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「組織論・運動論」討論欄

「統一と団結」を支える認識論について

1999/8/26 れんだいじ、40代、会社経営

 共産党において特に「統一と団結」的組織論が云われる理由の背景には、それを自明の尊重規定として成り立たせる哲学的な意味での認識論が介在しているのではなかろうかと思われます。ちょっとおかしくはないかという観点から投稿させていただきます。
 マルクス主義的な認識論は、あらゆる事象の分析と総合において「唯物弁証法」を内在させることで成り立っていると思います。その理論は、過去のどのような認識論をもしのぐ自然と社会に対する、なるほどともいうべき認識をもたらしてくれることになりました。
 ただし、そのようなマルクス主義的な認識論を駆使するためには相応の博学と実践能力が要求されており、なかなかなことでは世界観・社会観をマルクス主義的には確立しえない。そういうわれわれ凡人に対して、共産党の指導者ともなればマルクス主義的な認識論においても、世界観.社会観においても指導能力においても卓越した第一人者であろうという推定がなされ、これが信頼のバネとなる。指導者にとっては、このバネを強く働かせるのか弱く作動させるのかは掌中にあり、その指導者の資質によって加減されることになる。
 以上を前提にして、われわれが卓越した指導者の能力に帰依しようとする場合奇妙なこと起こる。いわば信頼理論を介在させることになるのであるが、指導者の方からも信頼のバネを強く働かせた場合、指導者は「真理の体現者」として立ち現れてくることになる。このこと自体の是非はわからないが、宗教的な神との帰一思想と何ら変わらないことになってしまう。認識上の内部構造が極めて宗教的なそれと酷似してくるというわけである。違いがあるとすれば、宗教的な認識論は観念論をベースにして「真理」に到達しようとしており、マルクス主義者の方は唯物論をベースにしてそこに到達しようとしているというプロセスの違いということになる。
 左翼運動の歴史に立ち現れたスターリン主義・毛沢東思想・金日成思想等の「統一と団結」および民主集中制的組織論は、こうした土壌に開花しているのでないかと思われる。いわば「神」であり、その虚像は死後でないと露わにされないことになる。何かが違うということはわかるが、理論的に切開しうる能力が私にはない。しかし、ここの部分を解明しないと、共産党に政権を預けてよいものかどうか疑惑が禁じえないことになる。
 日本共産党の場合には少し事情が異なる。カリスマ者はいないからである。しかし、規約と実際の執行部オールマイティーの様子を見れば、何ら変わらない認識上の「真理」観の構図が介在していることに気づかされる。「真理」というのが大袈裟であれば、方針の正しさと言い換えても良い。この正しさは、特に分派摘発・排除の際に露わになる。戦前からの党指導者同志のことごとくすべてが、宮本-袴田ラインによって放逐されてしまった。不破は器用な理論家として働いた。それならそれで、今日の党が隆々とした成長を見せているというのなら納得もしよう。実際は今日ある通り、社会全体は非左翼化・保守化傾向である。どこかがおかしい、怪しい。そして、にもかかわらず相も変わらぬ団子団結万歳精神が息づいている。
 私の思想的営為は、寿命理論から格闘して見ようと思っている。仮に「真理の体現」が出来たとしても、たかだか稼働人生50年の幅でしかないという現実から迫ってみたいと思ったりしている。しかも体調不良ならせっかくの「真理の体現」も機能しないという弱さ儚さを持った未完成の面で捉えてみたいと思っている。
 もう一つは、DNA理論から格闘してみたいと思っている。皆めいめい気質が違うということをマルクス主義の認識論の中に整合的に入れて見たい。親子・兄弟でも一筋縄ではまとまらない背景に、環境のみならずDNAの違いも見てみたいと思うから。そういう社会的人士を糾合して党をつくった場合、まとまって当たり前なのではなくて、まとまらないのが当たり前であってそれをどの程度までまとめえれば適正かというソフトな組織理論が欲しい、と思っている。しかしなんだなぁ。そうはいっても今日もまた一杯飲むかもしれない。