長らくROMしていましたが、げじげじさんと吉野さんとの議論、および編集部S・Tさんからの問題提起を受けまして、ひさびさに投稿させていただきます。
今回、げじげじさんが吉野さんへの反論のなかでおっしゃりたいことは、非常によく実感として伝わってきました。また、現在の共産党がげじげじさんのような心強い支持者をもち、広く支えられているということも改めて実感をしました。
共産党を信頼をできる・できないというのは、げじげじさんがいうようにむずかしいものではなく、「綱領路線と個々の政策、政治姿勢、そして、狭いながらも私のまわりにいる(いた)党員の人々への信頼」という指摘はたいへん説得力があり、的を得た真理だと思います。私のまわりをみても、もっとも献身的に社会に働きかけ、自己の生活はさておき民主的な運動の組織にもっとも力をいれているのは、まちがいなく共産党員たちであり、それは途方もない信頼と説得力があります。私が党に入ったときは、こんなすばらしい組織に自分が入るのはおこがましいと思ったものです。
ただその一方で、そのような善意あふれる人たちが誤りを犯さないかといえば、もちろん人間の組織ですから、誤りは犯すし、それ自体は避けられないものです。問題は、げじげじさんがおっしゃるように「個々の間違いや問題は解決していけばいい」という点です。しかしこれはイメージとして描くと簡単そうですが、いざ実際となるとなかなかたいへんです。およそ善意に依拠するだけではなかなかできるものではない、というのが私の個人的な意見です。
一例をあげますと、この間に何度となく報道されている大阪いずみ市民生協の問題があります。この生協は、民主的運動家が積極的に参加するなかで結成された生協で、平和運動や市民運動でも秀でている生協です。しかし最近、その中心的幹部がたいへんな不祥事を起こしていたことが内部の幹部らの告発でわかりました。その後2年を経て、裁判所から内部告発の正当性を認める仮処分命令が出されたり、『しんぶん赤旗』に不祥事に関係した党員らが厳しく処分されたことが報じられたりしました。しかしこの生協は、とうとう最後まで、不祥事の当事者をみずから追放・処分することや、告発の正当性を認めることができませんでした。その結果、外部機関の処分や法的強制力を甘んじて受け入れざるを得ないという事態になってしまいました。
この生協ほどに運動体として先進的な組織が、大不祥事を生んだだけでなく、自力の更正もろくろくできないというその原因はどこにあるのでしょう。それは、運動体内部の誤りを正すシステム=正しい組織内民主主義がなかった(ない)というです。この組織は問題が起きると同時に、告発された内容よりも告発した行為について「生協運動を破壊するもの」として告発した幹部らを懲戒解雇し、職場内でも組合員組織内でも、いかにこれまでの運動が正当であり、問題は比較的些細なものであったということを、それこそ全組織をあげて意思統一してきたわけです。それができたのはまさに組織が善意で結ばれていいればこそです。しかし結局、その組織の運営や経営は、世間の良識にも劣るような放漫でワンマンなものであったことが外部から指摘され、是正を命令されるようなこととなってしまいました。
この例はいささか極端ですが、しかしながらこれといくらか共通する問題が共産党全体についてもあるのではないかと私は思います。悪意を持っている人なんてどこにもいません。すべてが献身的な活動家です。しかし、この組織は必然的に生じてくる内部のあやまりを自力で正すことができるでしょうか。これはちょっと疑問があります。とくに指導的な立場の人などは、善意から党の団結が重要と考えているために、「方針への疑問」は好ましくなく、指導・教育の対象だと考える傾向はないでしょうか。その結果、会議で出た末端の党員のささいな異論に対して、党の団結のために徹底的に論破したり、善意からとはいえ異論を不当に扱ってはいないでしょうか。(これは「善意のファシズム」の危険があります)。そしてこのような傾向は私たち末端党員も同様で、あえてみずからを律して自分に強いたり、他者に強要しているというような面はないでしょうか。
私は民主集中制の真の発揚、そして現在・過去・将来の党の誤りの克服のためには、この「善意の傾向」は、私たち末端の党員も含めて克服していくべき重要な問題であると考えます。