある政党が外部から見て完全に一枚岩の外観を有し、どの党員に意見を求めても同じことしか言わないような政党が、よくまとまっていていい政党だ、と思う国民(あるいは、もっと限定して革新派の国民)が多いとしたら、そのときには共産党内部の民主主義も前進は望めないでしょう。もちろん、本来はその場合でも、共産党は成熟した民主主義の実例を自ら見せることで「前衛」的役割を発揮しなければならないのですが。
無原則的な分派闘争や無原則的な自由の濫用に陥ることなく、党内民主主義をいかにして発展させ成熟させるのか、これは実に壮大な歴史的課題でしょう。それは一朝一夕に解決できることではありません。しかし、『さざ波通信』の試みはその一つの端緒ではないかと、私なんぞは思っています。つまり、これまでなら、すぐに分派だ、分裂だ、共産党打倒だ、となっていたのが、『さざ波通信』は、広範な討論を組織する、指導部の政策を批判的に検討するという立場をとりつつ、分派を作らない、共産党打倒の立場と一線を画する、誹謗・中傷のたぐいは掲載しない、といったルールをつくり、それを実践しています。これはおそらく初めての例ではないですか?
これまで、異論があっても党内に残りたい人は、その異論を胸のうちにしまいこんで、絶対に信頼できるごく近しい人にのみ自分の意見を吐露するという、ほとんど地下活動家のような態度をとってきました。逆に、異論をどうしても堂々と主張したい人は、党から出て行く覚悟で異論を公表する、あるいは、事前に党を辞めてから異論を公表するという選択をとってきました。つまり、党に残るということと異論を堂々と主張するということとは、これまで両立しなかったのです(典型的には新日和見主義者の人々ですね)。その両立可能性をはじめて示したのが、この『さざ波』ではないか、と私は思っています。
その意味で、げじげじさんが、あくまでも党内改革を目指すべきというのは、言わずもがなであり、『さざ波』もそれを目指しているのではないですか? ただ問題は、その党内改革を目指すということが、はたして絶対的に異論の公表ということと矛盾するのかどうか、です。私は矛盾しないと思います。これは、むしろ民主主義の基本ではないでしょうか? 異論の公表=敵対、分裂行為、という発想こそ、全体主義的なのではないでしょうか? あえて言えば、スターリン主義的なのではないでしょうか?
せっかくできたばっかりのものの芽を摘み取ってしまうのがいいのか、もう少し長い目で見て、この試みをもっと積極的に生かす方向を模索するのがいいのか、そこがすべての党員および支持者に問われていると思います。ROMのみなさんを含めて、どう思われますか?