というわけで、こちらで回答させていただきます。
まず、げじげじさんは次のように述べられています。
「『さざ波通信』は『反党的な分派もあれば、そうでない分派もある』といっていますが、『反党的な分派』と『そうでない分派』の基準は何ですか?」。
むしろ私たちが疑問なのは、どうして分派がすべて反党的であるなどと決めつけられるのか、です。現在の党規約は、分派を禁止しているスターリン規約にのっとっています。レーニン時代の規約には分派禁止規定はありませんでした。
たしかに1921年の第10回党大会で、分派を禁止する決議が上げられましたが、あれは内戦直後で、クロンシュタット反乱や、深刻な国土の荒廃と生産の崩壊(工業生産高は戦前の10分の1程度に落ちていました)、長引いた内戦と飢餓によるとてつもない民衆不満、農村でのあいつぐ武装反乱など、まさに国家崩壊の瀬戸際にあるもとで、臨時的措置として導入されたものです。もしこれが原則なら規約に入れられたはずですが、第10回党大会においても、第11回党大会においても、第12回党大会においても、そういうことはなされませんでした。つまりレーニン存命中はあくまでも決議の水準だったのです。規約にまで昇格したのは、スターリン時代になってからです。
しかも、第10回党大会での分派禁止決議を読めばわかるように、レーニンはその決議の中で、全党的討論のための「『討論用リーフレット』や特別の論集をもっと規則的に発行するよう」勧告しています(『レーニン全集』第32巻、254頁)。「党内問題を党外に持ち出さない」などというスターリン主義的な規定はどこにもなく、むしろ定期的に討論誌を発行して正々堂々と全党討論をやるよう主張しているのです。スターリン時代の規約変更によって、全党討論は、中央委員会が認めた場合と複数の都道府県委員会の要求(分派禁止のもとでは不可能な条件)がある場合にしか認められなくなり、現在の日本共産党の規約もそれを受け継いでいます。
つまり、げじげじさんが依拠している常識、つまり、規約上での分派禁止や党内問題を党外に持ち出すべきではないという認識は、レーニン時代のものではなく、スターリン時代のものなのです。日本共産党中央が今や、社会主義でもなければ過渡期ですらない単なる専制国家であるとしているスターリン時代の組織原則なのです。党中央は、一方では、スターリン時代のソ連が社会主義でもなければ過渡期でもないという極端な規定を与えながら、その時に制定された組織原則を今なお金科玉条のものとして保持しているのは、つじつまが合わないと思われませんか? それとも、単なる専制国家であったスターリン時代は、何ゆえか、その専制の最も重要な道具であった共産党の組織原則においてだけ、レーニンよりも正しく、先見的であったとおっしゃるのでしょうか?
「反党的な分派」と「そうでない分派」とを分ける簡単な指標など存在しませんし、それを決定するのはたしかに容易ではありません。これはどんな問題においてさえそうです。たとえば、私たちの投稿欄は、「誹謗・中傷」のたぐいをお断りしていますが、「誹謗・中傷の投稿」と「そうでない投稿」とを区別する簡単な指標は存在しません。中間的な微妙な投稿はいくらもであるからです。私たちの少ないメンバーの間でさえ、掲載・不掲載に関して意見が分かれるぐらいです。つまり、どんなものにだって、中間的なものはあり、その分類は微妙なのです。
しかし、少なくとも、「反党的でない分派」の条件としては、その分派が、全体としての党を外部からの不当な攻撃から擁護する明確な姿勢を持っていること、党内における分派活動が民主主義のルールにのっとっていること、実践における統一がなされていること、社会主義・共産主義政党の基本目標(たとえば、社会主義・共産主義を目指すこと、支配階級と闘い労働者階級をはじめとする被抑圧人民の解放を目指すこと、等々)を否定していないこと、などでしょう。
次にげじげじさんは次のように述べています。
「また、このホームページを運営することは分派活動ではないし、分派を結成しないともいっています。でも、それは『現在の党員のレベルは、何らかの本格的な分派を結成するような水準から著しく立ち後れているから』、『私たち自身も、体系的な綱領的立場を確立する水準にまで達していません』からであって、将来的には分派を結成する意志(可能性)があることは明らかであり、そのためにこのホームページを開いているのではないですか?」。
この説明は不正確です。私たちは、分派を結成しない理由として、現行規約が分派を禁止していることを最初に挙げています。つまり、党内のルールを守る立場に立っているのです。このルールがある間は、そのルールに従って、分派を結成しないという立場なのです。この立場は何か問題ですか?
しかし、そのルールに異論を表明したり、変更を求めることは、当然、禁じられていません。たとえば、国内の法律にはおかしなものがたくさんありますね。でもそれに従わないと処罰が待っています。しかし、そのおかしな法律に従いつつも、その法律を変える運動や言論は当然守られるべきです。共産党の規約はこれまで何度も変更されています(そのたびごとに制約が増え、集中度が強まっている)。つまりそれは可変的なものです。したがって、規約のあれこれの規定について異論を述べ、その変更を求めるのはまったく党員として当然の権利です。したがって、私たちが、分派を頭から反党的と決めつけて禁止している現行規約を批判することは、当然認められるべきです。
しかし、問題はこのような形式面を越えたところにあります。私たちが、分派を結成しない理由として、単に規約の規定を挙げるにととまらず、他の理由をも挙げているのはなぜか、という問題です。もし現行規約の禁止規定だけが問題なら、その規約が突然変われば、ただちに分派を結成するつもりなのか、ということになってしまうでしょう。私たちの考えはノーです。分派さえ結成すればあたかも党内民主主義の問題が解決するかのように考える発想こそ、ある意味で分派主義的です。問題はより深刻です。
たとえ分派の結成が規約上認められたとしても、党員が、本当に自分の頭で考えそれを表明することができないのだとしたら、そして豊かな党内討論を発展させ、全党の英知を本当に結集した方針を練り上げる能力を持っていないのだとしたら、各分派が結局、各指導部のことを鵜呑みにする小スターリン党になってしまい、結局、全体としての党の統一と団結は守られず、文字通り、分派同士がいがみ合い、足を引っ張り合う状態になってしまうでしょう。いちばん重要な問題は、党員の民主主義的成熟と民主主義的訓練です。共産党は、単に階級闘争と革命のための機関であるだけでなく、「民主主義の学校」「共産主義の学校」(教科書を学ぶ学校ではなく、実地の学校)になる必要があります。
そのためには、私たちが「開設にあたって」で述べているように、全党員が党内での異論の存在を恒常的に知り、その是非を自分の頭で考えること、中央の主張を鵜呑みにせずそれを自分の頭で吟味すること、支部を越えた多くの党員たち(および党外の人々)と多様で節度ある討論を行なうこと、等々のことができなければなりません。そのような訓練を全党員が積み、そのような民主主義的成熟を勝ちとるなら、たとえ分派禁止規定を規約からなくしたとしても、分派闘争に明け暮れて本来の闘争課題がなおざりになるというような事態にはならないでしょう。そして、情勢の大きな転換点に直面して、党内部で先鋭な意見の相違が生じた場合も、党が分裂の憂き目を見ることなく、危機を乗り越えることができるでしょう。
以上の点から、『さざ波通信』が分派を目指すものではないことが、わかっていただけたでしょうか? 分派禁止規定が規約からなくなったときに、はたして私たちが分派を結成するかどうかは、今のところまったくわかりません。むしろ、現在のところは否定的です。抽象的な可能性はもちろんありますが(抽象的な可能性なら、何だってありえます)、それ以上ではありません。
さて、げじげじさんは、最後にこう述べています。
「党の組織上のもっとも基本となっている民主集中制を根本から否定する立場と、その党員であるということがどうして両立できるのか不思議です」。
私たちは民主集中制を否定したことは一度もありません。むしろ、私たちの「開設にあたって」を読んでもらえればわかるように、私たちは、現在の建前上の民主集中制をいかに実質的なものにするかを目標の1つにしています。民主集中制について、よく不破委員長はこう説明していますよね。「みんなで討論し、決まったことはみんなで実践する」と。「党の統一と団結」をやたら強調する人は、この説明の後半だけを強調し、その前提となっている前半部分、すなわち「みんなで討論し」を無視ないし軽視します。
現在の共産党の党内討論は、およそ「みんなで討論し」という状態になっていません。支部ごとの縦割りで討論されており、10人前後の支部メンバー以外でどのような討論がされ、どのような異論があるのか、まったく各党員は知りません。それを他支部の党員に聞くと、規約違反を問われかねません。このような状態にあるかぎり、とても民主集中制の建前は守られていると言えないでしょう。現在の民主集中制は、「指導部が討論して決定し、下部はそれを学んで実践する」というものに変質しています。このような欠陥を是正し、民主集中制を実質化させることこそ、『さざ波通信』の目的です。
げじげじさんは、もしかしたら、「分派禁止=民主集中制」と思われているのかもしれません。すると、レーニン時代のボリシェヴィキは、そのほとんどの時期、民主集中制ではなく、それを根本的に否定する制度のもとにあった、ということになりますね。つまり、第10回党大会以前のボリシェヴィキは、民主集中制を根本から否定しており、党員であることと両立しないような制度のもとにあったと。
それに不破委員長が、世間に対して民主集中制を説明するときは、分派の禁止については言わないのはどうしてなのか、という問題が生じますね。不破委員長は、分派禁止については、聞かれれば擁護しますが、聞かれないかぎり、自分からは言いません。もし「分派の禁止=民主集中制」なら、不破さんは世間に対して民主集中制を説明するとき、何よりも次のように言うべきでしょう。「民主集中制というのは、党内での分派を認めない制度です」と。どうして不破さんはそう言わないのでしょう? それとも、不破委員長は内心ではそう思っているのだけれど、そう説明すると世間の反発を買うから、違うように説明しているということなのでしょうか? もしそうだとしたら、それはそれで深刻な問題であり、民衆をだますことです。
しかし、げじげじさん、たとえげじげじさんが「分派禁止=民主集中制」だと思われていたとしても、私たちは分派禁止の規定を守っており、かつ、分派の結成を目指していないのだから、げじげじさんの基準に照らして見ても、私たちは党員として何ら問題はないと思います。
分派について、民主集中制について、以上、簡単ながら私たちの考えを開陳しました。この問題は非常に重要だと思うので、引き続き議論していきたいと思います。他の党員、非党員の皆さんも積極的に討論に参加してください。